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緑に揺れる

 二台の車がギリギリですれ違うことのできる道路の真ん中を、みどりは歩いていた。

 陽光に目を眩ませているのか、それとも別の何かの理由があるのか、彼女の瞳はきつく開かれていた。その表情は、今にも泣き出してしまいそうなそれにも取れるものだった。

 みどりの視線の先に山・川・空の緑、そして青の色がこれでもかというくらいに輝いていた。

「らららららー」

 みどりは鼻歌をうたった。誰かに聞いてほしい、誰かの耳まで届いてほしい、そんな想いはひとつもないままに、その歌をうたっていた。

 そしてその歌がみどりの足を一歩、一歩と進ませていた。

 その歩みも誰かに見てほしい、誰かに知ってほしいなどという想いはひとつもないものだった。ただ目の前に見える土手へと向かって、みどりは歩いていた。

 無造作に敷き詰められた川辺の石段に腰掛けて、みどりはそこに生えている草をいじった。人肌とは違うその感触に、みどりは不思議な感覚を覚えていた。

 それでもみどりの表情は、先ほどから微塵の変化もなかった。相変わらず眉間に若干のシワを浮かべたまま、遠くを見つめていた。

 みどりは思い出していた。別れるはずのない相手と別れたあの瞬間のことを。

 二十三歳のみどりには夢があった。自宅から八駅離れた二十一階建てのビルのオフィス。午後八時までをそこで過ごす彼女にとっての心落ち着く居場所は、絵本作家になりたいという、大きな光によって支えられていた。そしてそれを健気に見つめる親友のあおいも、彼女の何ものにも変えがたい自慢の品だった。

 しかしそんな宝物が突然姿を変えて消えてしまった。思い当たるふしを、みどりは痛いほどに分かっていた。

 しかしそれを受け止め得るだけの現実が、二十三歳の彼女にはなかった。いや、二十二歳の一年前も、一年後の二十四歳になった自分でも、それを受け止められるかの質問に、みどりは答えを窮することも十分すぎるほど分かっていた。レースのカーテンからこぼれる夕陽のマーマレード色が、思い出したくない思い出として、みどりの心にインプットされていた。

 それでも川面に反射する太陽の光を見つめていると、お互い視線を下に向けたシルエットがよみがえってきた。言葉のない会話が、震えるほどの寒さを運んできた。みどりはたまらず唇を噛みしめ、小さなお尻を宙に浮かせた。

 そして生まれたての赤ん坊のように、感情の丈を渇いた喉元から吐き出した。

「あーっ!」

 欲という名札を貼られた存在たちの中で、一番大きなそれが叫びという行為だった。

「はぁっ、はぁっ……」

 名札の主はみどりの呼吸を荒げさせていた。見上げる空の青が、美しいほどに輝いていた。その空に微かな落ち着きの雲を浮遊させることができたころ、みどりは足元の土をぶっきらぼうに蹴り上げた。

「生きていたいの。生きていたいんだよ!」

 生きる。それがみどりの欲する存在。彼女はそれを山の向こうのあの緑に求めていた。そこにならそれがある。そう確信したみどりは、おもむろに走り出した。走り出した彼女を置いて、その存在はそこに在り続けた。

 背中からは置いていけないものが、みどりの影となってずっと付いてきた。その対となるものは、涙を流す寸前の表情をまとっていた。

 青い空には黒いシルエットの鳥が、その羽根を拡げ、羽ばたいていた。それに視点が定まったみどりの両足も、その場に停止した。ためらうことのないスピードで両膝に手を付き、半屈みの体勢で、もう一度名札に書かれた字を叫んで読み上げた。

「あーっ! あーっ!」

 真っすぐな視線からこぼれるその声は、みどりにとって、激しく息切れをさせるものだった。嗚咽を漏らす勢いがその顔から滲み出ていた。

「何で……。何であたしなの? 何であたしがこんなことにならなくちゃいけないのよ!」

 その答えの途中式を、みどりは頭の中で書き殴っていた。消しては書いて、書いては消してを繰り返していても、結局現れてくる数式は全て同じものだった。

 目の前を通り過ぎていく親友のあおいの肖像が、自分の姿と同じ位置に着いたとき、一層大きな平面図となって、みどりの脳内をさまよわせていた。

 巨大迷路から抜け出そうと、銀色の雲を見つめたみどりの瞳からは、肌色を薄くさせる一滴の雫が零れ落ちていた。

 その冷たさにも温かさにも取れる熱に、違和感を覚えたみどりは、さっとそれを拭い去った。同時に鼻をすすって、体外へと飛び出していこうとする無色透明の液体を、再び自らの身体の中に収めさせていた。

 ぼんやりと目の前に広がる風景を観察した。焦点の合わない瞳からは、脳内へとその情報を伝達することがほぼ不可能なことだった。

 それでも上、左、右と三百六十個もの選択肢の中から数種類を選んだ後、茶色く染まった白いスニーカーを真っすぐに見つめ、見入った。通気のよくなった鼻から毒素に似た息を吐き出すと、生まれたときから一度も腐ることのなかった新鮮な想いも、一緒に飛び出した。

「生きていたいの。生きていたいの。生きていたい!生きていたい! 生きていたい! 生きていたい! 生きていたい! 生きていたい! 生きていたい! 生きていたい!」

 最後のそれが川面よりも少々高い位置を飛んでいたカラス二羽を、あっという間に天高く上昇させた。自分でもかっと目を見開いてしまうくらいの大きな声量であったことに、みどりは驚いた。シワの取れた眉間の下の二つの目玉は、パチャパチャと音を立てて揺れる川辺へとなびかせた。

 みどりは腰を下ろした。涙の乾いたその顔は、切ない雰囲気を醸し出していた。儚げな表情から読み取れるその主の心の中は、七色の宝石に縁取られているようだった。

 手元にあった石を川面に投げた。楕円形のその波状は、みどりが真剣に見つめる気になったころになくなっていた。

 がっかりした後で、今日でもう何度目になるのだろう。頭上の空という空をみどりは見上げてみた。視界の右下の方で、木や葉の緑が風に揺れていた。その震源が自分自身であることに気が付くと、みどりは誰に言うでもない質問をつぶやいていた。

「生きていていいのかな? あたし、ここで生きていてもいいのかな?」

 真っすぐ前を見据えながら、あの瞬間をみどりは見つめてみた。そしてこんな問いかけをする気になった言葉と出会った。

「何これ。全然おもしろくないんだけど。ていうかさぁ、これあたしのことだよね。マジ最悪なんだけど、あんた。死ねばいいのに。本当、死ねばいいんだよ、あんたなんか」

 あおいに渡した原稿が、ふんわりとスローモーションで床に叩きつけられた。

 こんな想いをするために、みどりはそれを書いた記憶はなかった。傷付いたあおいのその傷を癒すために、みどりは『えがおのやくそく』という絵本を書いた。

 たとえそれが失恋したあおいの物語をデコレーションしたものであったとしても、親友から殺される理由などひとつもない、みどりの真っすぐな想いだった。

 あおいの揺れる想いを、みどりはみどりなりに抱きしめてあげたかった。

 しかしそれは今この瞬間、演者ふたりが聞きたくない顔をしながら、その言葉を聞いてしまうものへと変化してしまった。本当に何も聞こえなければいいのにという顔をしながら、その言葉を聞いていた。みどりの時計はそこからずっと止まったままだった。

 さっきより遠くまで石を投げてみても、それが同じく、大きな波状を作ってみても、あの日の未来に、今自分はいないということを、痛烈なまでに感じていた。

「らららららー」

 鼻歌をうたっても時計は進まなかった。明るい気持ちも湧いてこなかった。歌えばうたうほどに小さくなっていくその歌声も、とうとう止まってしまった。

 今を生きるように川面や木々の葉々、銀色の丸々とした雲は、七月の緑の風に揺れているのに、自分の居場所は果たしてここにあるのか、みどりは即答することができなかった。

 不安がみどりの背中を丸くした。誰かに生きる理由を与えてもらいたかった。

 生きていていいよ、生きていてちょうだいと、誰かに言ってもらいたかった。

 眉毛の上までしかない前髪を無造作にかいて、その誰かを考えた。みどりと向き合っているのは、未来も過去も含めた今現在のみどりだった。七月の緑の風に揺れるほかの誰でもない、ここにいるみどりだった。

「生きていていいよね? あたし、生きていていいんだよね? だって、生きていたいんだもん。ずっと、ずっと生きていたいんだもん」

 欲望と名づけるには少々堅苦しいものだったが、みどりにとってそういう存在は、生きるというもの以外には何もなかった。そのほかの欲望のひとつひとつも、生きることがなければ叶えられないものであったから。がむしゃらなまでにこの風に吹かれて、みどりは生きていたかった。ずっとずっと生きていたかった。

 その想いを、欲望という名前ではもう呼びたくなかった。その名前で呼び続けると、いつまで経っても名札のままの存在でしかないと、みどりは感じ取っていた。

 真っすぐ正面を見つめたみどりの顔に、迷いの色はなかった。艶やかな肌色の輝きを放っていた。緑の風に揺られても、みどりという存在が決して揺らぐことはなかった。そのステージに、しっかりと両足を付いていた。

「らららららー」

 歌声は青空に近い位置で奏でられた。すべての音がオーケストラのメロディーを刻んでいた。みどりの歌声もどんどん大きくなった。

「らららららー!」

 背中の表情もたくましいものだった。生きる理由はもうそこにあった。その背中にくっきりと現れていた。

 みどりはここで生きていた。

「あたしはここにいるー!」

 すがすがしい笑顔が、七月の青空の下でたなびいていた。後ろを振り返った。みどりの瞳の輝きは、とても眩しいものだった。

 それでも、その視線を逸らしたくなるような衝動には駆られないものだった。その瞳がつぶれても、ずっとずっと見つめ続けていたくなるような輝きだった。

 みどりは走り出した。止まることのないそのスピードが、土手の斜面をも一気に駆け上らせた。そして止まったままだった時計が動き出した。

 行きの道の終着点に立ってみても、そこは帰りの道ではなかった。いつだって、みどりの視線の先にある方角が前だった。

 どこにいても、みどりはずっとみどりだった。

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