(4) 聖暦一五四三年一月 アズヴァーラ王国の内情(前編)
聖暦一五四三年一月四日。
南下していたアズヴァーラ軍に凶報がもたらされる。
闘神グルードゥスと魔術神ヴァステノスが、パーヴィリア軍に味方することだ。
竜人の守護女神シャルリーゼに仕える天使によって知らされた。
グルードゥスもヴァステノスも上級神であり、パーヴィリア軍はかなり強化されるだろう。
この凶報はごく一部の将帥にだけ知らされ、大多数の兵士には知らされなかった。
兵士が知れば、士気が大きく低下するだろう。
何が何でも、それは避ける必要があった。
パーヴィリアにとっての幸いが、アズヴァーラの不幸となったのだ。
だがそれは、敵対する者達が全て受けるべき運命である。
アズヴァーラ軍の前衛で、威風堂々たる老将が立派な黒毛の馬にまたがっていた。
白銀に輝く鎧をまとい、一見にして身分高き将帥とわかる装いだ。
名前をシードル=ブロームといい、髪も髭も白くなっていたが、雄大な体躯と引き締まった面立ちに老廃さは感じられない。
彼は聖竜八家と呼ばれる中の一つであるブローム家の当主だ。
八家の当主は公爵であり、国王崩御時には互選によって、八家当主の誰かが国王に選出される。
現アズヴァーラ国王のバルタザールは聖竜八家の一つ、エクダル家出身であった。
聖竜八家と他の竜人には大きな違いがある。
竜化できるか否かだ。
竜化することで大きな戦闘力を持つ竜となり、戦いにおいて大きな力を発揮する。
ただし、大きな制約があった。
一度竜化すると、少なくとも三ヶ月は間をおかないと竜化は行えない。
また、竜化の発動時間は約三十分であり、それを越すと強制的に人の姿へ戻る。
その後、反動によって、最低でも数日は身体能力が大きく低下してしまう。
これらの制約によって、おいそれと竜化できなかった。
竜化後を狙われる可能性があり、実際に暗殺された者が数多くいたからだ。
それでも、大きな会戦となると竜化が行われ、無類の力を発揮してきた。
制約がなければ、竜人の勢力圏はもっと広かったであろう。
ブローム公爵は馬上で伝令から受け取った手紙に目を通す。
一瞬、険しい雰囲気を漂わせるが、すぐに平常を取り戻す。
彼は手をあげ、側近を呼ぶ。
直ちに側近が馬を飛ばして、ブロームの横に並ぶ。
「この手紙を処分してくれ」
「かしこまりました」
ブロームから手紙を受け取り、側近は魔術で小さな火をおこし、手紙を燃やした。
「ご苦労。行軍は予定通りに」
「ははっ」
側近は部隊長に指令を知らせるべくブロームから離れた。
ブロームは南の空を凝視する。
新たな敵となったグルードゥスやヴァステノスに仕える天使を探すかのように。
そんな彼に近づく一騎があった。
彼の孫娘であるリュドミラだ。
氷竜人の特徴である銀瞳銀髪に青みがかった白い肌。
それはそのままに、彼女の容貌には気品と美麗さ、強さが同居していた。
「おじい様、本営から何か」
「大したことではない」
リュドミラはやや躊躇するが、言葉を紡ぐ。
「そのようには見えませんでしたが、差しさわりがなければ教えてください」
「私の顔にそう書いてあったか」
ブロームは苦笑する。
「はい、おじい様」
リュドミラは微笑む。
「機密だ。仔細は後で話そう。今はただ行軍を続けるがよい」
「……差し出た振る舞いでした」
「いや、よい。聡い孫娘を持てて、私は幸せというべきだ」
「まぁ、おじい様ったら」
二人は目をあわせて軽く笑い、リュドミラはブロームから離れる。
ブロームは正面を向き、馬を静かに進める。
(この戦、もっと強く反対すべきであったか。しかし、それでも結果は変わらぬであろうな……)
ブロームは出陣前に行われた御前会議に思いを馳せる。
◇ ◇
時はさかのぼり、聖暦一五四二年十一月十九日。
アズヴァーラ王宮、神竜の間にバルタザール王と聖竜八家の当主が集まっていた。
パーヴィリア王国への出兵について議論するためだ。
バルタザールが論陣を張る。
「パーヴィリアを放置すれば、ヨナーシュ王の下、どこまでも発展していくだろう。悔しいが、パーヴィリアの土地はアズヴァーラよりも豊かだ。暗君、凡庸な国王であれば、何の問題もない。宝の持ち腐れとなるだけだ。しかし、ヨナーシュが国王である限り、パーヴィリアの国力は増していく。今なら、まだ間に合う。全軍でもって、パーヴィリアを討ち、後顧の憂いを絶つべきに思う。議論した後、パーヴィリアへの出兵について票決したい」
アズヴァーラ王国では大事を決める際、国王、聖竜八家の当主で票決を行うのが習わしであった。
八家当主はそれぞれ一票を持ち、国王のみ四票を持つ。
六人の当主が反対すれば、国王の意見といえど、五対六で否決される。
国王の権力は強大であるが、一定の歯止めがかけられていた。
「よろしいですかな、陛下」
ブローム公爵が声をあげた。
「この場で最年長であり、公が一番経験豊かだ。忌憚なく意見を出して頂きたい」
バルタザールの鋭い眼差しがブロームを見つめる。
「お言葉に甘え、言上いたしましょう。結論からまず申し上げます。私はパーヴィリアへの出兵に反対いたします」
ブロームの決然とした言葉に、出席者の誰かが大きく息を吐く。
バルタザールの目つきが厳しくなるが、それに臆することなくブロームは見つめ返した。
「公よ。反対する理由を聞かせて頂きたい」
自分の意見に反対されたにも関わらず、バルタザールは激することなく問いただす。
それにブロームは間髪いれず、答え始める。
「パーヴィリア王ヨナーシュは即位の際、鮮やかな軍才を見せました。六月にあったソヴェスラフの乱も瞬く間に鎮圧しております。将軍を抜擢するに家柄ではなく能力をもってなし、強大な力を持った冒険者も登用しております。訓練を怠らず、兵士は強兵というべきもの。総司令官、将軍、兵士、いずれも優れております。絶対に勝てないとは申せませんが、敗北する可能性は高く、勝てたとしても犠牲は極めて大きくなるでしょう。ゆえに、反対いたします」
ブロームの言葉にバルタザールは答えず、瞑目する。
代わりに言葉をあげたのは一人の麗人であった。
「勇猛なブローム公の言葉とは思えませぬ。我らアズヴァーラの軍はパーヴィリアごときにひけはとりませぬ」
麗人の名はレベッカ=グルンデン。
二十歳にしてグルンデン家の当主となり、今は二十七歳でバルタザールと同年であった。
ブロームはその言葉に反駁する。
「この戦いが起これば、多くの命が失われよう。最悪の場合、国は滅びる。私の勇猛さなど、大戦となれば、嵐の前の塵と同じよ」
ブロームとレベッカの視線が火花を散らすかのように交差する。
さらに別の声があがった。
「ブローム公のお言葉に賛成いたします。パーヴィリア相手の戦いは余りにもリスクが大きすぎましょう」
列席者の多くがその言葉に驚く。
言葉を発したのはワムエル=フェルデイ。
バルタザールより一つ年上で二十八歳。
温和な容貌で性格は忠良篤実。
八家当主でバルタザールともっとも親しいのがワムエルであったからだ。
「ブローム公、フェルディ公に同意する。南のイゴル王国と共闘を結べていない限り、ヨナーシュ王相手に戦いを起こすのは避けるべきでしょう」
ワムエルに追随したのはユーリー=イェスト。
理知的なたたずまいを見せ、三十一歳にして犯すべからざる威厳と気品を漂わせていた。
「いや、陛下のお言葉に理がある。待てば待つほど、パーヴィリアは強大になろう。ヤルディラ大森林の開拓を成功させたヨナーシュ王の手腕を考えれば、今起つべきだ。ヨナーシュ王に時間を与えるべきではない」
沈毅な声が反対に傾きつつあった場の雰囲気を一掃する。
声の主はオーヴェ=ダールマン。
武人としての声価を確立している三十八歳の鋼を思わせる男性だ。
賛成論を述べるバルタザール、レベッカ、オーヴェ。
それに反対するブローム、ワムエル、ユーリー。
立場を明らかにしない残り二人。
ブロームは論陣を張り続けた。
バルタザール、レベッカ、オーヴェの三人で六票。
出兵可決となるのは間違いない。
しかし、彼は反対し続ける。
愛する国と愛しい民を守るために。
「この出兵は、国や兵の命を博打のかたに差し出すに等しい。陛下には亡国の王となる覚悟があろうか!」
「ブローム公、控えよ! いくら最年長の公といえど、言葉がすぎようぞ!」
レベッカが眦をあげて叫んだ。
「すぎるものか。私はブローム家の当主として責任を持つ身ぞ。この老骨一人は惜しくない。されど、将来ある若者達が死に絶え、忠誠を捧げるアズヴァーラが滅びるかもしれぬのだ。この出兵には断固反対する!」
「ブローム公の言葉こそ正しい。我らにはアズヴァーラを守る責務がある!」
頬を紅潮させて、ワムエルが同調する。
「我らとて、御国のことを考えておるわ! だからこそ、今のうちにパーヴィリアをたたくのだ!」
沈毅な彼にしては珍しく、オーヴェは声を荒げた。
このように時には激しく、時には微かな沈黙が漂いながら、時間がすぎていった。
バルタザールが右手をあげると共に、論戦を交わしていたレベッカとワムエルは黙った。
「議論は尽くされたように思う。票決に入る前に、予の気持ちを最後に述べたく思う。パーヴィリアは強敵だ。勝てたとしても大きな犠牲が出るだろう。それは認めよう。しかし、パーヴィリア王ヨナーシュは今、三十九歳。武人として頑健な体を持つ。病に犯されなければ、二十年以上パーヴィリアを治めよう。仮に二十年後、強大になったパーヴィリア軍が我が国に攻めてきたら、たちうちできようか。ヨナーシュはこれまで他国を攻めたことはない。しかし、予はそれがヨナーシュの真なる姿ではないように思う。野心なき者が異母兄を殺してまで即位するものか。軍事力をここまで強化するものか。ヨナーシュの野心は周辺国の侵略にあると予は確信している」
バルタザールの意見に同調するレベッカ、オーヴェは我が意を得たように頷く。
反対するワムエル、ユーリーは顔をそむけ、ブロームは両腕を組んで目をつぶった。
「我ら竜人の守護女神であらせられるシャルリーゼ様の内諾もいただいている。出兵が決まれば、全面的な支援が得られよう」
バルタザールの言葉にほとんど黙していた一人の男が話し出す。
「シャルリーゼ様が認めておられたか。ならば、もう事は決した」
一見、気弱そうに見える壮年の男性が細く声を出した。
彼の名はマーカム=ヒョランダル。
守護女神シャルリーゼへの信仰が篤いことで知られていた。
そして、中立を保っていた最後の人物も意見を決する。
「是非に及ばず、というものだな」
抑揚を極めて抑えていた声であった。
彼女はエステリア=ヤンソン、八家当主で二人いる女性の内の一人だ。
もう五十を越えていたが、若い頃はさぞかし美人であったと思わせる顔立ちであった。
「ヤンソン公、考え直してくださるまいか」
ブロームは目を開き、エステリアを見つめる。
先ほどまでの激語と異なり、極めて静かな声であった。
「……もう決しましたよ。こうなれば、できる限り心をあわせて戦い抜くしかないでしょう」
エステリアの声は大きくなかったが、神竜の間全体に響き渡った。
ブロームは返事を返そうとして、口を閉ざす。
「ヒョランダル公、ヤンソン公、よく決心していただけた。ならば、正式に票決を行おう」
バルタザールの言葉にブロームは食い下がる。
「陛下、票決を延期していただけまいか。私は……」
ブロームは言葉を続けようとしたが、思いとどまる。
恥を知るがために。
「……ブローム公、それはできぬ。予が今、国王としてあるのは公あってこそ。公には深く感謝している」
「……私は陛下の英邁さを信じております。あの時も今も」
「ありがたく思う、公」
二人の視線の間には、様々な色合いの感情がたゆたう。
五年前にワムエル=フェルデイの父である先王が崩御した際、聖竜八家の当主によって新国王の互選が行われた。
先王の息子であるワムエルには、国王となる権利も投票する権利もない。
これは一つの家が独裁するのを防ぐためのルールであった。
互選において、バルタザールとユーリー=イェストによる一騎打ちとなる。
ワムエルはバルタザールの親友であったため、ワムエルが投票できないのはバルタザールにとって不利であった。
バルタザール支持を明らかにしていたのはレベッカ=グルンデンのみ。
対して、ユーリーはオーヴェ=ダールマンとマーカム=ヒョランダルの支持を得ていた。
二対三の情勢下において、シードル=ブルームはエステリア=ヤンソンを口説き落とし、バルタザールを支持した。
その結果、バルタザールが即位できたのだ。
当時の敗者であるユーリーは、バルタザールとブロームを何者をも射抜くような瞳で見つめていた。
(ブローム公よ。貴方は選択を誤られたのだ)
両者を見るユーリーの瞳は冷たくなっていく。
「だが、大恩ある公といえど、票決を延期することはできぬ」
バルタザールは毅然たる態度を示し、ブロームは無言でうつむく。
「他に異論あるまいな?」
バルタザールは一同を見渡す。
寂然として、声をあげる者は誰もなかった。
「予が提案するパーヴィリアへの出兵に対して賛成する者は、右手をあげよ」
その言葉に対して、バルタザール、レベッカ、オーヴェ、マーカム、エステリアが右手をあげる。
ブロームは瞑目し、バルタザールの親友であるワムエルは俯き、王位を争ったユーリーは冷然としていた。
王位互選時には、バルタザール、レベッカ、ブローム、エステリア、<ワムエル>対ユーリー、オーヴェ、マーカム。
それが今では、バルタザール、レベッカ、エステリア、オーヴェ、マーカム対ユーリー、ブローム、ワムエルと構図が大きく変化した。
バルタザールはまずレベッカと語らい、パーヴィリアへの出兵に対して賛同を得ていた。
さらに前もってオーヴェに根回しをし、シャルリーゼの支持を得ることによってマーカムが賛成にまわるよう細工していたのだ。
これで誰か一人が意に反したとしても、出兵案は成立する。
票決の前に結果は決まっていた。
バルタザールにとって、政治とはそういうものであった。
自分に従うと思えないユーリー、出兵を忌避するであろうブローム、考えが読めないエステリアの票は必要なかった。
そして、温厚なワムエルには親友であるにも関わらず、バルタザールは事前に話をしなかった。
ワムエルの気性からして反対されるのはわかっていた。
事前に話をして、ワムエルからブロームに話をもれるのを避けたのだ。
そうなれば、政治力を持つブロームに形勢をひっくり返されるかもしれない。
ワムエルはブロームを武人として崇敬しているのをよく知っていた。
十分に可能性がある話なのだ。
自分もまた十代の頃は憧れるようにブロームを見ていた。
ワムエルの気持ちは、かつての自分が抱いていたものと同じなのだ。
だからこそ、わかりすぎるほどにわかっていた。
ブロームはバルタザールとワムエルにとって剣の師匠であった。
唯一無二といえるほどの。
だが、彼ら二人と道をたがえるのに、バルタザールは躊躇しなかった。
バルタザールは情を捨て、野心をつかんだ。
むろん、野心だけではない。
祖国のためという想いはとても強い。
話した言葉に嘘偽りはないのだ。
しかし、大陸に世界に覇を唱えたいという気持ちが自分にあることを、誰よりもバルタザールは知っていた。
悠然とバルタザールは立ち上がる。
「八票対三票。予が提案したパーヴィリアへの出兵案は可決された。諸公よ、様々な異論はあろう。しかし、我らがアズヴァーラはパーヴィリアに対して、国運を賭けた戦いを挑むことになる。異論を抑え、予を助けて欲しい」
その言葉に「はっ」と諸公はこたえ、立ち上がって頭を下げる。
頭を下げることによって、バルタザールから諸公の顔に浮かぶ表情が見えづらくなった。
だが、バルタザールにとってそれは問題ではない。
様々な根回しをしてまで、目的を達することが出来たのだ。
それだけで満足すべきだった。
全員の心をとることなど、最初から不可能な話なのだ。
持てる力を自分のために奮ってくれれば、それでよい。
バルタザールは満足げな表情を浮かべた。
ワムエルは俯きながら、悶々とした感情を抱いていた。
パーヴィリアへの出兵は危険すぎる。
どうして、それが敏いバルタザールにわからないのか、と。
ブロームの指導の下、二人で真剣に剣を振る姿を思い出す。
少年の頃、笑いながら、様々なことを語り合った。
武術、政治、学術、魔術、恋、そして未来について……
青年となった今も、ワムエルは国王となったバルタザールに全力で仕えていた。
不満を一切抱かずに。
(ああ)
ワムエルは心中でうめく。
気づいてしまった。気づきたくないというのに。
自分が本当に不満なのは、パーヴィリアへの出兵をバルタザールが提案したことについてではない。
そんな大事を前もって相談されなかったことについて、不満なのだ。
強く、激しく。
自分は親友ではなかったのか、と。
少年時代、二人で過ごした日々が色あせていくのをワムエルは感じる。
父が王である以上、ワムエルは自分が王位につくことはない。
だが、親友であるバルタザールが王であれば、それで満足できたのだ。
今日までは。この時までは。
ブロームは自分に問いかける。
バルタザールを王にしたのは過ちであったか、と。
その答えは出てこない。
自分の心のどこからも。
あるいは答えたくなかったかもしれない。
バルタザールは小さな子供の時から優秀だった。
性格に驕りたかぶったところもなく、ワムエルと共に文武に励んでいた。
自分が師であり、それはよく理解していた。
だが、それは「理解していたつもり」だったかもしれない。
そんなことを考えたくもないのに、ブロームの心に少しずつ湧き出てくるのだ。
王位継承時に対抗馬であったユーリーは、冷静さと賢明さをあわせもち、王の器として問題ないとブロームは考えていた。
だからこそ、バルタザールに対して、一時は優勢であったのだ。
しかし、自分の手によって、バルタザールを王位につけ、ユーリーを落とした。
そのことを後悔した事はない。
今日までは。この時までは。
思い悩んだブロームの心が静かになっていく。
(……自分の行動に責任を取らねばならんだろう。戦いと決まった以上、身命を賭してアズヴァーラを勝利に導く。たとえ、身は果てるとも……)
アズヴァーラの運命を決した論議は今ここに終了した。




