ユメニカエル
「武琉、海行きたい」
陽子と付き合ってから二年半。ふたりで海に行ったことは一度もなかった。
「ねっ、武琉。海に連れてって」
「うん……」
僕は陽子の家の前でハンドルを右に切った。陽子と行く最初で最後の海。自然とアクセルを踏む力も強まっていた。
明日、陽子はこの街を離れる。僕が知らない世界へと彼女は歩幅を急ぐ。ここでの最後の想い出を、僕はこの海に託した。
「わーっ。きれい。ねぇ、武琉、こっちこっち」
昔のドラマを想い浮かべながら、「待てよー」と言って彼女を追い掛ける。今後二度と、彼女を捕まえられなくなる日が来るのを忘れながら。
「あはは。武琉って意外と足速いんだね。捕まっちゃったよ」
陽子のことを好きになった理由はこの笑顔だ。頭の中を真っ白にしながら、僕は彼女に告白をした。同時に、僕も陽子と同じ顔になれた。心の底から、その笑顔を楽しんだ。
「武琉の笑顔ともこれでさよならか」
でも、今その光が潰えようとしている。行かないでって僕が叫んでも、僕にはそれを隔てる力はなかった。
「せっかく海に来たのに、これも最後になっちゃうね。何だか悲しいな」
陽子は海の向こうのあの月を見つめていた。それが彼女の抱きしめている今だった。
「でもあたしがあっちに行っても、この海にあたしを連れてきてよ。あたしの手を繋いで、おもしろい話もたくさんしてくれなきゃ嫌だからね。ひとりでこの海を見てたら許さないよ」
迫り来る波の恐怖に、涙が零れ落ちてきた。彼女の言葉に、さよならの一言が言えなかった。
「ふふっ。武琉、泣いてるの? もぅ、この子は本当に泣き虫なんだから。よしよし。もう泣かないの、男の子でしょ」
陽子に頭をなでられながら、僕は陽子の身体に包まった。もう二度とこの温もりには出会えない。あんなに楽しかった日々とも、音色の奏で方を変えなくちゃいけない。僕は子供のように、陽子の優しさに甘え抱きついた。
「ふふふ。武琉、あたしのこと大好きでしょ」
僕は顔を上げず、陽子の身体により深く潜り込んだ。
「好きに決まってるじゃん」
そんな一言が僕の口からは出てこなかった。いつまでも陽子の優しさの中に埋もれることしかできなかった。
「武琉、顔上げて」
でも陽子はそれを躊躇するように、僕の顔にキスをした。
「武琉、愛してるよ」
彼女の温もりに、乾いた涙がまた頬を伝った。陽子の旅立ちの前に、こんな涙もらいたくはなかった。
「いつかこの日のことが武琉の一番にならなくても、あたしのことを忘れないでね。今日のことを、これから出会う誰かに自慢げに話してあげてね。あたしも武琉のことを絶対忘れない。いつも武琉のそばにいるからね」
僕は海を見つめた。海面に反射した月の光に、もう涙が止まりそうになかった。でも見つめる強さが僕にはあった。さよならを言う前に、もう一度陽子の笑顔を見つめたかった。
「陽子」
「うん?」
大好きな顔がそこにはあった。明日陽子がそこにいなくても、僕にはどうしても陽子に言いたい言葉があった。
「結婚しよう」
「……、うん」
口づけた陽子の唇はもう冷たくなっていた。さよならを言わないまま、陽子は夢の中へ足を踏み入れていた。
僕の元にも名前の知らない明日が訪れていた。