僕の明日が海を呼んでいる
僕らの街に海がやってきた。クラスのみんなとても興奮している。
幼なじみの弘明は、ついこの間できた彼女の光栄との初デートをそこにするって言って、みんなに自慢ばかりしている。
水泳部の靖之は、やっと本物の水で泳げるって言って、お古の水着を新調した。
ずっと付き合ってた彼氏と別れたままだった聖美は、叫べる場所がやっと見つかったって言って、学校にも戻ってきた。
みんながみんな、憧れていた海にそれぞれの想いを馳せていた。
そう、それはこの僕もだ。
「明里、今度の週末、海行かない?」
僕は想いを寄せる伊藤明里に、そうデートのお誘いをした。
「海? 行かない」
あっさりと断られた。
「何で? 行こうよ。やっとこの街にも海がやってきたんだよ。明里、海に行ったことなんてないでしょ?一緒に行ってみようよ。絶対おもしろいって」
僕は明里を強く誘った。明里に想いを伝えるチャンスは、ここしかないと思ったからだ。
「じゃあ正洋だけで行ってきなよ。友達と一緒にさ。あたしは海なんて興味ないから」
僕は黙り込んでしまった。そんな僕を気まずく思ったのか、明里は少し物憂げな顔で言葉を続けた。
「どうせみんな最初だけなんだよね。すぐに飽きて、海のことなんか忘れちゃうんだから。あたしはそんなミーハーなことなんてしたくないの。だからごめんね。あたしは海には行けない」
やっぱり言葉が出なかった。イコール、それは僕の明里への気持ちがあきらめられたってことになった。
その夏、僕はひとりで海に行くことになった。
夏が終わり、秋が来て、冬が来て、春が来て、あっという間に一年後の夏と再会する季節になったころ、明里の予想は見事に的中した。
予想通り、みんなの夢だった海は誰からも見向きもされなくなっていた。あの興奮はどこに行ったんだってくらい、みんな新しい夢に光を見つけていた。
「明里の予想通りになったね、海」
久しぶりに廊下ですれ違った明里に、そう挨拶を交わした。明里は何も表情を変えずに、その返事をくれた。
「連れてってよ、海」
視界に入っていなかった明里の顔を、僕はまじまじと見つめた。
「ねぇ、聞こえないの? 海に連れてって言ってるの」
僕は理由を尋ねなかったし、笑ったり、驚いたりもしなかった。ただ黙って、明里の誘いに手を伸ばすだけだった。
「さっ、早く。あんたの大好きな海が、あたしたちを呼んでるわよ」
明里に誘導されるまま、僕は一年越しの明里との海デートに出掛けた。海が僕らを呼んでいるかどうかなんて、そのとき何も考えなかったけど、ただ僕の歩む道の前には、明里の背中だけが見えていた。
「みんないい加減なんだよね。あんなに海、海って騒いでたくせにさ」
僕は明里の見つめる海を見つめていた。
「ねぇ、そう思わない?」
「あぁ、そうだね」
深い意味を込めて口に出すことができなかった。僕はただ黙って、明里と過ごす今を大事にしていた。
「正洋は一年前のこの海であたしに何をしようと思ってたの?」
「好きだと言おうと思ってた」
素直にそう返事をした。こう見えてやるときはやるんだ。一年間で夢を忘れるようなやつらと、僕は違うんだ。明里への想いは、今も変わらず僕の右手の中に生活させていた。
「そっ」
明里の頬は一瞬朱く染まった気がしたけど、すぐにそれは錯覚だったと思わされるように、明里は貝殻を海に放り投げた。
「みんなこの海に夢を求めてたくせに、いざそれが叶っちゃうと見向きもしなくなるんだから。お世話になったんだから、もっと愛情を込めて接してやるべきだと思わない?」
「そうだね」
短い言葉の裏には意味があった。さっきの僕の言葉はまだ生きていた。明里の艶やかな頬に、また朱い灯が点ったなら、一年前に言えなかった言葉を言おうと思っていた。
「あたしも正洋のこと好きだよ」
それは奇襲攻撃だった。
「……。えっ?」
「だから好きだって言ってるの。恥ずかしいから何回も言わせないでよ。でも一年前に正洋からコクられてても、あたしは正洋にいい返事をしてあげられなかったと思う。だって正洋が海なんかにあたしを誘うとは思いもしなかったから」
「……」
唇が乾燥しきっていて、その中の引き出しを開けることができなかった。何十通りものシチュエーションを考えていた一年前とは、今日はまるで違っていた。
今日は明里に誘われるままやって来た海だった。
「物凄い勢いで彼氏、彼女が誕生したじゃない、一年前。あれを見て、あたしはあんな連中にはなりたくないと思ったのね。そりゃあ、みんな楽しそうに毎日を過ごしてたけど、その終わりがあたしには目に見えてたの。絶対に長続きするカップルなんて、指折り数える程度しかいないだろうって」
明里の言葉はまだ続きそうだったから、僕は引き出しのカギを慌てず、ゆっくりと探していた。
「信太と政美なんて一週間しかもたなかったじゃん。一週間だよ、一週間。ありえないよ、そんな話」
僕はまだ黙っていた。
「本当に好きなら、今じゃなくても一年後だっていいじゃない。一年間片想いのまま、違う男の子や女の子を見つめて過ごしたっていいじゃない。それでも気持ちが変わんなければ、本物だって言えるわよ」
「何かよく意味が分かんないけど……」
ようやく開いた引き出しから出た言葉はこれだった。でもそれは僕の何の嘘もない、真っさらな言葉だった。
「結局、明里はこの海に何を求めてるのさ?」
明里はもう一度貝殻を海に放り投げてから、僕の質問に答えた。
「海には何も求めてないわよ。時の流れもね。海も時間も空も街も、ただの背景でしかないじゃない。だからあたしはそんなもの求めてないの。あたしが求めてるのは、その人自身なのよ。その人自身の夢の持ち様を、あたしは求めているの」
ますます意味が分からなくなってきた。結局何? 明里は海が嫌いなわけ? 夢を見ている人が好きなわけ? この僕に明里は何を求めているわけ?
「言ってる意味分かんないでしょ?」
「うん」
僕は即答した。
「結局、どれほど一途になれるかってことだけよ」
「それって違うんじゃない?」
僕は何もためらわず、明里に反論した。
「一年間想いを変えず過ごすことも素敵なことかもしれないけど、今好きなんだからしょうがないじゃん。今の気持ちを今伝えないで、いつ伝えるんだよ」
「……」
僕の言葉が勝ったのか、明里の口からは次の言葉が出てこなかった。僕はそんな明里のことを親切には待たずに、僕の伝えたい想いを言葉に変えた。
「僕の想いは一年前から変わっていないよ。伝えきれなかった想いも、あの日のゴミ箱に捨ててきてなんかいないよ。いつだって僕が僕を生きている間、僕の隣で生きていたよ」
二年目を迎えた僕らの海の天上に、朱い空が現れた。こんな空を見ながら明里に好きだと言いたかった。
「正洋はあれからこの海には何度か来たの?」
「ううん。今日が二回目だよ。ひとりで海に来たときに気が付いたんだ。まったくシミュレーションしていなかったシチュエーションだと、全然おもしろくないってね。だから明里と一緒に来れるまで、海に来るのは止めとこうって誓ったんだ」
「それが今日やっと叶ったってことか」
そうだよと言いたかったはずなのに、僕の引き出しのカギが勝手に閉められていた。記憶の片隅で、今日よりも楽しい海でのできごとを、僕は知っていたからなのかもしれない。
「今日の海はどう? 楽しい?」
明里は答えに窮する質問を投げ掛けてきた。いや、あえて明里の求めているものを手に入れるために、そんな質問を投げ掛けてきたのかもしれない。
「難しいよね、答えるの」
簡単なはずなのに、カギは閉まったままだった。チャンスが来たのに、それをつかまえようとする強い意志が、今の僕にはこれっぽっちもなかった。
「一年も経ってるもんね。なかなか持続することができないことくらい、あたしもよく分かってるわよ」
分かってほしくなんかなかった。開けドア、開けドアってずっと考えていた。
「今日はもういいよ。いつまで待っても正洋の唇は閉まったままでしょ。だから明日、あたしをこの海に誘ってよ。言おうと思ってた言葉もあたしに届けてよ」
「明日って……?」
「今日はあたしから誘ったんだ。そんなの正洋にとったら不本意でしょ。正洋の奏でる最高のシチュエーションで、あたしをこの海に連れて来てよ」
僕には明日があるかどうか分からなかったけど、明日の明日だけは絶対に僕のそばにいそうな気がした。
「分かった。明日、明里をこの海に誘うよ」
僕も今日初めて貝殻を拾って海に放り投げた。明里がさっき投げたやつよりも、ずっと遠くまで飛んでいってくれた。
「立って」
僕はお尻に付いた砂をぱっぱと払うと、隣に座る明里の手をつかんで立ち上がらせた。朱色の空の上には小さな月が輝いていた。明日のこの空が待ち切れなかった。僕の明日がこの海を呼んでいた。二十四時間の背景に過ぎない、BGMに過ぎない移ろいってやつが、今日の僕の、まだまだ終わらない今日の僕の一日を、ずっとずっと美しく照らし続けていた。
「海を愛せる人があたしの好きな人。昨日も明日も今日も愛せる人があたしの好きな人。君にはそれができるかなぁ?」
明里は僕の顔を見上げながら、そうつぶやいた。
「あぁ、できるさ。だって僕だぜ。石神正洋なんだぜ」
僕は明里の手を握ろうと思ったけど、明里はずっとグーのままだった。僕がパーを出したって、チョキを出したって、明里に近付けそうな気がしなかった。心を通わせたいから僕も右手を握りしめた。
今日はできなくていい。いつかできないものはできるようになりたいっていう夢に変わってくれる。だから今日はそれでもいい。僕の明日が海を呼んでいる。君に近付きたいって歌をうたっている。
僕は突如走り出した明里の背中と、いろんな光を見つめながら、明日ではない、今という瞬間を追い掛けに行った。