(18) 聖暦一五四二年六月 ミロシュの選択
ミロシュもカミルもシモナも、力の限り、走っている。
ヤーデグの姿をした死に追いつかれないために。
三人の表情はまさに鬼気迫るものであった。
空から、そんな三人を新たな食事とすべく、ヤーデグが接近してくる。
ヤーデグが出すブブブとも、グググとも聞こえる羽音は三人にとって、死を音楽にしたものだ。
少しずつ、その音量が大きくなる。
聞きたくもないというのに。
ここにきて、残っていた体力の差が露わになった。
先頭から、カミル、ミロシュ、シモナという隊列だ。
意図したものではなく、走力の差がこの隊列を形成した。
カミルとミロシュの差はそれほど広がらないが、ミロシュとシモナの差は少しずつ広がっていく。
徐々に離れていくミロシュの背中を見て、シモナは思い悩む。
シモナの顔も瞳も暗い色合いを帯びてくる。
(このままだと、あたしは……)
背から聞こえるヤーデグの羽音が、シモナの悲壮感をいやがおうにも煽り立てるのだ。
カミルもミロシュも必死で、シモナの様子をうかがう余裕はなかった。
シモナは見たくなかったが、意を決し、ぱっと振り返る。
明らかにヤーデグは先ほどよりも近づいていた。
ヤーデグが飛ぶ速度は身体強化をしていても、三人の走る速度より速い。
獲物を捕食するための奇怪な顎、無機質で巨大な複眼、屈強な六本足。
それらがより詳細に見えるようになる。
つまり、近づいてきているのだ。
ヤーデグという死が。
「クッ」
シモナは顔を正面に戻し、もっと速く、もっと速く、と両足をできる限りの速度で動かす。
だが、身にまとう革鎧と槍が彼女の重石となっていた。
速度があがらない。
絶望的なまでにあがらない。
シモナの顔がますます苦悩にゆがむ。
ヤーデグの顎に噛み砕かれる自分の姿を想像してしまう。
そのおぞましさがシモナの脳を侵していく。
シモナがきゅっと眼をつぶる。
しばらくしてから、
「ごめんなさい、お父様!」
と叫んで、シモナは槍を手放した。
シモナの槍は父親の形見だ。
父親が死んでから、この槍と共に生きてきた。
かけがえのない、かわりがきかない槍なのだ。
でも、命にはかえられなかった。
ヤーデグがこれだけ跳梁していれば、他の冒険者達もおいそれと近づけないだろう。
事態が沈静化してから、回収すればいい、と思い定めたのだ。
自分にとって都合のいい考えだと、シモナはうすうす気づいている。
だが、そうでも思わないと、槍を手放せなかった。
槍を捨てて、シモナの走る速度は上がった。
ミロシュとの距離を縮めるべく、シモナは全ての力を足にこめる。
シモナは涙を流しながら、走った。ただ、走った。
何も考えないようにして。
しばらくして、ミロシュはシモナが気になり、振り返った。
シモナがついてきているのを確認して、すぐに正面を向く。
ミロシュはシモナが槍を持っていないのに気づくが、問いかける余裕もなく走り続ける。
シモナがあの槍をどれだけ大事にしているか知っているだけに、ミロシュは心が痛んだ。
はっきり見えなかったが、泣き顔のようにも思えた。
だが今は、生きるか死ぬかという状況だ。
シモナの判断は正しいだろう、とミロシュは思う。
(せめて、シモナの槍を探す手伝いをしよう)
と、ミロシュは固く誓う。
三人は死の恐怖に抗いながら、短くも長い時間走り続ける。
ヤーデグに距離を詰められながらも、先頭のカミルはついに森まで約百メートルという地点に到達した。
余裕ができたカミルは後ろを向くと、ミロシュはともかく、シモナが遅れている。
顔をしかませて、カミルは前を向く。
走りながらも、シモナのために何かできないか、考え続ける。
三人とヤーデグの追走劇は、ついに終わりを迎えようとしていた。
カミルがまず森に入った。
もはや、肩で息をしている状態であり、木陰で休みたかったが、止まらず左手の方に向かう。
追いすがるヤーデグを光球で迎撃するためである。
ミロシュ-シモナ-ヤーデグを結ぶ直線上にカミルがいれば、ミロシュやシモナが射線に入ってしまい、光球での迎撃が難しくなるからだ。
カミルが移動をやめて、光球で迎撃に入ろうとしたとき、ミロシュも森に到達する。
カミルの杖から、光球が放たれ、最も近いヤーデグを迎撃する。
だが、距離がまだ百メートル以上あるのもあって、光球はヤーデグに当たらない。
「くそっ……」
疲労困憊のカミルはまだ大きく息を乱しており、さらに光球を放とうとするが、魔法は発動しなかった。
「落ち着けっ……」
カミルは少しでも息を整えようと自分に言い聞かせる。
ミロシュもまた、まともに動ける状態ではなかった。
立ちくらみするほどだ。
だが、カミルの動きを見て、自分も火球で迎撃すべく、移動を開始する。
シモナはようやく、森まで約数十メートルという距離までたどりつく。
しかし、完全にスタミナがきれていた。
足の動きが遅くなり、それに伴い、速度が落ちていく。
それが自覚できるだけに、シモナの心に恐怖が押し寄せる。
ヤーデグの羽音がかなり大きく聞こえるのだ。
もう、振り向けなかった。
そんな余裕はすでにない。
安全な森に少しでも早く逃げ込む。
シモナの心にはそれだけが占められていた。
カミルとミロシュは、シモナを援護すべく、次々と火球と光球を放っていく。
しかし、疲労が正確な射撃を妨げ、火球も光球も一発ずつヤーデグをかすめただけにすぎない。
シモナが森まで約十メートルと近づいた時、ヤーデグはシモナまで約十五メートルの距離に接近していた。
ヤーデグは光球と火球に牽制されたのもあり、速度を落としていた。
だが、今のシモナの走り方では逃げ切れそうにない。
それが、カミルとミロシュにはわかってしまった。
わかりたくもないというのに。
カミルは残り魔力を使い果たす覚悟を決める。
「シモナッ! 間に合えッ!!」
シモナに肉迫しようとするヤーデグの頭部めがけて、光球が放たれた。
一方のミロシュも、
「当たれっ! 当たれっ!」
火球を二発、連射する。
シモナは森まで残りわずかだった。
後、数メートルだ。
それで安全地帯に入れるというのに。
残酷にも、その時にはヤーデグの顎が大きく開かれ、シモナを後ろからかじろうとしていた。
その顎が閉じられる前に、光球がヤーデグの左眼に、火球が胴体前部に命中する。
ヤーデグは態勢を崩して、シモナの首を挟まずに、顎は閉じられた。
シモナは死を免れたのだ。
だが、シモナの右腕が肘よりやや上の部分から、ヤーデグにかじり取られる。
「キャァッッ!!」
たまらず、シモナは転んで、泣き叫んだ。
激痛にもだえ苦しむ。
「シモナッ!!」
その場面を直視したカミルとミロシュはたまらず、シモナの下へ走る。
三人にとって幸いなことに、シモナの腕をかじり取ったヤーデグもまた、左眼を失い、胴体前部に開いた大きな穴による苦しみから、左へ右へ暴れ回っていた。
そのヤーデグによって、後に続くヤーデグの群れが三人に近づくのを邪魔したのだ。
その間に、カミルとミロシュはシモナを森の中へ運び込むのに成功した。
ヤーデグの群れは獲物を取り損ねたのを知り、去っていった。
傷ついた一匹は群れについていけず、不規則に飛び、暴れ、地に落ちを繰り返して、やがて力尽きた。
もちろん、三人は助かったのを喜ぶどころではない。
シモナの腕から流れる血を止めるべく、カミルが包帯を使って止血を行う。
ミロシュは残りの魔力でシモナに回復魔法をかける。
切断部を圧迫し続けることによって、かろうじて出血はおさまった。
回復魔法のスキルレベルは一だが、止血を早める効果と多少疲労を回復させる効果はあった。
シモナは腕から流した血で体中が血まみれだった。
そんなシモナを運んだ二人も、身体のいたるところにシモナの血がついていた。
シモナは横になり、かばんを枕代わりにし、カミルとシモナが横に座っていた。
これまでの疲労、腕を切断したショック、大量出血でシモナの意識は朦朧となってくる。
「……二人とも今まで、ありがとう」
シモナの声はかすれ、弱い。
「そんな言葉、縁起でもないよ。シモナとはこれからも一緒なんだから!」
ミロシュは泣きそうな声でこたえた。
「ああ、血は止まったんだ。大丈夫、助かるさ」
カミルは力づけるようにシモナを励ます。
「……でも、こんな腕じゃ、もう一緒に戦えない。それに足手まといになるから……」
「そんなことないよ!」
「ありがとう、ミロシュ。あたし、二人に出会ってからが、一番楽しかった」
「違うよ。これからも!」
「……だからこそ、二人には生きて欲しいの」
もう、シモナにはミロシュの声が聞こえてなかった。
「あたしをここに置いて、なんとか二人だけでも逃げて……二人が助かれば、あたしはそれで……」
そう言い残して、シモナは眼をつぶる。
「シモナッ!」
ミロシュが叫ぶが、シモナはこたえない。
厳しい顔をして、カミルはシモナの脈拍、呼吸を確かめる。
カミルは少し表情を緩めて、
「大丈夫だ。シモナは気を失っただけだ。だが、楽観視はできないだろう」
と、ミロシュの顔を見ながら、言った。
「カミル、僕はシモナを見捨てることなんて、絶対にできないから!」
「ああ、俺もそんなつもりはない。何とかして、三人で戻ろう」
「よかった。カミルなら、そう言ってくれると思ったよ」
ミロシュの顔に少し笑みが浮かぶ。
「だが、シモナはもう戦えないだろう」
「……高レベルの回復魔法でシモナの腕を治せないの?」
ミロシュの笑みは消え、不安げな面持ちになる。
「切断された側の腕があって、切断されてすぐに回復魔法をかければ、凄腕の冒険者や高位の神官なら治せるだろう。だが、シモナの場合、切断された側の腕がない。だから、現存するかどうかわからない伝説レベルの回復魔法の使い手でなければ、シモナの腕は治せない」
「そんな……!? シモナはお父さんを目標にして、がんばってきたんだよ。なのに……!」
ミロシュの声にカミルは沈黙を保った。
「そんな、そんなのって……」
ミロシュは天を仰いだ。
「……治す方法がないわけじゃない」
カミルの口調は重い。カミルはシモナの顔を見つめていた。
「え、その方法って!」
ミロシュはカミルが示した希望にすがり、カミルを直視する。
カミルはやや口ごもったが、こたえる。
「人間では無理でも、神ならシモナを治せるかもしれない」
「それって……」
ミロシュはカミルが何を言いたいのか、すぐに理解した。
フィラーシアの神ルーヴェストンの力をもらえば、シモナを治せるかもしれないということだ。
「ミロシュ、俺は無理強いをするつもりはない。たとえ、シモナの腕を治せても、その後が問題だ。俺はお前があの力にすがらない選択をしても、お前を責めないからな。シモナを助けられても、お前を失えば、意味はない」
カミルはミロシュを直視するが、その目線は強くなく、むしろ暖かいものだった。
「僕は……」
ミロシュは、カミルから目線をはずして、シモナの顔を見つめる。
シモナの息は荒い。呼吸によって、胸が上下するが、やや激しいように思える。
カミルがシモナの額に手をあてる。
「熱があるな……」
カミルはタオルに水筒の水を浸し、シモナの額にあてた。
「容態が急変しなければ、いいんだがな」
カミルの表情は硬く、声も力強さに欠けていた。
ミロシュはそんなカミルとシモナを何度も交互に見つめる。
ミロシュには、実はもう一つの選択があった。
サララの力を借りるということだ。
だが、サララは近くにはいない。
いつ戻るかもわからない。
だが、サララが戻るまでに、シモナの容態が急変するかもしれないのだ。
なので、この選択肢は放棄せざるを得なかった。
後は、ルーヴェストンの力を借りるかどうかだ。
力を借りれば、シモナを助けられるかもしれない。
しかし、それが他の神々にばれれば、自分は殺されるかもしれない。
シモナは絶対に助けてあげたい! と、ミロシュは強く思う。
だけど、その代わりに自分は死んでしまうかもしれないのだ。
綺麗事だけではすまなかった。
ミロシュは煩悶する。
その悩み苦しみがミロシュの表情に色濃く反映される。
そんなミロシュの姿を静かにカミルは見守っていた。
思い悩んだ末に、ミロシュの表情から歪みがとりのぞかれた。
ミロシュはカミルを直視する。その眼差しはとても強い。
「カミル、あの場所へ行こう! 僕はシモナを助ける。それに、草原を突破するためにも、今以上の力が必要だから」
「ミロシュ、本当にそれでいいんだな?」
「ああ、僕は決めたんだ。この選択に後悔はしないから」
「……わかった。ありがとう、ミロシュ。実を言うと、シモナを抱えながら、ソヴェスラフに戻る算段が全くたたなかった。お前に選択を委ねるといいながら、俺は……」
「もう、いいんだよ。カミル。お互い様だよ。僕達はこれまで助け合ってきたんだ。これからも、助け合おう」
「……ああ、俺はこれからもできる限りのことはする」
「じゃあ、行こう。あの場所へ!」
ミロシュが思い悩んだ果てに思い出したのは、自分が倒れた時に世話してくれたシモナの姿だった。
甲斐甲斐しいシモナ――
自分のために怒ってくれたシモナ――
優しく笑うシモナ――
そんなシモナを失うわけにはいかなかった。
死ぬのは怖い。恐ろしい。
だけど、ルーヴェストンの力にすがらず、もしシモナが死んでしまえば、一生後悔し続けるだろう。
それを想像すれば、死の恐怖を振り払うことができた。
ミロシュは心が強いとはいえない。判断力が特別優れているともいえない。
人生で幾度も幾度も選択を間違えたことがある。
間違いに気づいて、何度も後悔した。
主に、父親がリストラされて家庭が崩壊した時だ。
だけど、ミロシュはこの選択で後悔することはないと確信していた。
たとえ、この選択で死ぬ事になったとしても――
一つだけ心残りがあるとしたら、自分を信じて盟約を結んだサララに対してだった。




