嘘~射す光~
嘘が嫌いな子だったから、今回の旅のことは事前に連絡しておいた。
でもミキからの返事は僕の望むものではなかった。
「分かってるとは思うけど、家や職場には来ないでよね」
「もうすぐ二十二歳になるんだぜ。そんなこと分かってるよ。ただ太陽の昇る町に一度行ってみたいだけだよ」
僕のその言葉にミキからの返事はなかった。
当然と言えば当然だし、これ以上僕からも何かを言おうという気にはならなかった。
ただその日に、僕がミキと同じ町にいるということだけを知っておいてくれればそれでよかった。
それ以上の望みは僕はいらなかった。
本当に……。
だけど僕はまた嘘をついてしまった。
今、僕の足が向かう先はミキの住むアパートだ。
別に遠距離片想い、元カノのミキに会いたいんじゃない。
ただミキが暮らしている、本当なら今ごろ僕も一緒に暮らしていたはずのミキの家を、一目見たいだけなんだ。
それが僕のこの町にやって来た理由だ。
この町で彼女は僕との再会を楽しみにしていた。
でも今はもう、新しい楽しみをミキは見つけている。
僕が嘘をついたばかりに、ガラスの遠距離恋愛にヒビが入ってしまった。
あの日、僕があんな嘘さえつかなければ……。
駅の売店で買った地図は、どうやら役には立ってくれないようだ。一向にミキの家に辿り着けないこの状況に、いい加減足が棒になるっていう言葉にも違和感がなくなってきた。
だいたいこんな坂道を上ってまで、僕はミキの家に行きたいのか。突然、好きな人ができたと言って僕に別れを突き付けてきたミキの家に。
僕は自問した。
そして即答した。
あぁ、行きたいさ。
ミキのことはもうどうだっていい。
きっと会ってはくれないし、僕だってそれを望みはしない。ただミキの、というより、僕が暮らすはずだったその家がどんなものなのかを、僕は見てみたいだけなんだ。
でも、その家はどんなに歩いても、僕の瞳にはまったく飛び込んできてはくれなかった。代わりに、明るみの絶望が僕の歩む道の選択肢を、オートマティックに拡げてくれた。
しょうがない。誰かに道を聞こう。
僕は辺りを伺った。
ちょうど赤いカブにまたがる郵便配達員が、僕の瞳に映った。
でも僕はその足をそちらには動かさなかった。
やっぱり自分の足で辿り着きたかった。
わざわざ太陽の沈む町からここまで来たんだ。
誰かの手を借りたら、これまでのそれが無駄になってしまう。
頑なな想いでもって、僕はそれを手放そうとはしなかった。
でもそんな僕の想いとは裏腹に、嘘をつくなと言う僕の背中を見つめる僕の声が聞こえてきた。
「いつまでそんなことを言ってるんだ。ひとりは嫌だって、さっき泣いてたじゃないか」
悔しいけど、僕には言い返す言葉がなかった。
聞き慣れたエンジン音で僕の前を通り掛かった郵便屋に、僕は近付いた。
「あの、すいません。ここへはどうやって行けばいいんですか?」
役立たずだった地図を拡げて、僕は郵便屋に尋ねた。
「あぁ、ここへはそこを左に曲がって、直進したらすぐですよ」
郵便屋はとても親切に教えてくれた。
「あ……、ありがとうございます」
少し照れながら僕は感謝の言葉を言って、郵便屋が教えてくれた道を歩いた。
でも、その目的地はどこまで行っても見えてはこなかった。
役立たずのこいつに聞いても、無言でこの道は違うとだけ僕に訴え続けていた。
そして、不安や猜疑心が僕の耳にもう一度人の声を聞かせることになった。
「あそこだったら、ここからだと逆方向ですよ」
「えっ?」
一瞬頭が白くなった。
あの日、ミキから別れ話を聞かされたときと何だか同じ気分だった。
「あ……、すいません。ありがとうございます」
青ざめた僕の顔を見て、申し訳なさそうなそれになってしまった女の人に礼を言って、僕は来た道を引き返した。
でもその歩数は、その人の姿を感じなくなるまでしか続かなかった。
あの郵便屋。僕をだましたな。
しがない学生の旅を踏みにじりやがって。
郵便屋がこの町の道を知らないなんてありえないだろ。
あいつ、僕に嘘をつきやがったんだ。
ミキだったら一生恨み続けるくらいの優し過ぎる嘘を。
何でこんな僕みたいなやつに嘘をつくんだ。
嘘をつかなきゃいけない相手なんていくらでもいるだろ。
何で僕なんだよ。
住宅街にぽつんと取り残された僕は、カーブミラーに映った自分の孤独な姿を見て、何だか身体中から魂とか力だとか、そういったものすべてが抜け落ちていくような気分になってしまった。
何かすべての、僕をとりまくあらゆることが面倒臭くなった。
ミキの家なんてもうどうでもいい。
僕の家だったそれもどうでもいい。
僕は僕の家に帰ろう。
今ならミキとの別れも受け入れることができる。
と言うより、今じゃないとそれをできそうにない。
この道も今の僕にしか歩むことができない。
それなら精一杯歩いてやる。
すぐに乾いてしまう涙を落としながら、ひとりを感じない場所に僕は行ってやる。
いつか見た映画のワンシーンみたいに、僕は右手で両目をこすりながら、交通量の少ない坂道を、西へ西へと下りていった。
そしてその間、僕はずっと泣いていた。
長い坂道を下りると、やっと駅が見えてきた。
結局、夢見た場所を見つめることも、それから見つめられることも、僕には何ひとつなかった。
あの改札を通り抜けると、僕はいつもの見慣れた景色を見つめる日々に、また舞い戻ることになる。
二十二歳への扉を開く瞬間も、この夢の場所への想いを忘れることなく迎えることになるんだろう。
乾いた涙と一緒にそれらを確認すると、僕の重たい足は、その場で完全に止まってしまった。
そしてタバコをふかしながら、これからの僕を見つめてみた。
希望へ望むことを紹介された無地のキャンバス。
でもそこには何もなかった。
見えるものはたった今までの僕しかなかった。
乾いたものが潤いを再開するそれでしかなかった。
あの日、ミキのことが嫌いだと口走ったのは、ささやかな僕の冗談だった。こう言えばミキはきっと、僕のことをもっと好きになってくれると思ったんだ。
でもそんなのは大きな間違いだった。
僕はミキのことなんか何も分かっていなかった。
その強い部分も弱い部分も、僕は何も知らなかった。
僕が今ここにいる理由は、その中にすべて刻まれていた。
もう僕は行かなくちゃいけないんだ。
ここを離れる準備に気持ちを傾けないといけないんだ。
誰かに呼ばれたわけじゃないし、いつまでもずっとここにいたかったけど、それを拒むものを僕は今はっきりと見てしまったから。
ミキ。
無意識に僕は身体を前に傾けた。
でもすぐにそれを制御するスイッチが押された。
あの郵便屋だ。
何であいつがミキの隣にいるんだ。
しかもあんなに自然な形で。
何がどうなってそうなったんだ。
あいつはミキの何なんだ。
頭の中をその疑問だけが一気に駆け巡った。
でもその疑問はふたりのほほえましい光景によって、すぐに明らかなものに変わった。
分かった。
分かりたくなんかないけど、僕は分かってしまった。
あいつがミキにとっての、今ある一番の楽しみなんだ。
あいつ、僕のことを分かってたんだ。
ミキに触れたことがあるやつなんだって。
それであんな嘘を。
僕は身体が動かなかった。
突然訪れた真実を信じたくはなかった。
ふたりの口の開きが増すにつれ、僕のミキに対する想いは、あの郵便屋とともに形作られていった。
何であんなやつを好きになったんだよ。
僕よりも勝る何かをあいつは持っているのか。
だいたいあいつはミキの嫌いな嘘つきなんだぞ。
自分の幸せのために、誰かの白いものを黒いそれに塗り替えるようなやつなんだぞ。
嘘をつくやつはミキが一番嫌いな人間なんだろ。
そのせいで僕とも別れたんじゃないか。
そんなことを頭の中で想うばかりで、僕の身体が前にも後ろにも傾くことはなかった。
でもあいつがミキの手の平を自分のそれに重ねたのを見たとき、僕の身体を制御していたボタンが解除された。
ミキのことなんか嫌いだ。
大嫌いだ。
あの日と同じ嘘を僕はついた。
そして暗闇に射した無形の光だけを頼りに、僕は全速力でミキのもとに駆け寄った。