過去の人
嘘だろ。
男は目の前に現れた自分の国選弁護人の姿に凍りついた。
「アフォルターさん。貴方の弁護をさせていただきますデイー=イザーク=ルルディブです」
眼鏡をかけた長身褐色の美男子ははっきりとした声でそう述べると、いきなり自分に対して頭を下げた。
「キエスタ人の私で申し訳ありません。しかし、貴方にとって最良な判決となるよう私は全力を尽くす所存です。宜しくお願い致します」
男はその言葉を聞きながら、小刻みに身体を震わせ、目の前の彼と過ごした過去を思い出していた。
* * * * *
十年以上前だ。
目の前の彼は、その頃コック見習いだった。
自分はそのレストランに就いてから三年が経過しており、手の抜き加減も覚え始めた頃だった。
安い賃金で雇われた、ど田舎から出てきたキエスタ人労働者。
明日には路頭に迷うかもしれない、不安定な生活を送る異国の民。
言葉がたどたどしく、おどおどとこちらの機嫌を伺うようなその様は憂さ晴らしをするのに最適だった。
虐めた。
キエスタ人労働者の中でも、特に際立った美貌の目の前の彼を。
彼の動きが良く、彼が作った賄い食を料理長が褒めたのも癪だった。
彼が仕事が出来るということに一番腹が立った。
冷蔵庫の中で彼の顔を何度も殴ったし、鉄板の入った安全靴で彼を幾度も蹴った。
そのうちに彼は店を無断欠勤し、いつの間にか姿を消していた。
男娼になったとか、マフィアに入ったとか、またはムショ入りしたとか。
胡散臭い話で彼の末路は有耶無耶のまま終わった。
それが。
奴が目の前にいるなんて。
終わりだ。
あんなに虐めたんだ。
小心者の自分の足が机の下で小刻みに震え、男は全身の血が下がり喉がひどく乾くのを感じた。
こいつは。
俺のことをどんなに恨んでいるか。
「……ということで司法取引に応じます。いいでしょうか?」
目の前のデイーが真っ直ぐに自分に問いかけたので、男は思わず心臓が飛び上がった。
「よろしいでしょうか。アフォルターさん」
彼の美しい目が自分に問いかける。
我に返り、こくこく、と男は反射的に頷いた。
「では。当日の直前に打ち合わせをしますのでよろしくお願いいたします」
デイーは席を立ち、美しく一礼すると部屋を出て行った。
唖然として男は彼が出て行ったドアを見つめた。
終わった。
まさか。
気がついていない、のか。
いや、俺のことを。
覚えていない。
全身の力が抜け、男は息を深く吐いた。
同時に肩を震わせ小さく笑い出した。
覚えていない。忘れてるなんて。
声を出し、男は大きく笑い続けた。
覚えてない。
あいつは、俺のことなんてちっとも。
「こら」
隣に控えていた警察官がたしなめる声に、男は笑うのをやめ、椅子に深くもたれかけた。
やられた。
そのとおり、俺はあいつと違ってちっぽけでくだらない男だ。あいつにとって俺は記憶の片隅にも残らないくらいに。
横の小窓から差し込む陽光を清々しい気持ちで男は見つめる。
心は晴れやかだった。
立ち上がるように促され、男は部屋の外へと連れ出される。
人間、なんだって出来るさ。
くく、と男は笑いながら、己の人生の再出発に向けて一歩踏み出した。
デイー君は姿を消した後、色んなことがありましたのでそれどころではないのです。