137 真っ黒
ナディアは滞在していた街でそのまま部屋を借りて暮らすことにした。別の街へ行くのにもまたお金がかかるし、どこへ行っても同じならここでいいと思った。
ロータスたちの所へ帰ることも何度か考えた。あそこならばきっとずっと匿ってもらえる。けれど、せっかく出てきたのだからやるだけやってみたい気持ちもあった。もしも上手い具合に仕事が見つからなかったら、その時は帰ろうと思った。
ナディアは不動産屋に入り、安い集合住宅の物件を見つけてそこに住むことにした。
(ゼウスについては後悔ばかりだけれど、やると決めたのだから前を向かなきゃ)
もしも次ゼウスに会ったとしたら、その時は――――
その時は――――――
新居を住みやすいように整えている間も、ナディアが考えるのはゼウスのことばかりだった。
住むに当たって当面必要なものは揃えたし、あとは仕事を探すだけになった。
自分の新しい人生のために仕事探しを始めようと決めていたその日、ナディアは朝早くに目覚めた。とりあえず着替えた後に、朝の爽やかな空気を取り入れたくて部屋の窓を開けた。
外からは小鳥たちの鳴き声が聞こえていたが、窓を開けた先、ベランダの手すり部分にいたのは、小鳥ではなくて少し大きめの黒い鳥だった。
鳥には詳しくないので種類まではわからないが、その鳥はなぜか嘴に紙を咥えていた。
鳥はナディア向かってしきりに嘴を突き出していて、まるで取れと言っているようだった。
ナディアは不思議に思いつつ鳥に近付いて紙を受け取った。それは封書になっていて、手紙のようだった。黒い鳥はナディアに手紙を渡すと、そのまま何処かへ飛んでいってしまった。
何だろうと思いながらも、ナディアは封を開けてみた。中には便箋が一枚だけ折り畳まれて入っていたが、何も書かれていなくて、白紙だった。
けれどナディアはその謎の手紙に疑問を感じることなくじっと見つめていた。封を開けた時から香る、彼本来の匂いに気付いたから。
白紙だったはずの手紙に、黒いインクでいきなり文字が浮かび始めた。
『罪深きナディアちゃんへ
君が俺を置いていってしまってからしばらく経つね。俺は君を片時も忘れたことはないけど、君はどうなのかな?
君は、それでもやっぱりあの男のことばっかり考えてるんだろ? どうせ一番は俺じゃなくて、あいつなんだろ?
あの男との間に何があったのか、俺は全部わかるよ。でもそれでも、最後に君の番になるのが俺なら―― すごく嫌だけど、本当に本当に嫌だけど、そんな君を丸ごと受け止めるしかないと考えていたんだよ、あの時までは。
あの時、俺と一緒にいることを選ばなかった君のことが、どうしても許せない。
だから君に関わるのをやめたい。君のことを嫌いになりたい。君のことを忘れたい。でも無理なんだ。俺の呪いはもうずっと解けない。
君を愛している。愛している。愛している。愛している。愛している。愛している。愛している。愛している。愛している。愛している。愛している。愛している。愛している。愛している。愛している。愛している。愛している。愛している。愛している。愛している。愛している――――――――』
手紙がインクで全部真っ黒になって、言葉が書き連ねる部分がなくなってしまっても、紙面はまだ蠢いていて、文字が追加されているようだった。
「オリオン!」
ナディアがいるのは三階。見下ろす街道の先に、黒い服を着た茶色い髪色の少年の姿を見つけたナディアは、叫んでいた。
この距離では彼の表情まではよくわからないが、声は届いたはずだ。
けれど彼は踵を返して、建物の影になる細い街道に入って、行ってしまった。
「待って!」
ナディアは真っ黒になった手紙を握りしめたまま、部屋の外に出て階段を降り、外へ向かった。本当はベランダから飛び降りたかったが、できないのをもどかしく感じた。
追いかけてどうしたいのか、自分でもよくわからなかった。
ただ、謝りたいと思った。傷付けたのは確かだと思ったから。
オリオンの気持ちに正面から向き合わず、ずっと傷付けてきた。
獣人と疑われない範囲で急いで走るが、オリオンが消えた街道に入っても、彼はいない。匂いを探ろうとしても、オリオンは匂いを魔法で消したらしく、後を追えなかった。
ナディアは戻ってきてほしいと願いながら声を張り上げた。
「オリオン!」
返事はなかった。
それきり、ナディアが銃騎士隊に捕まるまで、シリウスが彼女の前に姿を見せることはなかった――――――
冬が過ぎて、春も去ろうとしている頃、ナディアはオリオンと最後に会った街にまだ住み続けていた。
あの後、ナディアは運良く家庭教師の職を見つけることができた。裕福な家の子どもたちに気に入られて、就学前の彼女たちに読み書きや計算などを教える仕事をしていた。
人に物を教える仕事はそれなりに楽しかった。あれからオリオンともゼウスとも会うことはなく、獣人だと疑われるようなことも起こらず、この街に移った当初に想定していたよりは、ナディアは随分と平穏な日々を過ごしていた。
「嘘……」
仕事が休みのその日、買い物に出ていたナディアは、驚きの光景を目にしてしまって思わず呟いていた。
咄嗟に、こちらに気付かれてはまずいと思って物影に隠れ、気配を殺しながら彼らを観察する。
少し離れた所で仲良く並んで歩いているのは、可哀想なほどに父に執着されて全く自由がなかったはずの元異母姉ヴィクトリアと、首都にいた頃にゼウスに紹介されて会ったことがある、銃騎士のレイン・グランフェル先輩だった……
ナディアにとっては意外な組み合わせだった。
ヴィクトリアが銃騎士隊に捕まったのかと思ったが、それにしては枷などはつけられてないし、何より二人の雰囲気は仲睦まじく、まるで恋人同士のように見えた。
これは一体どういうことなのか? もしかしてヴィクトリアがレインの獣人奴隷になってしまったのだろうかと思い、遠くて嗅ぎ辛い所を何とか集中して探ってみるが、二人はまだ番になっていなかった。
獣人奴隷になっても、必ずしも身体を奪われるわけではないと思うが、しかし……
ナディアは落ち着いて二人の様子を観察しながら、もしかしたら父は死んだのではないかと思った。
近くに父の気配はないが、あの父がヴィクトリアが男と連れ立って歩くのを許すはずがない。この状況は、父が死ぬか銃騎士隊に捕まりでもしない限り、起こるはずのない光景だった。
号外が配られる前だったこともあり、この時のナディアは父親が捕まったことをまだ知らなかった。
由々しき事態が起こりかけている気がして、ナディアはそのまま去ることは出来ず、こっそりと彼らの後を尾行した。
そうこうしているうちにレインがヴィクトリアの腰に手を回してキスをしたので、ナディアはかなりびっくりした。
(姉様に何してるのよ!)
瞬間的に尾行していることを忘れて強い視線を彼らに向けてしまい、慌てて気配を消すが、ヴィクトリアは何かを感じ取った様子で周囲を警戒していた。レインはキスの余波で色ボケでもしていたのか、気付いていない様子だった。
(危ない危ない……)
ナディアは彼らに気付かれないようにとりあえず心を落ち着かせた。
レインはキスの直後くらいからねっとりと絡みつくような視線をヴィクトリアに向けていて、ナディアは背中がぞわっとした。
(視線だけで孕まされそうよ、なにあれ……)
ナディアは危機感を募らせたが、ヴィクトリアはレインの危うい雰囲気に全く気付いてない様子だった。ヴィクトリアはレインからのキスを嫌がるどころか、嬉しそうにして笑顔まで浮かべている…………
たぶん、父がヴィクトリアから男を遠ざけすぎたせいで、男性の劣情には鈍感というか、箱入り娘のようになってしまって、世間ズレしていないのだろうと思った。
「……」
ナディアは尾行を続けながら考える。首都で会った時に常識人のように見えたレインの印象は、鳴りを潜めていた。今の彼はヴィクトリアへの情欲に加えて、仄暗く強い執着の感情まで垣間見えて、危険な存在に思える。
どうしてこういう経緯になったのかはわからないが、とにかく、ヴィクトリアは悪い銃騎士に騙されかかっている、という結論を直感のような形でナディアは導き出した。
これはおそらく乙女の危機だ。ならば、ナディアの行動は、「助ける」一択だ。
(里にいた頃に力になってやれなかった後悔を、今ここで生かす!)
昔感じていたようなヴィクトリアに対する苦手意識は既に消えていた。むしろ、彼に似ているヴィクトリアを守らなければと思った。
ナディアは慎重に尾行を続けながら、ヴィクトリア救出作戦を頭の中で練り始めた。
【第一部 本編了】
ナディアのその後の行動は「獣人姫は逃げまくる…」の対銃騎士隊編の「43 危機一髪」の後半あたりから読むとわかります
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