侍女長アトリ
あの方がお生まれになった時は、数年続いた酷い干魃の最中でミルクを溶かすための水さえ欠く始末でした。
ランジェさまに侍女見習いとして仕え始めていたわたくしは、あの方のために工夫してミルクを溶いたものだけど少々水分が足りなかったようで、吐き出してしまわれた。
それも、わたくしの顔に目掛けて。
直撃でしたわ……。
「アトリ、もう少し薄めてきなさい。とっておきの水を使っていいわ」
仕方なしにそう言う奥様の言葉に、わたくしは聞き返しました。
「え、でもあれは、最後の一樽ですよ。あと何日持つのか、こないだも旦那様とお話になっていたではありませんか?」
「でも、この国では、数年前の侵略戦争が終わってからというもの、水は他国からの輸入キャラバンに頼らなければ満足に食事すら出来ないのですもの。少し高いですけど、隣の国ガルバドスンからの輸入キャラバンを待ちましょう。」
ランジェ奥様とのお話の最中に何か、スウという涼しげな風?っぽいものが動く気配がしました。ランジェ奥様の目が見開かれ、セトラさまを驚きに満ちた眼差しで凝視していました。
屋敷の外が黒々とした空になったかと思うと、雨という現象で空から水滴がというより滝みたいなものが降り落ちてきました。
後日、わたくしが感じたスウとした感覚の事を奥様に相談したところ、奥様も感じていたという事に驚きを隠せませんでした。
「あれは魔法。その流れの残滓みたいなものよ」という言葉に声を失いました。
だって、その感覚のすぐあとに、旦那様がお作りになった領内の溜め池は七割ほどの水量で満たされていたのですから。
あの日、セトラさまが目覚めるまではそんな奇跡みたいな事は起こりませんでした。
でも、あの日を境にして、雨という現象は単なる奇跡の回数を超えました。
あのたった一日の奇跡は、各国にも影響を及ぼしたようで日々の天気さえも変えていったのです。
お生まれになって半年ほどで這い這いとか有り得ないと思っていると、わ、わたくしのスカートへと突入してくる事が増えました。ドアを開けた瞬間に、です。その俊敏さも有り得ないとか思っていましたら、ブドウ畑の火事がございました時にわたくしは見てしまったのです。
火事が館にうつるかも知れないという事で、当時伯爵家に遊びに来られていたコヨミさまとウェーキさまがセトラさまのお部屋にいるという事で避難をするために、お部屋を確認していたときのことでありました。
微かな声が聞こえ、こちらにいるのかなと扉を少し開けたときのことでした。
「転移」と、おっしゃられたのです。コヨミさまではありません、可愛らしいですがきちんと男の子の声でした。セトラさまとウェーキさまのどちらか。
ほんのちょっとの時間にセトラさまのいる机にコヨミさまとウェーキさまが転移していたのを見た時に先程のお声はセトラさまだったのだと確信していたのです。
わたくし、……………わたくし、感激していました。このお年であそこまでの魔法を操るとは、と。それからは、セトラさまの動向を物陰から探りながらお仕えいたしておりました。ああ、わたくしのセトラさま……。
共同浴場を考え出されたあとに、「床暖房」という部屋が暖かくなる工事に従事された際も、たびたび、転移の魔法で抜け出すセトラさまを追い掛ける部隊が設立された時も、わたくし自ら志願して追い掛けメイド&執事隊の隊長を拝命いたしました。
『クフフ、コレでセトラさまを追い掛ける口実が出来ましたわ。』
内心、快哉を叫んでおりました。心の中でガッツポーズでしたわ。
「いいけど………、アタシのように深みにハマると大変だよ?」
そう、シノブお姉様が言っていましたが、その時のわたくしには何が何やら。
誰かがいないとかで、カラス魔人の格好でしたから違和感ありまくりでしたわ。
でも、王様方との昼食会に給仕としてシノブお姉様に呼び出された時に、その意味がようやく分かったような気がいたしました。
わたくしとは立場の違う方々がセトラさまに送る熱いまなざし。
それが意味するものは…………。
わたくし、負けませんわ。あの方たちがセトラさまのそばで支えられるというなら、わたくしは、わたくしに出来る事で支えますわ。
「メイド&執事隊の隊長として、タク・トゥルさまとともにセトラさまのお国を守りたいのです。」
タク・トゥルさまに直訴いたしました。
「あなたの熱い気持ちは分かりました。しばらくはわたしの元で修行してください。そののち、側仕えとして、セトラ様付きになって戴きます。」
タク・トゥル様のお言葉に、わたくし、うろたえました。
「は………、はいよろしくお願いします。」
気付かれていましたわ。わたくしの浅ましい心に。は、恥ずかしいですわ。
「セトラ様のお子は、何人いらっしゃってもよろしいのですからね、ふふふ。」
声がありませんでした。でも、わたくし、皆さまには、負けませんわ。
魔王国に修行に行ってこようかしら……。
「第二の修行先はどちらに行かれてもよろしいですが、まずはわたしの元で修行して戴きますね。」
そう言ってにこやかに笑いかけられたが、わたくしは悪魔に魅入られたかのように身動きできなかった。わたくしも、魔王国の出自だが、この方には敵わないと思いました。
そして、再び、セトラ様の元に着いた時、あの方は魔力を補充しながら必死に魔物を制御しておられました。
「あ…、ああ……。あああ………。」
セトラ様の魔力切れの危機に動いた方たち。コヨミ様、プ・リメラ様、プ・リウス様、確かご学友のレイ様。く、唇からの魔力の受け渡し……。うらめやましい……かも。
ま、負けていられませんわ。瞬動!
イクヨ様の前にスベり込み、唇を合わせた瞬間にわたくしの気持ちが魔力とともに溢れていました。
嬉しいですわ………、セトラ様。これからもお側におりますわ。