98 次期宗主ジュリナリーゼ・ローゼン
ジュリナリーゼ視点→ナディア視点
緩やかに車輪の回る音と蹄の音が心地良く響く。
暖かな日差しの下で揺れる馬車の中、次期宗主ジュリナリーゼ・ローゼンは寝転ぶ婚約者の頭を膝上に乗せていた。
久しぶりに会えた大好きすぎる人の整った寝顔を見つめることができて、ジュリナリーゼはこれ以上なく幸せだった。
さらさらな彼の白金髪の毛を指で梳いてその感触にうっとりとしていると、彼が突然ぱちりと瞼を開けた。宝石のようなキラキラしい紺碧の瞳と目が合う。
自分の方が年上なのだからしっかりしなければと思いつつ、彼と目が合うとそれだけで思いが込み上げてきて、心の中で希望の花が咲き乱れたような気持ちになり、嬉しくて顔を締まりなく緩めてしまう。
ジュリナリーゼは婚約者の名を呼んでから「おはよう」と声をかけた。
彼は寝たまま、ドレスの上からジュリナリーゼの太ももを撫でさすっていたので、狸寝入りなのはわかっていた。
けれど、大好きな恋人の目覚めを祝福するつもりで、ジュリナリーゼは自然と溢れる笑顔のままで挨拶をした。
「うん、おはよう」
彼もジュリナリーゼに負けず劣らずの極上の笑みを見せてくれた。それだけでジュリナリーゼの心は洗われる。
(好き。大好き。永遠に好き)
彼が起き上がり抱きついてきた。彼はジュリナリーゼの唇に軽い音を立てて口付けた後、ドレスの胸元あたりに自身の顔をむぎゅっと押し付けてきた。
彼は顔面でジュリナリーゼの胸の感触を確かめながら、深い呼吸を繰り返して思うがままにジュリナリーゼから香る匂いを嗅いでいるようだった。
「リィ、デート中にごめんね。お願いがあるんだけど、聞いてくれる?」
「もちろんよ」
胸から顔を上げた婚約者が少し首を傾けつつ、やや甘えたような声を出してくる。ジュリナリーゼはお願いの詳しい内容を聞く前から、即肯定の返事をした。
ジュリナリーゼはこの恋人のためなら何でもする。何でも許す。
「ちょっと寄りたい所ができたから、行き先変更してもいい?」
******
「皆さん! あちらをご覧になって!」
そう叫んだ令嬢が通りを指差す。ナディアもつられて示された先を見た。貴族たちからは黄色い声が上がり始める。
「ローゼン公爵家の馬車だ!」
彼らが見つめる先では、薔薇の家紋があしらわれた四頭立ての立派な馬車が、こちらに近付いてきていた。
馬車の周りでは、煌びやかな飾りの施された紅い隊服を着込み、騎乗した近衛隊員たちが厳重に配置されていた。
「こちらへいらっしゃるわよ!」
近衛隊と馬車が古書店跡の敷地へと入ってくる。それまでいた貴族の馬車たちは、端へ寄るなり一旦この場から離れるなどして、ローゼン公爵家の馬車へと場所を譲った。
馬車が停まる。使用人ではなく貴族の紳士にしか見えないような、身なりの良い御者の一人が馬車の前に踏み台を置き、もう一人が扉を開ける。彼らは地面に跪き扉の左右に控えた。
扉が開けられて馬車の中の匂いを感じ取れるようになったナディアは、眉を顰めた。
ナディアが注視する馬車の中から最初に出てきたのは、艶めく白金髪と宝石のように輝く蒼い瞳を持った美貌の――――少年だった。
「キャー! セシル様ー!」
(セシル、だと?)
ナディアはやや驚きながら、また突発的に出会うことになったオリオンの弟のうちの一人を見つめた。
匂いや装い――銃騎士隊養成学校の訓練生であることを示す黒色の隊服を着ている――からセシルが男だとわかるが、彼は美しすぎて透明感溢れる十代前半ほどの美少女にも見える。
比べても仕方がないかもしれないが、ナディアとセシルでは顔面偏差値に天と地ほどの差がある。
セシルの髪と眼の色は彼らの長兄と全く同じだった。セシルはたぶんジュリアスを幼くしたらこんな感じなんだろうなという様な超絶美少年だ。
オリオンは良く家族の話をしていたが、ナディアはいつも話半分にしか聞いていなかった。
ただ、オリオンとの会話の中でセシルという名前の弟がいると話されたことは記憶にあり、「セシルが逆玉の輿に乗ってど偉い貴族の婚約者になった」とは聞いていた。
姿を見せたセシルは声をかけてくる貴族たちや民衆に微笑みを浮かべ、軽い感じで手を振り返していた。美しき可憐な微笑みに胸を射抜かれた何人かがバタバタと倒れたが、その中にはなぜか男もいた。
踏み台に乗ったままのセシルは馬車の中に向かって手を差し出している。おそらく中にいる婚約者をエスコートしようとしているのだろう。
スッと女性用の手袋を嵌めた腕が陽の光の中に出てくる。セシルはその手を取りながら、中にいる婚約者に向かって笑いかけた。
その笑みは、その場にいる他の者たちに向けたものとは本質的に違うものだった。セシルは極上の笑みの中に、若干の蕩けそうな熱を滲ませていた。彼女を見つめる彼の表情には、確かに彼女への愛情が多分に含まれていた。
セシルの表情は、視線の先の相手に惚れていますと、はっきりとわかるものだった。
セシルがエスコートの相手を気にかけながら手を引くと、その人物が姿を現した。
一目見て痛感する。その人は見た者の心が洗われるかのような美しい人だった。
十代後半か二十歳を少し過ぎたくらいに見える彼女は、森の妖精が都会に紛れ込んでしまったかのような、周りの空気を癒やして浄化させるような、控えめで優しく、どこか不思議な雰囲気を持っていた。
不思議な印象を受ける原因の一つは、彼女の瞳の虹彩の色が左右で違うからだろう。
右眼は、旧王家に多く出現していたという薄紫の淡い色なのに対し。左眼は漆黒。元々の清らかさに加えて、瞳の色が違うせいで不可思議で神聖な印象を見る者に与えていた。
白地に金糸の刺繍が施された繊細で華やかなドレスには、一部を結われて下ろされた銀の髪色が映えている。
「ジュリナリーゼ様!」
美女は繰り返し上がる自分の名を呼ぶ声に、はにかんだような淡い笑みを返していた。
「……今馬車から出てきた女の人って、一体誰なんですか?」
彼らの登場にどこからともなく拍手が巻き起こっていた。ナディアは訝しむような声音で、拍手に賛同して手を叩いていた隣のリンドに尋ねた。
その場にいるだけで賞賛を浴びている二人は、背丈にも違いがあり十歳くらいは年の差がありそうだった。
大人と子供――――恋人というよりは年の離れた姉弟に見える。しかし二人の容姿の華やかさに圧倒されて、年齢差から由来するちぐはぐな印象はあまり感じない。
ナディアは嗅覚で、二人に体の関係があることを察知していた。
「知らないのか?」
「貴族にはあまり興味がなかったものですから。名前を聞いて顔を見ても、はっきり誰とはわからないんです」
わかるのはシャルロットとランスロットくらいかもしれない。
リンドは最初意外そうな顔で言葉を返してきたが、首都に来て一年も経っていないナディアの事情を慮ってくれたのか、すぐに教えてくれた。
「あの方は次期宗主ジュリナリーゼ・ローゼン様だ」
宗主がどういった存在なのかは、人間社会の勉強をした時に覚えた。
「次期、宗主…………」
ナディアは小さな声で呟いたが、その声は人々の声援と拍手の音で掻き消される。
ナディアは険しい表情で、オリオンの弟とその婚約者を見つめていた。