123 思い、届かず
ナディア視点→シリウス視点
ある日――――
それは少し天気の悪い日の夜だった。
波の音を聞いて、ナディアは寝台の上で眠りから目覚めた。隣に目をやれば、雲間からの月明かりに照らされて、自分の手を握っている男がいるのが見えた。白金髪のその男は、美しすぎる寝顔で、整いすぎた寝息を繰り返しながら眠り続けている。ナディアが目覚めたことには気付いていない様子だ。ここの所ずっと自分の世話をしてくれていたから、きっと疲れているのだろう。
そう、疲れてしまったのだろう。
ナディアは起き上がった。
「…………ごめんね、オリオン」
久しぶりに発した声は小さくかすれていた。ナディアは自分の手を掴んでいたオリオンの綺麗な指を一つ一つ外して、彼から手を離した。
寝台から降りたナディアは、裸足のままの覚束ない足取りで、開かれていた窓を越えて外へ出た。
波の音が絶え間なく続いている。
海からの湿った風が吹き、天上の雲が流れて月を隠してしまえば、周囲は闇に包まれる。
雲が覆った空では星の瞬きは見えないし、光を失った夜の時間帯では、昼間の青い空の色などわかるはずもない。
闇の中でも、潮の匂いを嗅げばやがて海辺へと辿り着いた。
周辺にはナディアが砂を踏む音と、やはり打ち寄せる波の音が響いている。
パシャリ、と小さな波がナディアの素足にかかった。彼女はそれを気にする素振りもなく、バシャバシャと音を立てながら、真っ直ぐ海原へ向かって進んで行く。
ザバン、と歩を進める度にナディアの身体にかかる波が大きくなり、水音も大きくなる。
服を着たまま腰の辺りまで水に浸かった時、不意に人の気配を感じて、ナディアは歩みを止めた。
「やめなさい」
それは今一番聞きたい男の声でも、ここ最近ずっとナディアの面倒を見てくれていた男の声でもなかった。
見知らぬ女の声だ。
ナディアは驚き、全身を緊張させながら振り返った。視線の先にいたのは、知らない人間の女だった。
雲が動く。切れ間から差し込む月光によって、夜の闇の中からその人物の姿が浮かび上がってくる。
その人は長い黒髪と黒い瞳を持ち、どこか異性を惹きつけるような色香を感じさせる、自分よりは幾らか年上に見える若い女だった。人間なのに獣人の自分よりも美しと思える女に出会うのは何度目だろうか。彼女の理知的に見える瞳の奥は凪いでいて、落ち着いた雰囲気があった。
「大丈夫よ。私はあなたを裏切らない」
突然の見知らぬ女の出現に固まるナディアに向かって、彼女はそう語りかけた。
戸惑うナディアの頭上からポツリと、一つ雨粒が落ちてきた。
天気は崩れかかっているようだった。
******
雨音を聞いて、シリウスは眠りから目覚めようとしていた。
窓を締めなければと思いながら、隣にいるはずの温もりに手を伸ばそうとして――――彼女がいないことに気付く。
一気に覚醒したシリウスは飛び起きて、すぐにナディアの居所を探った。けれど彼女は狭い家の中のどこにもいない。
寝室に立ち尽くしたままのシリウスの視線が窓に向けられる。外では強めの雨が降り注いでいて、シリウスの不安を煽るようにカーテンが風に揺られてはためいていた。
「ナディアッ!」
叫んだシリウスは鬼気迫る勢いで外へと飛び出した。
やがて全身がびしょ濡れになりながら海辺に辿り着いたシリウスは、そこからのナディアの足取りを見失ってしまった。
ナディアはその島から忽然と姿を消した。