[A]収穫祭
見渡す限りの黄金。黄金の波が風に揺れている。その波の穂の一つ一つには重みのある小さな粒が垂れ下がる。さらさら、ざわざわと風が吹くたびに揺れる稲穂はその季節の到来を意識させるには十分すぎた。
山側にある村の中でも少し大きめな稲田の脇の農道に、少女が立っていた。髪はまさに揺れている稲穂と同じ美しい黄金色、眼はこれまた美しい茶色、左前髪に橙色の巻貝のヘアピンを付けた少女は、名前をイシュタル─イシュ、と言った。
「おーい、イシュ~!」
そのイシュに声がかかる。とっとっとと駆けてきた栗毛の少女はにっこりと笑うと、イシュに「お兄ちゃんを待ってるの?」と聞いた。イシュはうん、と返し、再び稲田とその奥の砂利道へと目を向けた。日はだんだんと傾いてきており、風は少しずつではあるが冷たくなってきていた。栗毛の少女は「ふぅん、やっぱり楽しみなんだぁ」と返して同じ方向を向いた。
「エル、村長たちは?」
「まだまだ準備中。そろそろやぐらを組み立てるころじゃないかなぁ」
そう言われてイシュが村の中心部の方を見ると、確かに大きな櫓が組みあがっているのが見えた。その光景に少しばかりの緊張を覚えながらも、イシュはひとまずと
兄の働く商会から里帰りの連絡が来たのは少し前のことであった。この時期に行われる収穫祭に合わせて商会からは様々な品物が運び込まれるので、それに兄が同行するという話であった。しばらくぶりの兄の帰郷の知らせにイシュは手紙を読んだときは小躍りし、栗毛の少女はその様子を見てにこにこと笑っていた。そして、その収穫祭が今日行われるのだ。
今年はさらに数十年周期で現れる箒星が見えていることもあって、村は一段とお祭りの雰囲気に包まれていた。なんでも、かの国が興った時も箒星が見えていたというのだから、人々は新たな始まりを予感して盛り上がっていた。
やがて、五分か十分か、栗毛の少女が少々退屈し始めたころにそれはやってきた。
「あっ!」
イシュはかつこつと音を鳴らしながらやってくる馬車を認めるや否や、大きく手を振りはじめる。栗毛の少女はその様子に少々あきれながらも、馬車に手を振り始めた。三台編成でやってきたその馬車は、たしかに兄の所属する商会のもので間違いなかった。
ひとしきり手を振り終わると、イシュは馬車に走り寄る。すると御者がなにやら後ろに声をかけると、馬車からイシュの兄が下りてきた。
「兄さん!」
「久しぶりだな、イシュ。それにエルも来てくれたのか」
エルと呼ばれた栗毛の少女は「まぁ、イシュがその様子じゃ誰かがいないとね」と笑った。イシュはそれに少々不満げだったが、それよりもとりあえず兄との再会を喜ぶことを優先した。
* * *
「─で、二匹の狼を一度に倒したんだ!」
村に着いた商会の面々を一通りもてなしてから、イシュは久しぶりに兄との時間を過ごしていた。積もる話は今年の米の出来から狩りの話まで尽きなかった。兄は嬉しそうに話を聞き、その様子にイシュも喜んで話をつづけた。どうやらかつて妹をねたんでいた兄はもういないようだ。
「兄さんは何かあった?」
「ああ、俺か?」
そう聞かれた兄は誇らしげな様子で自らが西にできつつある国へ交渉するメンバーに選ばれた、と伝えた。イシュはすごいねぇと驚き、そして兄はすごいだろうと胸を張った。
西に出来上がりつつある国はかの亡びた王国の末裔が興しているらしく、また周辺に国がなく集落や小さな商会ばかりであったこともあり一気にその形が出来上がっていた。この村は兄の所属する商会がとりまとめる集団に属しており、商会が国の傘下に入る交渉をする、というのは実質的にここ周辺の代表として赴くということであった。
「必ずうまくやってみせるよ」
そう意気込む兄に対して、イシュは
「前みたいに変なところで緊張しないでね?」
と少々いたずらっぽい笑みを浮かべて返した。兄はうっとなった。
そしてその様子にイシュはにっこりと笑った。
* * *
やがて収穫祭本番がやってくる。
この村の収穫祭は古くから続いており、そのルーツは亡びた王国のものであるとも言われている。その王国の子孫の移民がこの村に住んでいるとかどうだとか、そういった話もあるらしい。
内容としては、一年の恵みを感謝し来年も同じように良い実りが手に入るよう神に作物を奉納する、というものだ。
イシュはその作物、つまり米を小鎌で刈り取り、そして神に奉納し、また神前で大鎌を使った演舞を披露する、という主役であった。
小鎌は村に代々伝わるものであり、収穫祭などの神事にのみ使用されるものであった。毎年村で一番の鍛冶師が修理を行い、そして村で一番の呪い師が魔術的な儀式を行ってきていたがゆえに、少なくともイシュの知る範囲では劣化したのを見たことがなかった。なんでも今年は親方の話によれば若干痛みが激しかったようだが、それでも普通に使っている鎌よりも新品に近かった。
そして大鎌だが、これはイシュが数年前から使い込んでいる愛用のものであった。本来農具であった大鎌を演舞にまで使用するのは異例、というわけではない。というのも、案外この村では大鎌を武器として使っていた者も少なくはなかったからである。確かに普通は剣や弓などではあるが、イシュは幼少のころに草刈り鎌をたまたま森で遭遇した兎を狩った経験から大鎌を使うようになった、数少ない大鎌使いの一人だ。とはいえ今の村の衆で大鎌を使えるのはイシュくらいで、使い手のもう一人であったイシュの大鎌の師範のばあやは数年前に亡くなっている。イシュは確かにばあやの教えを引き継ぎ、己の糧としていた。
雅楽にも似た独特の音楽があたりに響き渡る中、イシュは式典用のドレスを着て、小鎌を手に持ち黄昏の稲田の中に立っていた。ベージュとクリーム色のドレス、そして橙色の貝殻の髪飾り。優しい風が髪を、ドレスを揺らして、神秘的な空気をもたらしていた。
イシュは稲田の中に屈む。そして稲を左手で一束つかむと、丁寧に刈り取る。
そしてすっと立ち、優雅な足運びで稲田の脇に設置された舞台へと上がり、ご神体である焔の前の松でできた台の上に丁寧に稲と小鎌を置き、そして屈んで祈りの言葉をささげた。
”我ら民は偉大なる御心の恵みによりまた良い実りを得ることができました”
”恵みに感謝しこの実りを捧げます”
村の衆も同じ言葉を一斉に唱える。
”我ら民は偉大なる御心の恵みによりまた良い実りを得ることができました”
”恵みに感謝しこの実りを捧げます”
唱えるのが終わると、イシュは立ち直り、呪い師から自らの大鎌を受け取って演舞を始める。
振り下ろし、振り上げ、横に、縦に。優雅な足さばきと凛とした表情、周りの炎の明かりを反射し揺らめく大鎌の刃。その一つ一つが神に捧ぐものであるにふさわしい神聖さを持っていて、村の衆も、エルや兄も、イシュの父母も、その姿に思わず見とれてしまう。それはさながら伝承の神のようで、強く、かつしなやかに、優しく、そして激しく舞っていた。
永遠に続くかと思われた舞はやがて終わりを迎える。ゆっくりと鎌を地面に置き、焔へと頭を下げて段を降りた。拍手が巻き起こり、イシュは内心ほっとした。
そして収穫祭はつつがなく終わり、だれもが村の平穏を感じていた。
その日の夜までは。
* * *
そしてそれは唐突だった。
収穫祭の余韻が残る中、イシュは自室で日記を書いていた。三月二十日、晴れ。今日は収穫祭があった、と。兄に昔贈られた万年筆を使い手本のような滑らかな字で日記を綴っていたイシュは、しかし妙な胸騒ぎを覚えていた。
─妙だ。本当になんなのだろう、この胸騒ぎが。
─何か、良くないことが起きそうな、そんな気がする。
その胸騒ぎを内に秘めつつ、日記を綴っていく。兄が帰ってきたこと。収穫祭でのこと。兄が交渉役に選ばれて、それがとてもうれしかったこと。明日から収穫が始まって新米や新しい小麦粉で作ったパンが楽しみなこと、云々。そして、胸騒ぎのことを綴ろうとしたその時だった。
鐘だ。鐘が、村の中心にある櫓の鐘が鳴り始めたのだ。突然、この夜更けに。
そして次は地響きに気づいた。何かが近づいてくるいやな地響きだ。
そしてイシュはそれを見た。
山から駆け降りる狼の群れを。月明かりをに照らされて黒い波が迫ってきていた。
何の前兆もなかった。まさか少し村の狩人がよく獲れるという話がこれを意味していたのか?とか、あの青いすい星と満月が同時に空に現れているからなのか?とか、いくつもの思考がイシュの中を駆け巡った。が、しかし、それは一つの未来を指示していることだけは確実だった。
滅ぶ。この村が、滅ぶ。
手が震えた。なんで、こんな日に限って。あのやけに輝いている青色のほうき星が恨めしく思った。何が始まりだ。滅びではないか、とも思った。滅びの始まりとでも言いたいのか、と。
体が震えた。それは死の恐怖から、というよりも、皆が死ぬことへの恐怖からだった。皆が冷たく青ざめてしまうことへの恐怖だった。きっと、狼たちはすべてを食らいつくすのだろうとわかっていた。
だが、イシュは立ち上がった。自分が今すべきことを知っていた。悲壮な決意が彼女の心の中で確かに芽吹いたのだ。
倉庫へ行き、それを手に取る。月の光を反射して浮かび上がるそれはまるで青白く輝いているようで。イシュはその刃に触れた。ちくりとした痛みと、人差し指の先に赤い溜りができた。赤いそれはつぅっと手のひらを伝って地面に落ちてしみこんでいった。
そしてイシュは駆けだした。
村は大混乱だった。既に村の山側の半分は”波”にのまれており、おそらくそこに住んでいる人々はもう、という状況であった。猟師たちが様々な武器で応戦するも、多勢に無勢が過ぎた。
そしてついに、一人の猟師が腕を噛まれ、狼の波にのまれると、そこからはあっさりであった。
イシュはその様子に戦慄しながら、しかし、動じずに大鎌をふるい続ける。右から来た狼を狩り、左にかみつかんとする首を断ち、なだれ込む狼を飛びのいて躱しまた一閃すれば三匹分の頭が宙を舞う。なびく髪は美しく、ドレスは風にはためく。もし誰かがその姿を見ていたのなら、きっと戦神か、戦女神かとでも思っただろう。狼たちもその威圧から攻撃を渋り始めた。
ギャウ、と吠えた若い狼が我先にととびかかりそのまま崩れ落ちたのを見てついに周囲の狼はイシュを避けるようにして動き始めたのだった。
そしてその目標は山の反対側、道なき道を伝って逃げる馬車であった。そこには、イシュの兄が乗っていて。
だがイシュは、狼の波に立ちふさがるようにその前へと立った。そして、狼に向かい、威圧を込めてイシュは言った。
「ここは私が守る」
そして狼がイシュに飛び掛かった。
* * *
朝日が昇ってきていた。朝日が昇るにつれ、暗い夜に紛れ見えなかったすべてが浮かび上がってくる。おびただしい量の死体だ。鼻をつくような死臭だ。赤黒く染まった狼の毛皮だ。そしてその中心に、イシュは立っていた。
イシュはゆっくりと道の方へ振り返った。兄たちは無事に逃げられたのだろうか。それとも、逃した数匹に喰われてしまっただろうか。
いずれにしても、イシュはひどく眠かった。
ひどく眠たくて、眠たくて、イシュは、その場に崩れ落ちた。
仰向けになったイシュは目の前に広がる明けゆく昏い空に、ただやけに目に染みる青さで光る箒星を見た。
そして、イシュは──
"Astarte"に続く