水底から立ち昇る泡沫の物語、あるいは忘れられた船乗りのお伽話
太陽の光が、塵の漂う空を越え、ぬくい空気の塊を抜けて、そのうちの一部が海の中に迷いこむ。
目を凝らせばようやっと見えるかどうかの、細い銀色の光が砕ける場所よりももっと深い、海藻がなんとか息ができるかどうかという場所で、彼らは睫毛を揺らめかせ、冷たい唇を開く。
「なんだそれ?」
朝一番の漁を終え、波に身をまかせる船の上で朝食をとりながら、赤銅色の男が向かいの、同じく赤銅色の男に問うた。
「流れだったお前さんは知らねえだろうけど、ここらで細々と伝わる昔話さァ」
言われてみれば、疑問を呈した男は繊細な顔つきで、周りにいる筋骨たくましい男たちとは系統の違う容姿だ。よく見れば、元は色白だったのだろう、やや細身の男の袖口からは白い肌が覗いていた。
飯を掻きこみながら、先祖代々この辺りに住んでいるらしい男は、また口を開いた。
「んでな、続きがあってよゥ」
――ねえ、僕のこと、好き?
薄暗い、ごつごつとした青い岩棚に寄りかかって、男女が指を絡ませている。二人の目は慈愛に満ち、どこまでも甘く透き通っているかに見える。
二人の姿は、地上の人間が見たならばギョッとするような姿だ。腕を含めて胸のあたりまではその人間のそれのようだが、そこから唐突に切られたように肉は失せ、微動だにしない心臓と真珠のような鈍く光る胸骨と、一尺ほどの背骨だけがある。そこから先は糸のようなものが伸び、螺旋状に小さく丸い葉が、下に行くにつれだんだんその緑色を濃くしてまとわりついている。
――ええ、好きよ
女の方は男を掻き抱くと緩い泡となって溶けた。
男は透明な微笑みを崩さぬまま、下半身をよじらせてその場を早々に去った。
ふらり、と男の下半身とよく似た海藻に近づくと、その先の淡い桃色の花は綻ぶように人の上半身に変わる。瑞々しい、美しい娘だ。
――こんにちはお嬢さん
――ねえ、僕のこと、好き?
――待て、彼女は俺の恋人だ
近くに漂っていた海藻が、憮然とした男になる。
――ええ、好きよ
娘は恋人だと言った男ではなく、新たに現れた青年を満足そうに抱きしめ、やはり泡になって消えた。
男は驚愕に顔を歪め、しかし後ろめたい優越感を恋人を奪った男に向け、新しい恋人を探しにゆく。
彼らは愛することを知らずに死んでいった人間の成れの果て。
彼らは愛を与えられるようになると、泡となり、母なる海に還る。
男は今日も愛すべき恋人を探していた。心の臓の奥深く、固く閉じられた記憶の隙間から湧き出す焦燥に駆られて、愛し合える、共に海に溶けゆく恋人を、星が生まれ変わるくらいの時間を探しつづけている。
金剛石の瞳の若い娘であったり、歯の欠けた針金の老婆であったり。
男はどんな女たちにも愛されたが――彼自身が誰かを愛することはなかった。
彼は未だ――水底を彷徨っている。
「怖えな」
饒舌な男の話を、なんとはなしに聞いていた男が吐くように呟いた。決して大きくはない、寄せる波音に隠れるほどの呟きだったが、相手の男の耳には届いたようだ。
「お前さんは平気だろうよ。嫁さんも子供も居るしよォ」
男は白い歯を見せて大きく笑うと、食器を片すために立ち上がった。
その姿を見送って、男は海風にぶるりと体を震わせた。
――ねえ、僕のこと、好き?
男は未だ、海を彷徨っている。