115 ゼウスの過去
【注意】残酷な内容や惨殺死体等が出てきます
ゼウス視点
『――――あなたはあの子に騙されているのですよ。早く目をお覚ましになって』
(メリッサが獣人、メリッサが獣人、メリッサが獣人…………)
ゼウスは驚愕の表情のまま、何も言えずにいた。
固まる彼の脳裏に、ある光景が蘇る。
『ゼウス……』
記憶の中にいるかつての恋人イザベラが、弱々しい声でゼウスの名前を呼んでいた。
目の前に横たわるのは簡易的な寝具に寝かせられ、血の滲む包帯を頭に幾重にも巻かれた幼馴染の姿だった。
高熱を出して痛みに苦しむイザベラの顔色は真っ青で、ゼウスは何度も何度も自分が彼女に代わってその苦しみを引き受けてやりたいと思った。自分の命を彼女のために捧げても構わないから、イザベラに生きていてほしいと願った。
故郷の街が獣人の襲撃に遭った時、ゼウスは周囲の者たちに促されるまま、姉と義兄ウィリアムと共に獣人たちから逃げ出した。
ゼウスはこの時の行動を、一番の親友だったはずのイザベラの元へ行かなかったことを、その後もずっと何度も何度も何度も繰り返し後悔していた。
どうして自分は、彼女が最も恐怖し苦しんでいる時にそばに居てやらなかったのだろうと、長い間自分を責め続けた。
致命傷を負い横たわるイザベラに掛けられた毛布の腹部あたりには、血が滲んでいる。痛々しいが、毛布を取るともっと悲惨な状態で、身体に穴が開いた箇所にいくら包帯を巻いても、所詮は気休め程度にしかならないようだった。
街は壊滅状態。治療を求める人は大勢いて、頼んだ医者は時間を置いてやっと来てくれたものの、現状では手の施しようがないと首を振るばかりだった。
イザベラは手術をしなければならないほどの酷すぎる状態だったが、必要な薬や器具は全く足りておらず、出来ることといえば痛み止めを処方するくらいで、根本的な治療は無理だと言われてしまった。それほど長くは保たないだろうと医者には告げられた。
その宣告を本人には聞かせていなかったが、聞かずとも死期を悟っていたのか、イザベラは、ただ、「早く楽になりたい、早く死にたい」と、そんなことを繰り返し溢すばかりで、全てを諦めてしまった彼女の痛みと苦しみと悲しみに、胸が張り裂けそうだった。
ゼウスはイザベラに生きていてほしかった。彼女が生きたいと願う拠り所になりたかった。自分の気持ちを自覚したこともあって、こんな時にと思いながらも、いや、こんな時だからこそ、ゼウスはイザベラに、「大好きだから恋人になってほしい」と告白した。
イザベラはそれまで意識が朦朧とした状態だったが、その時だけは生き返ったように瞳を輝かせていて、とても嬉しそうにしてくれた。
二人は恋人になったが、数日を置いて彼女の容態が急変する。
『ゼウス、私、死にたくない…… 死にたくないよ…………』
高熱に浮かされて、泣きながら訴えるイザベラを抱きかかえながら、ゼウスも泣いた。
『ゼウスと…… いつまでも、ずっと、一緒に…… 生きていたい…………』
イザベラがそう言って、『俺もだよ』とゼウスは返した。
それが彼女との最期の会話になり、彼女から聞いた最期の言葉になった。
昏睡状態になったイザベラの意識が回復することはなく、襲撃で亡くなった多くの者たちと共に、彼女は故郷の土に葬られた。
『いやぁぁぁぁっ! 義兄さん! ウィル義兄さん!』
『姉さん! 駄目だ! 見ちゃ駄目だ!』
これはイザベラが死ぬよりも数日前の記憶――故郷の街を獣人たちが襲撃した日の、翌日に起こった出来事だ。
その場所では血の匂いと共に幾つもの亡骸が惨たらしく転がっていた。泣き叫びながら前に進もうとする姉のアテナを、それ以上は行かせないようにと、ゼウスもまた泣きながら姉の身体に抱きついて、必死で止めていた。
襲撃の日――姉と義兄ウィリアムの結婚式が行われるはずだった日の前夜――ゼウスと姉と途中まで一緒に逃げていた義兄は、イザベラが無事に逃げたかどうかを確かめに行くと言い出したゼウス止めて、自分が代わりに行くと言った。
義兄とはそこで別行動をすることになったが、彼がその後帰ってくることはなかった。
襲撃の翌日、義兄の亡骸が発見されたと聞きつけて、現場へと走り出した姉を追って街中の公園へと赴けば、そこでは凄惨な光景が広がっていた。
義兄以外にも、何人もの街の人々が酷い殺され方で亡くなっていて、この世の終わりみたいな光景だった。
義兄の身体は、木に逆さ吊りにされた状態で首が切断されていた。身体中の血液が吊るされた真下の地面に落ちていて、そこにあった草花が赤黒く変色していた。
消えてしまった義兄の頭部は吊るされた木の天辺に突き刺さっていた。顔面は誰だかわからないほどにぐちゃぐちゃにされていたが、髪の色と、それから髪を片側だけ伸ばして逆側は刈り込んでいるという特徴的な髪型から、それが義兄であるとゼウスはすぐにわかった。
義兄の舌が引っこ抜かれて目玉はくり抜かれていたことは、その日ではなくて後から知った。義兄の舌は遺体の近くにあったが、片目はその後どこからも見つからなかった。
義兄の左手の指には、襲撃さえなければその日姉と結婚式で愛を誓う時に使うはずだった指輪がはめられていた。
義兄は元々は近所に住んでいた人だった。この街は以前も獣人たちによる大規模な襲撃を受けていて、その時にゼウスたちの両親は亡くなり、義兄の家族も皆亡くなっていた。
助け合おうと思ったのかそれとも気の毒に思ったのか、義兄は子供だった自分たちを引き取ってくれて、一緒に暮らすようになった。
その時まだ十代だった義兄が学校を辞めて働いてくれたからこそ、二人がお腹を空かせたり寝床に困るようなことにはならなかった。けれどあまりお金がなかったから、姉と義兄の結婚指輪はとても簡素なものだった。
不幸中の幸いとでも言えばいいのか、そのために二人の愛の証だけは、獣人たちに持って行かれずに済んだ。
『義兄さん! ウィル義兄さん!!』
もうこれ以上何も見るなと、ゼウスは泣き叫ぶ姉の視界を塞ぎたくて、暴れる姉の顔を胸の中に抱き締めて視界を覆った。
けれど塞いだ所で目の前の光景は変わらない。姉は酷い殺され方をした義兄の亡骸を見てしまっていた。
無事だった街の人たちの働きで、義兄や他の被害者たちの遺体がそこから運び出される頃には、姉はただ力なく項垂れて慟哭するばかりであり、ゼウスはそんな姉を抱き締めて共に泣くことしか出来なかった。
ゼウスはこの時に、こんな酷いことをする獣人たちへの強い憤りと殺意を、再び胸に宿した。一度目は両親が死んだ時で、義兄ウィリアムと恋人イザベラの死を経て、その思いはさらに強固なものになっていく。
ゼウスはイザベラだけではなく義兄のこともずっと悔いていた。姉が義兄の死についてゼウスを責めてくることはなかったが、それが余計に辛い。
あの時、イザベラのことが心配だったのなら、本当は義兄ではなくて自分が行くべきだった。そうしておけば少なくとも、義兄は死なずに済んだのではないか――
義兄が生きてさえいれば、姉はハンターにもならずにそのまま結婚して、今頃は子供でも生まれて幸せな家庭を築いていたのではないか――――
姉は自分が成人して結婚するはずだった日に、愛する人の惨殺死体を見てしまった衝撃で、以降、血を見るのが全く駄目な時期があった。以前は自分の月のものでさえ見ると寝込んでしまうほどだった。
姉はその後出会ったわりと博識なノエルの提案で、心理療法なるものを試し続けた結果、最初の頃よりは血への恐怖心が改善してきている。
姉はずっと、「私はきっと出血を伴う出産なんてできないから、子供は産めないと思う」と嘆いていたが、月のものの血を見ても大丈夫になった頃には、「これで私も結婚できるわ!」と喜んでいた。
ゼウスは『姉に幸せになってほしい』と、心からそう願っている。だからゼウスは、姉が義兄の死を乗り越えて真実幸せになるまでは、姉を捨てて行く選択をしたアスターを、絶対に許さないと決めている。
脳内に過去の出来事を回想したゼウスは、その時感じた強い怒りを今再び蘇らせていた。
銃騎士養成学校に合格した日、そして正式に銃騎士隊の一員となったあの日に、『必ずや悪しき獣人を駆逐して平和な世の中を作り出す』と、自らに誓った思いが蘇る――――
ゼウスは気付けば、腰にあった剣を抜刀していた。
「ゼウス、私…… あなたの――――――」
彼女が伝えようとしていた言葉は途中で消音化されてしまい、ゼウスの元には届かなかった――――