135 見てるよ
ヤンデレ注意
年の瀬。もうすぐ色々あった一年が終わる。
ナディアは兄一家に見送られて最寄りの馬車の停車場まで来ていた。最寄りと言っても近所の牧場主から借りた馬車で二時間はかかる所にある。ここからまた半日ほど馬車に揺られて、駅がある街まで行くのだ。
ナディアは独り立ちすることに決めた。年が変われば新年に合わせて職が増えてくるのではないかと思ったからだった。最初ロータスたちには反対されたが、嫌な夢は見なくなったし、もう一度人間社会の中で揉まれてみようと思った。
――――私、やっぱり人間が好きだから。
独り立ちしたい理由を最後に笑ってそう話すと、ロータスもマグノリアも無理に引き留めようとはしなかった。
「いつでも帰ってきていいんだからな」
やって来た馬車に乗り込む直前、ロータスに手を取られて心配そうに声をかけられた。異母兄ロータスとは十歳も年が離れているから、兄妹というより親子みたいな感覚に近い。今は姿替えの魔法で本来の姿ではないが、ナディアはロータスの中に父の存在を重ねた。あの人も同じくらい自分のことを心配してくれたら良かったのにと少しだけ思った。
「うん、ありがとうロイ兄さん。皆も元気でね」
「おねえちゃん……」
マグノリアの腕の中にいるカナリアが涙ぐんでいる。敏い子なのでナディアが遠くへ行くことがわかっているようだ。カナリアはよく懐いてくれたから、離れるのはナディアも寂しい。
「また会いに来るから」
ナディアはカナリアの頭を撫でてから馬車に乗り込んだ。荷物は身の回りの細々としたものや、下着を含む数着の着替えが入った大きめの手提げバッグが一つだけだ。
首都から持ち出したトランクは南西支隊に置いてきてしまって、そのままだった。
リンドから貰った現金が惜しいのだが、取りに行くわけにもいかなかった。
人間への恐怖心が薄らいだ頃から医院の手伝いをするようになり、少ないけどと言われながらも手当てをもらっていた。それから餞別としてロータスとマグノリアからも幾らか渡されたので、独立に際しての資金にはそれを当てようと思った。
それでも長くは保たないだろうから、早めに定住地を決めて何か仕事を見つけようと思う。
部屋を借りるのは身分証の提示が必要になるが、そこはマグノリアが魔法で『アイリーン・ランドール』という偽の身分証を作ってくれた。しかし時間が経つと込められた魔法の効果が消えて札に戻ってしまうそうで、身分証そのものを提出するとなると使えない。その場で見せて確認する場合ならば使える限定的なものだ。
「住む場所が決まったら手紙を書いてね。会いに行くわ」
「うん!」
マグノリアの言葉にナディアが頷く。動き出した馬車の窓からナディアも手を振り返して、兄一家と別れた。
辿り着いた駅から出ている寝台車に乗って翌日も移動に費やす。昼過ぎ頃に目星をつけていた街までやってきた。木を隠すなら森の中というが、比較的大きな大都市であるこの街ならば、人間として溶け込みやすいだろうと思った。
仕事もだがとにかく住む場所だ。数日くらいなら宿を取ってもいいが、節約のためには早めに住処を決めた方がいい。
ナディアは列車の外に出た。真冬は冷える。外套を掻き合せ、年の瀬のどこか浮ついて忙しない駅の構内を人の流れに添って歩きながら、ナディアはその匂いに気付いてピタリと足を止めた。
「ゼ、ウス……」
忘れるはずもない、ずっと忘れられなかった愛しい人の匂いを嗅いで、一緒に過ごした甘い思い出と共に愛しい気持ちが蘇る。
人波の向こうにいるゼウスは、私的な時間であるらしく、隊服ではなくて私服を着ていた。
駄目だと思いつつ、ゼウスへの思いが溢れてしまって、ナディアは彼から目が離せなくなる。
(でも、南西列島にいるんじゃなかったの? どうして内地にいるの……?)
銃騎士の姿でなくてもゼウスは目立つから、彼の周囲では何人かの女性たちが立ち止まり、距離を取りながらもゼウスを見て色めいていた。
駅員に話しかけているらしきゼウスは、片手にトランクを握っている。
――――そのトランクは、南西列島に置いてきたはずのナディアのトランクだった。
「……ええ、この貼り紙を構内に掲示していただきたいのです」
そう言ってゼウスが駅員に差し出した紙――――手配書には、髪の長いナディアの写真が載っていた。
「銃騎士の方のご依頼でしたら構いませんけども、しかし、随分と特徴がないというか、獣人にしては不美人とでも言いますか、普通にそこら辺を歩いていても気付かれなさそうな獣人ですね」
「……そんなことありません。可愛いです」
写真に写るナディアの容姿について駅員が思ったことを述べているが、ゼウスがちょっとムッとした表情になって言い返すので、駅員は不思議そうに首を傾げていた。
(ゼウスが…… 私を探している………… 可愛いって言った…………)
ふらふらとゼウスの元に吸い寄せられるように足を踏み出したナディアだったが、大きな音にビクリと驚いて足を止める。
ナディアの視線の先では、特徴のない男が急ぎ足で通り過ぎていたのだが、その際にゼウスに体当たりするような形になっていて、ゼウスが掴んでいたトランクの中身が下に落ちてぶちまけられていた。男はよほど急いでいたのか、謝りもせずにその場から去ってしまった。
トランクから出てきたのは――――手枷、手枷、鎖、足枷、鎖、鎖、手枷、足枷………… 禍々しいほどの量の拘束具の数々だった。全てが金属製の冷たい色をした、獣人用と思われるものばかりだ。
獣人を捕らえる時のために銃騎士が拘束具を持ち歩くこと自体はおかしな話ではない。しかし、それにしたってせいぜい二、三個ほどだろうし、トランクの中身丸々一個分だなんて、量がおかしすぎる…………
「獣人用のですか? すごい量ですね」
地面に落ちた拘束具を拾うのを手伝いながら、駅員が感心したような声で訊ねている。
「いいえ、これらはメリッサ専用です。必ず捕まえたいんです。捕まえて――――――
殺したい」
涙で目の前がよく見えない。逃げなきゃ、そう思った。
(駅の構内に突っ立って泣いている女がいたら流石に目立つ。逃げなきゃ)
わかっているのに、ナディアはその場から動けなかった。
(あの人はもう私が知っているゼウスじゃない。甘くて優しいゼウスはもうどこにもいない。どこにもいなくなったんだ。私がゼウスの大事な部分を殺してしまったんだ。きっと私が優しかったあの人を変えてしまったんだ…………)
ナディアはその場に蹲って泣き始めた。声でゼウスに気付かれたとしても、あの人に捕まって殺されたとしても、それが自分への罰だと思った。ナディアは自分の感情の赴くまま、大粒の涙を流し続けた。
けれどゼウスはおろか、行き交う人々の誰もがナディアを気にかけることはなかった。
ナディアの周囲に薄い膜のような壁が出来ていて、彼女の泣き声や、その姿すらも、全てを覆い隠していた。涙するナディアの声はゼウスには届いていない。
魔法だ。
少し離れた柱の影から、泣き崩れているナディアの姿を見ている者がいた。
その者は茶色い髪色をした少年の姿をしていたが、少し前までは、ゼウスに体当たりをしてトランクの中身をぶちまけさせた男の姿を取っていた。
彼はじっと―― ただじいっと、泣いているナディアの様子を見つめていた。