4 彼氏が魔王化した
R15注意、ヤンデレ注意
「あの…… 怪我…… 大丈夫だった?」
「……怪我?」
拭きながらゼウスが躊躇いがちに声をかけてきたが、考え事をしていたナディアは最初何のことかわからなかった。
「俺が斬ってしまったから…… 痛かったよね、本当にごめんね……」
ナディアは首を振った。
「操られてたからだって聞いたから…… それに、ゼウスじゃなかったら、今頃私は生きいてないと思う。
すぐにオリオンに治してもらっ――――」
「『オリオン』? 誰だ?」
ナディアの言葉に被せるようにゼウスが声をかけてきたが、いきなり緊迫感のある口調になっていたので、ナディアはそこで驚いて口を噤んだ。
たぶん、一番隊所属のゼウスは二番隊にいる『オリオン』のことは知らされていないのだろう。ゼウスは「シリウス=オリオン」とは思っていないらしい。
ナディアはそのことを指摘しようとしたが―――― はたと、喉まで出かかった言葉が止まった。
(言えないわ…… 死んじゃうかもしれない)
ナディアは、『ブラッドレイ家の秘密』を誰かに話したら即死、という恐ろしい『呪い』にかかっている。
「シリウス=オリオン」というのがその『秘密』の範疇に入るのか、それとも違うのか、確証が持てず、下手なことは言えない状態だ。
「……メリッサ、そういう男友達がいるなら、ちゃんと俺に報告しておかないと駄目じゃないか」
ナディアが黙っていると、ゼウスがそんなことを言ってきたが、何だか醸し出す空気感が暗黒風だし圧も強い。
「それに、ノエルの兄さんのシリウスさん? とも、オトモダチだったなんて、俺はあの時まで全く全然そんなことは知らなかったよ……
あの時は、メリッサを斬ってしまった俺が全面的に悪いけど、それでシリウスさんも怒らせてしまったみたいだけど、でも、シリウスさんが躊躇わずにメリッサに人工呼吸を施すくらい、二人がとても仲が良かったなんて、ちょっと妬けちゃうよね……
言ってくれれば俺がしたのにね、ふふふ」
最後の「ふふふ」が、清廉な空気を纏っていて凛々しかったはずのゼウスに似つかわしくもなく、退廃的でおどろおどろしい気配が大部分だったように思えたのは、気のせいか――
「でも、シリウスさんがメリッサを『俺の女』って言ってたのには、ちょっと物申したいよね。
メリッサは俺のものなんだからさ。
いくらシリウスさんの心が女の人だからって、身体の性別は男なんだから、すごく仲の良いトモダチだとしても、適切な距離は保ってほしいよね」
どうやらゼウスの中では、「キスマーク=虫刺され」「キス=人工呼吸」「シリウス=心は女の人」という脳内変換がされているようだ――
いや、それとも、ゼウスはナディアがオリオンと浮気もどきの行為をしたことを、ぜーんぶわかっていて、当てこすりのような形でそんなことを言い出しているのだろうかとも思ったが、ナディアでは判断がつかなかった。
ナディアは、妙なことを言い出したゼウスが半分くらい狂ってしまったのだろうかとも思えてきて、一度は引っ込んでいた涙がまた目尻に溜まり始め、ちょっと手足がカタカタ震えてきてしまった。
「ごめんなさい…… もう、会わない…… 会わないから…… 許して……」
「会わない? 何で? トモダチなんだろう? 会えばいいよ。友達とも自由に会えないだなんて、俺、別にそこまでガチガチにメリッサを拘束して、苦しめたいわけでもないんだよ?」
ゼウスの顔には優しい微笑みが浮かんでいたが、ナディアはその笑みを怖く感じた。
「………………それとも…… 俺はメリッサのこと信じてたんだけど、信じたいんだけど…………」
ゼウスは寝台上に座り込んでいるナディアの腕を痛いくらいの力で掴んできた。
「……まさかこれ、キスマーク?」
ゼウスが掴んでいる腕やそれ以外にも痕がついている。
ナディアは俯いたまま何も言えなかった。キスマークなのは本当だったから。
「ねえ、否定しないの? メリッサ」
いつもの、耳に心地良いゼウスの爽やかな声のはずなのに、声のほとんどが濁ってるように聞こえた。
「ごめんなさい……」
ゼウスに圧倒されるばかりのナディアは、蚊の鳴くような声でそれだけを絞り出した。
でもその返事は、疑惑を肯定したのと同じだった。
トン、とゼウスがナディアの胸を押した。ナディアはゼウスにされるがまま、力なく寝台に仰向けに倒れた。
天井を見つめるナディアの視界の端にゼウスの姿が入ったが、背後から後光ではなくて暗黒闘気でもまとっていそうなゼウスの様子を受けて、とてもじゃないが正視できなかった。ナディアの視界自体も溢れる涙でぐにゃぐにゃである。
ゼウスの雰囲気は、まるで物語に出てくる魔王様のようだった。
怒りを隠そうともしないゼウスは、これまで聞いたこともないような、ドスの効いた緊迫感のある低い声で、ナディアに言い放った。
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