続・ユメニカエル
驚いたのは陽子の方だった。
「何かびっくりしたよ。武琉がこんなに喜んでくれるなんて、思ってもみなかったから」
六月の午後の昼下がり。町外れの小さなカフェで、僕は陽子の新しい笑顔を眺めていた。
「あたしが母親だよ。これから三人で生きていくことになるなんて、一体あたしたちどうなるんだろうね」
陽子は屈託のないその瞳で、今の僕と、そしてこれからの僕のことを、真っすぐに見つめていた。
「まぁ、武琉がそんなに喜んでくれるんなら、あたしも安心してこの子を産めるよ。ねぇ、あたしってどんな母親になると思う? 優しいお母さんになれるかなぁ?」
僕は微かな胸の鼓動を抑えながら、あの日の会話を陽子に思い出させた。
梅雨の合間の優しい陽の光が、今の陽子と、これからの陽子のことを、とても眩しく照らしていた。
「ははは。そんなこと言ったねぇ。あたしも覚えてるよ。やっぱり怖い母親になるのかなぁ。その分、武琉は絶対優しい父親になりそうだね」
僕も陽子と同じ顔で笑った。
「妊娠してから、あたしも武琉と出会った日のこととか、いろいろ思い出してたんだ。ねぇ、武琉覚えてるかなぁ?」
僕は陽子と過ごした今日までのことを、ひとつも忘れたことはなかった。あの日ふたりで交わした約束を、僕はいつだって守り続けていた。
「あたし、相当武琉のことが好きだったよね。確か、プロポーズもあたしの方が先にしたもんね」
笑う陽子の今の顔に、あの日の同じそれがすぐに浮かんできた。
「あたし、武琉と出会ってから、絶対にこの人と結婚するだろうなぁって思った。この人と一緒にいれば、一生幸せになるだろうって思った」
僕は約束を守っていた。どんな言葉を陽子から聞いても、笑って陽子のことを見つめていた。
「これからはこのお腹の中の子供と一緒に、その幸せを何倍にもしていこうと思う。武琉もこれからはそうでしょう?」
「うん、そうだね……」
僕は陽子の幸せを噛みしめていた。それが僕にとっても幸せなことだった。新しい命の誕生を、心の中で涙に照らされながら、僕は喜んでいた。
「ありがとう。武琉と出会えて本当によかったよ。これからもどうぞよろしくね」
「うん。いつもここで支えているよ。僕も今日は陽子に会えて本当によかった。子供のことも、自分のことのように、本当に喜んでいるよ」
僕らは一呼吸分の沈黙を挟んだあと、もう一度笑い合い、六月の晴れた淡い空の下に足を踏み入れた。
赤い太陽が夕陽に変わろうとしている瞬間だった。
三差路の右端の電柱の下で、僕と陽子はその最後の今を一緒に過ごしていた。
「泣き虫くんだから、今日は泣いちゃうんじゃないかなって、心配してたんだ」
陽子は僕が何度も好きだと言ったその笑顔で、僕のことを見つめてくれていた。
「泣くわけないじゃん!」
そんな一言が今日も言えず、僕はただ黙って笑っていた。
あの日と同じように、陽子と過ごす今を、僕は大切にしていた。
「武琉に話すことってもうないかな? 何か会ったら楽しくて、話そうと思ってたこと忘れちゃったよ」
「また会おうと思えばいつでも会えるんだから、今日はもう大丈夫だよ」
そんな本心ではない一言が、夕陽に染まったカーブミラーに映るふたりを、切なく切り離していた。
「……。武琉はきっと大丈夫。あたしが心配する必要もないくらい、元気に生きていけるよね」
「……」
「本当に話したいこといっぱいあるのに、全然言葉が浮かんで来ないや。武琉、いろいろとごめんね。あたし、武琉のこと本当に好きだったんだからね。信じてもらえなくても、嘘だと思われても、あの日も今も、この気持ちは本当のものだから。武琉にしか見せない素直な想いだから」
陽子は泣いた。出会ってから四年半。僕も初めて見る涙だった。
「あれから武琉の一番になるものは見つかった?」
陽子は泣きながら、僕に最後の質問を投げかけてきた。
「大丈夫だよ」
いつだってそこにあるものが僕の一番になっている。だから今この瞬間が僕の一番になっているよ。
そんな続きの言葉を言えず、いや言わず、いややっぱり言えず、僕は陽子の拭き取られた涙の最後の一滴を、ずっと見つめていた。
「もう、武琉泣かないの」
陽子の言葉に教えてもらうまで、僕は僕の頬にも冷たい感触が走っていることを気付かなかった。
「お願い。今日はもう泣くのを止めて。そんな武琉の顔をこの子に見せないであげて」
「ごめん」
僕は涙を拭いて、陽子の言葉を待った。自分の口からはもう何も、この静寂を切り裂くそれは見つからないと悟った。
「この子が産まれたら、また会いに来てあげて」
僕は涙の最後の一滴を、素肌の手首で拭き取りながら、大きく頷いた。
季節はもう六月だった。
「それじゃあね。さよならは今日も言わないから」
陽子は今日も、僕の好きな陽子だった。
「あたしのことを忘れても、今日の武琉のことを忘れちゃダメだからね。忘れてしまっても、あたしは届けてあげには来れないからね。分かった?」
「うん。分かったよ」
僕は陽子の背中をずっと見つめた。離れる距離と、その確かな現実に、もう一度涙が頬を伝った。
「陽子!」と僕が叫んでも、それを振り返る陽子がいないことを、僕は知っていた。
振り返った僕の瞳に、赤い夕陽が待っていることだけしか、僕は知らなかった。
僕の元に、また名前の知らない明日がやって来るこということだけしか、陽子を失くした今の僕には手に入れるものがなかった。