かげふみ 62
机の引き出しからは、何十冊にものぼるローズの日記が見つかった。
いや、それは厳密に言うと、ローズの日記ではなく
ローズが感じた、主の様子の記録であった。
○月○日
今日のアッシュは、溜め息が多かった。
そういう時は、大抵が微熱がある。
アッシュは意味なく熱を出す。
きっと体の抵抗力が弱いのだろう。
ジンジャーを定期的に摂らせよう。
○月○日
アッシュがアイスクリームを食べ始めた。
食べ物が飲み込めないようだ。
体の調子は悪くなさそうなのに。
ロイヤルミルクティーにミントを入れてみよう。
○月○日
アッシュが眠れないようだ。
夕べもおとといもドアの向こうに座っていた。
クッションをそこに積み上げてみよう。
アッシュには紺色が似合うから
白いクッションも散りばめて、明るさを出そう。
○月○日
最近のアッシュはリラックスしている時がない。
明け方にドアの向こうから歯ぎしりが聴こえる。
フラワーウォーターの調合を変えてみよう。
アッシュは柑橘系を嫌うので、配合が限られて困る。
○月○日 アッシュが
○月○日 アッシュが
○月○日 アッシュが
・・・・・・・・・・・
主のためのアロマオイルの調合も
別のノートに毎日、事細かに記してあり
それらを読んだ時に、アスターは激しい敗北感に襲われた。
文字通り、死線をくぐってきたふたりの繋がりに
自分たちの友情など、“ごっこ” にしか思えなくなったのである。
だけど・・・
アスターはグリスの気持ちを第一に考えた。
これを読んだグリスが、また悲しむかも知れない。
グリスの世界では、主様がすべてなのだ。
ぼくにはぼくの戦いがある!
アスターは、グリスの心のサポートを常に優先した。
グリスがそのノートを読んで、正気でいられたのは
主が生きて自分と出会えたのは、ローズのお陰だと感じたからであった。
日記の “アッシュ” は、日に日に具合が悪くなっていっている。
アッシュの狂気への傾倒を止めたのは、間違いなくローズの死だった。
ローズさんがいなければ、主様はきっと生きていらっしゃらなかった!
グリスのこの考えを裏付ける根拠はどこにもない。
だが、否定する証拠もまたないのである。
ぼくが悲しむと、アスターが心配する。
グリスは、自我を抑えた。
グリスとアスターは、互いをきめ細かく思いやっていた。
それはアッシュとローズの “それ” より
遥かに美しく健全な関係であった。
しなくて良い戦いも、ある。
ローズのアロマオイルの調合は
“ローズ・レシピ” と名付けられて、館に受け継がれた。
中でも、住人には “アッシュローズ” という
バラを基調に配合された香りが人気で
それをつけて館の屋上に行くと主様が現れる、という伝説まで生まれた。
グリスは、それを試せなかった。
主も “あれ” 以来、一度も屋上に行かなかったが
グリスにとっても、屋上は踏み入る事が出来ない場所となってしまっていた。
主が自ら香水をつけるのを止めたのは
ローズからの移り香を好んだからであった。
後に、館ではアッシュローズという薔薇の品種が栽培されるようになる。
主の墓前に供えるためだけに。




