最終話 天問
何処からともなく伝わり来る想い。
切なる願いは祈りとも聞こえ、近隣のあらゆる生きとし生けるモノの胸へと響く。
『逃げろ、生きのびろ』と――。
空を行く鳥たちも、木の芽を食む野の獣も、大地を這う蛇や地中の蟲までもが耳を澄ます。
広大な大地を、響く言葉を疑う事もなく逃げ行く、力の限りに駆けてゆく。
人の子も、怪の親も、みな愛するモノの手をとって走る。
彼方、後方で激突する二つの光と闇。
輝く光球を包み込もうと無数の闇が帯となって迫る。
其の隙間を縫うように避け、飛ぶ白鳳丸が、大きく羽ばたきぐんと、身体一つ先に出た。
「しつけぇ野郎だ、こちとら遊んでる暇なんてねぇんだよ」
「あそぼう、もっとあそぼうっ」
「よーしよし、お兄ちゃんが遊んでやるからな。着いてきやがれっ」
「……く、くくくあははははっ」
元より遊びのはずもない。
次々に休む事無く繰り出される煉獄丸の攻撃は、茨の棘によって白鳳丸の腕を足をと、其の肌を切り裂いてゆく。
千とも数える傷を負い、其の上、渦巻く邪悪な瘴気に刻一刻と命を削られゆくを感じる白鳳丸。
片や、煉獄丸は、紅蓮の唇を耳まで裂かし、嬉々として嗤い狂う。
其の姿、さながら、獲物を弄ぶ猫の所業。燃え盛る紅蓮の髪さえもが赤蛇となって襲い掛かる。
「ふははははっ、逃げろ、もっと逃げろっ」
「っ、にたにたしやがって……気にいらねぇ。黙って、着いて来いっ」
「白鳳丸……」
刹牙、白鳳丸。そして煉獄丸が向かう北の果て。
岩肌もあらわにそびゆる深山の谷あい。
両側を断崖に囲まれた一筋の道。
突き進めば、先に視ゆるは静寂なる湖畔。
「……視えたっ……!母妖殿っ」
数分先から空に地に、黒い弾幕のように、流れる川の如くに、散ってゆく狐狸妖怪、人、蟲、鳥の群れが千鶴の目に映っていた。
そして其の命の流れの向こうから、真っ直ぐに流れを分かちて駆けて来る。
漆黒の狼王、刹牙。
「千鶴っ、来るぞ!」
「はい!」
疾風の礫と成って駆けた勢い凄まじく、刹牙は大地に力強く爪を立て千鶴の前に止まった。
立ち上る砂煙に千鶴が声を掛ける。
「先駆け、ありがとうございます。さぁ、貴方も――」
「千鶴、今一度聞くっ。あの邪悪、何を持って封印せしめんとするかっ」
「我が観音力と真言でっ」
「ならば、機会は一度。それまでは隠れておれっ」
「いやですっ」
「ふふん、予想通りの反応をしおって」
「来たっ。白鳳丸!」
「お嬢!」
「危ないっ」
「ぐあっ」
満身創痍の其の中で、千鶴の声にぬかったか、白鳳丸の白い足を煉獄丸の茨の蔓が遂に捕らえる。
「やれやれ……」
「白鳳丸!」
「とらまえたぞ……。どうした……もう終いかえ」
「煉獄丸、其れを放せ」
「……いやじゃ」
「この刹牙が、遊んでやろうほどに」
「おぉ」
母妖の言葉に、華開くほど美しいその顔を綻ばせる純粋なる悪、煉獄丸。
美々しい瞳を大きく見開いて歓喜の表情で妖しく魅笑する。
まるで捕らえた羽虫に飽いた幼子の残忍さで白鳳丸を冷然と打ち捨てる。
鞭のようにしなる蔓に勢いつけて大地に打ち付けられた白鳳丸が血反吐と共に小さく叫ぶ。
「ぐはぁっ……!」
「白鳳丸!」
「やれやれ、もう少し丁寧に扱えぬものか」
「……あそぼう……」
「よしよし……参るぞっ」
「あはははははっ」
鋭い爪で大地を掻いて、飛び上がる。
目にも留まらぬ素早さで黒い筋のように煉獄丸目掛けて掛かっては離れ、攻撃を仕掛ける刹牙。
「止まれば死ぬ、コロス……殺すぞ……うふ、うふふふふっははははははっ」
襲い来る牙と爪を寸前で避けながら、うっとりと嗤う。
蒼白い頬がほんのりと高揚し薄紅に染まる。
豪奢な衣に血の一筋もつけぬよう、それでも煉獄丸の爪は薄い刃となって、駆け飛ぶ刹牙の皮膚を切り裂く。
遂に一撃が刹牙の肌を捕らえ切り裂く、続けて繰り出される爪を裂け、刹牙は後方へ大きく跳ね飛んだ。
「……母妖の獣、綺麗な獣……とらまえようぞ、血肉を啜ろ、捕って喰おぅ……。……ハハギミ……抱いてくりゃれ……」
ゆうるりと近づく大妖怪煉獄丸。
刹牙の脈打つ鼓動と、滴る血の香りが虚ろな瞳を輝かせた――。
瞬間、煉獄丸の華奢な背中へと、空より幾百もの光の矢が突き刺さる。
刺さった背中から輝く光は煉獄丸の全身を覆い灼熱の炎となって燃え上がる。
「っ」
煉獄丸が頭上を見やると、白鳳丸が再び大きく羽を広げて浮かんでいた。
「……気持ち悪いんだよ……」
「光……羽……?」
背に刺さった光る刃は、白鳳丸の白い風切り羽であった。
大きく燃え上がる炎の中でなんら変わらぬ様子の煉獄丸。
衣の裾、髪の毛一筋も燃えてはいなかった。
白鳳丸は、素早く刹牙の元へ降り立つ。
「っぐぅ……幻術か……その場凌ぎ……とはいえ、良くやった」
立ち上がった刹牙の足が血でぐっしょりと濡れている。
「ふぅ、口のへらねぇ婆さんだ。 歩みは遅くなっただろうがよ。……いけるか?」
「……なんとかな……」
「……一対一じゃ無理だ、埒が明かねぇ」
煉獄丸は、其の身を覆う幻の炎を愉快そうに薄笑いを浮かべながら弄んでいる。
血塗れの二人は顔を向け、其の姿を油断なく双眸で捕らえながら、言葉を交わす。
「……千鶴に機会を」
「手筈は整ってる、湖まであと少しだ」
「お前はもうよい……後は我が――」
「考え違いしてんじゃねぇぞ、妖怪が。この先には、お嬢が清浄な気で満たしている。ありったけの観音力をぶんまいてな、怪が自由に動ける場じゃねえんだよ。仮にも、俺りぁ巫女姫の従者だぜ。解るだろ……アンタの出る幕じゃねぇよ」
包まれた炎の中から、白鳳丸と、母妖刹牙の姿を小首を傾げて眺めていた煉獄丸が柳眉をひそめ、じっとりとした声を出す。
「……羽蟲……疎ましいのぉ……」
目元に流れる血を拭い、ぐっと眉根に力を入れて静かに、力強く、白鳳丸が声を出す。
「婆さん、お嬢を頼んだぜ」
「……やれやれ、老体には応えるわい」
小さな溜息と共に母妖刹牙が声を出す。
煉獄丸は、炎を割って白い腕を上げる。
その細指の鋭い爪は真っ直ぐに白鳳丸に向けられる。
「邪魔な羽蟲は……」
ゆっくりと呟く煉獄丸。
身体を沈め大きく翼を広げる白鳳丸。
刹牙は低く構え、大地に爪を掛ける。
「消えてしまえええええっ」
ぎゅるぎゅると唸りを上げて、数百の茨が白鳳丸目掛けて伸び進んだ。
「いいな、三でいくぜ」
「……いちっ」
「っ、三っつってんだろうがあ!」
まず先陣に刹牙が煉獄丸の喉を狙う。
続いて白鳳丸が光の矢羽を息つく暇もないほど続けざまに放つ。
千年の盟友の如く阿吽の呼吸。
さしもの巨悪煉獄丸が一歩、二歩と後ずさる。
「……っく……」
力の限り攻撃を繰り出す刹牙のぎりぎりと噛み締める白い牙。
揺ら揺らと避け、乱れ舞う美童、煉獄丸は喜悦の笑みに口端を引き上げ、張り詰めた唇より珠のような赤黒い血を見せる。
近隣のイキモノは全て離散した。
其処にいるのは、深淵を舞う紅蓮の蝶、煉獄丸。そして、血飛沫を上げながら、襲い掛かる二匹の善なる物の怪のみ。
一方、巫女姫千鶴は白装束に身を包み、細い其の背に相打つ三つ巴の焔を感じつつ、独り、湖面に向かって気を集めていた。
『白鳳丸……母妖殿…。…だめっ、集中しなくては――!機会は一度。此の世を、生あるモノを……二人をきっと、護ってみせるっ』
宿命の少女、白鶴の化身千鶴。
其の華奢な肢体に此の世の行く末を一身に背負い、祈る。
「南無、観世音菩薩……。オン・バザラ・タラマ・キリク・ソワカ。オン・シャレイ・シャレイ・ソンデイ・ソワカ。オン・ハンドマ・シンダ・マニ・ジンバ・ラ・ソワカ――」
波打つ聖と邪の渦巻く闘炎の気と裏腹に山間の湖畔に清浄な真言が放たれる。
千鶴を中心に、薄氷の如く張り詰め広がる霊幕の帳。
湖面に映し出される白鶴の姿が集結する観音力の波に揺れる。
「森羅万象、天意を汲んで真を告げよ。天地一切の理よ、真言の並びに応えよ。我、天命を持って、禍津日の子を封印せしめん……」
「むぅ、気が……動き出したな」
「ああ、そろそろだ……」
ほんの一瞬、目を合わせる刹牙たちの視線が煉獄丸の笑みを消す。
「……余所見をするな……我を視よっ」
「着いて参れっ」
雄叫びを上げて刹牙が煉獄丸の髪一筋ほどの横を飛びぬけて湖へと駆けた。
釣られてグルリと首を後ろに回した煉獄丸。
「焼きもちはみっともねぇ……ぜっ!」
一瞬の其の隙に、白鳳丸が素早く背後から煉獄丸を抱え、刹牙を追い越し湖上へと真っ直ぐに飛ぶ。
「っく……離せぇっ、蟲があっ」
背後から抱えられ、怒り心頭の煉獄丸の茨が白鳳丸の羽を捕らえよう、貫こうと、蛇のように襲い掛かる。
がっしりと腕に力を込めて空を駆けながら、白鳳丸が真言を唱える。
「オン・アボキャ・ビジャシャ・ウン・ハッタ ……。オン・ハンドマダラ・アボキャジャヤニ・ソロソロ・ソワカ……」
「っぐ、はぁっ、ああっ、な、なんじゃ…、やめ、やめろぉぉぉぉ」
白羽を血で真っ赤に染めながら、一生涯に一度の真言を唱える白鳳丸の身体が、白銀の如く輝く。
一足先に湖の畔へ駆け急ぐ刹牙の身体に白鳳丸の白光から放射される聖なる気が衝撃をもたらす。
慈愛の怪、母妖と呼ばれ、善なる意思を持ちながら、其の身は怪。
清浄なる気と、真言に身を震わせながら牙をむき、耐え忍ばざるを得ない。
「これは……厳しいのぅ……」
駆け行くほどに千鶴の集める清浄な気が、更に鋭い針となって刹牙の身体中に突き刺さる。
刹牙は己に圧し掛かる重圧に、今更ながら、怪である我が身を恨めしく感じた。
嘗てない不自由さに、それでも身体に鞭打って駆け進む。
やがて、前方に白い少女を感じると魂の叫びを今一度轟かせる。
「千鶴っ、来るぞ!」
遂に白鳳丸も辿り着く。
途切れる事のない真言が煉獄丸の美しい顔を苦悶で歪める。
邪悪なる身の内の深遠より湧き上がる憤怒と呪怨の禍々しい気が煉獄丸の身体中から漏れいでる。
煌く真珠の如き柔肌。
その下で、赤黒い数百の禍々しい蟲妖がぞろりぞろりと蠢いている。
「う、うわぁぁぁあああ」
「オン・アボキャ・ビジャシャ・ウン・ハッタ ……。オン・ハンドマダラ・アボキャジャヤニ・ソロソロ・ソワカ……。――お嬢!」
白鳳丸の声を合図に、印を結ぶ白指を解き、両腕を天へ向かって掲げる千鶴。
「オン・バラダ・ハンドメイ……ウン!」
千鶴の唱える十観音の真言が、聖なる気を強く、大きく震わせる。
聖なる気と光明は、高く掲げられた千鶴の二本の細腕、そして其の小さな掌に集結してゆく。
其の力は観音力と成り、広大な湖の全ての水を押し上げる。
「コエガ……言の葉が……針のように突き刺さる…!イタイ……イタイ……クルシイ……クルシイ……」
「ぐ、ぬおぉ……」
母妖刹牙、漆黒の狼王の美しい被毛が総毛立つ。
大地に爪を立て、鼻面に皺を寄せて牙を剥く。
一瞬たりとも目を逸らすまいぞと天を仰ぐ刹牙。
宙へと押し上げられ、渦巻く湖水は其のまま、千鶴の動きに合わせて水球と成り、煉獄丸を抱く血塗れの白天狗白鳳丸を包み込む。
「っく……! 禍津日の子よ、真の姿を我に示せ! 破邪!!」
轟々と響きを上げてうねる水球。
空に白雲が吸い寄せられ、渦を巻き、煉獄丸を抱いて飛ぶ白鳳丸の頭上に広がる。
閃光が弾ける音を細かく鳴らし、其れは大きな雷鳴となる。
「ヤ、ヤメロ……イヤジャ……イヤ…。……ハハギミ、母君ぃぃぃぃぃぃぃ!」
煉獄丸が、地上へと蟲妖蠢く腕を伸ばした其の刹那、白雲より一条の稲妻が放たれた。
「っ」
煉獄丸の白磁の額に、天より放たれた白い稲妻が落雷する、雷光は鉤裂きとなって亀裂を走らせた。
空をも切り裂かんほどの煉獄丸の慟哭が、生きとし生けるモノ達の魂魄に響く。
――其の響きは、あらゆる魂を締め付けた。鳥が、蟲が、人が、怪が、樹が花が、森羅万象全てが慟哭いた――。
慈愛の怪、母妖の瞳が揺らぐ。
「……憐れじゃのぉ……」
煉獄丸の身より吹き出た血風の飛沫は、そのままさながら赤黒い入道雲の如く立ち上った。
白雲散り行く蒼天が、一天にわかにかき曇り、見上げるほどの巨大な黒い影を其の黒雲の中に見せた。
其の姿は――。
『百足……』
なるほど、闇丸は蟲妖であったと、思う刹牙の目に映る、醜悪な大百足。
黒々と照り輝くおぞましい其の身体に、無数の足。
湖水渦巻く水球の中、龍と見まごう巨体を大きくうねらせ、どす黒い腹を波打たせている。
空に広がる黒雲に見え隠れする大百足と白鳳丸。
千鶴と刹牙は、懸命に目を凝らす。
白鳳丸は、一瞬振り落とされたかに視えたが、咄嗟に掴んだ蝮ほどの触角にしがみついている。
「っけ、飛んだ化け物野郎だ……」
無数の棘、蟲毒が白鳳丸を蝕んでゆく。
「千鶴っ、奴の本性、百足とならば話が早い、獲物にお前の――」
「だめっ! わたしは…人の子ではありません」
刹牙が云った蟲妖、其れも取り分け百足の弱点。
それは、人の子の唾液であった。
幾多の物の怪と戦ってきた千鶴が其れを知らぬはずもない。
だがしかし、千鶴は白鶴の化身。
其れは紛れもない事実。
「う、ううむ」
「けれど、だからこそ私にはこれが」
印を結んでいた左の腕を大きく切るように一度払うと、其の白いすんなりとした腕は、まさに白鶴の片翼と成った。
「それは……!」
「これが、私が私である理由です。白鳳丸!!」
「…おうよっ。っぐ、うおぉぉおおお……!」
天上より白鳳丸の壮絶な叫びが聞こえる。
其れと同時に堰を切ったかのように血の雨が千鶴目掛けて降り注ぐ。
そして――。
「っぐ……! っいくぜっ、うけとれぇぇえ!」
空より螺旋を描いて落ちる、もう一枚の片翼。
血染めの白羽。
千鶴は其れを受け止めるべく真っ直ぐに右腕を伸ばす。
降り注ぐ、従者の血を華の顔に浴びながら。
「無残……。自らむしり取ったのか……」
白鳳丸自身によってもがれた其の翼は、やがて、輝きを放って一本の光の矢羽と成った。
降り注がれた従者白鳳丸の血で濡れた細指を伸ばし、光の矢をしっかりと掴む千鶴。
「ありがとう、白鳳丸……。我が翼よっ、今こそ真言の弓と成れ!」
千鶴の叫びに応えるように、翼と成った左腕は閃光を放つ。。
千鶴は其れを真っ直ぐに、頭上の巨大な水球でのたうつ邪悪なモノへと向け、構える。
矢を光る左翼に宛がうと、其処に一筋の白光煌く弓弦が顕れた。
「これが、観音力……」
輝く光を避けるように顔を背けて呟く刹牙。
だが今ここから逃げ出すわけにはいかない。
近隣を統べ護ってきた大妖怪。
母妖刹牙は、一切を見届け、顛末を見守る覚悟で居た。
たとえ、壮絶な浄化の光で身を焼こうとも。
「千鶴っ、浄化、消滅、霧散、目指すは何処っ」
「まだ時至らじっ、目指すは……封印のみ!!」
「……!」
突然の激痛と、溢れ出す妖気に、蟲妖の本性を現した煉獄丸。
収まり切らぬ、其の妖力と呪怨に、毒気と瘴気を不気味に燻らせ吐き出している。
吐き出された邪が、聖なる水球をその呪で赤黒く染めてゆく。
「…はぁっ…あぁっ……身が、焼ける……。身体が…重い……」
「く、っはぁ、はぁ……ばーか、其れがお前の正体よ。っへへ…お似合いだぜ……」
「ショウタイ……。コレガ……我……」
「そうとも、其れが煉獄丸っ……お前の真の姿だっ……!」
「……ウソ……ダ」
「っけ……蟲が……!」
「っ、うおぉおおおおおぉぉぉ!!」
「っ!」
「……どうしたっ」
「白鳳丸っ」
瞬間、上空に浮かんだ巨大な水球が破裂する。
水は辺り一面に轟音を立てて降り注ぐ。
怒りの噴煙で水球を爆散させ、戒めより解かれた大百足煉獄丸、そして其の口には、しっかりと白鳳丸を咥えていた。
「白鳳丸!」
「だめだっ、逸るなっ」
黒雲に見え隠れする、白鳳丸と大百足に千鶴は思わず矢を放った。
矢は、白光の筋となって飛び行く。
だがしかし、寸での処で煉獄丸が口に咥えた白鳳丸を盾として振りかざす。
矢は残り一枚だけになってしまった憐れな白鳳丸のもう片方の羽に突き刺さり、消滅した。
大百足は黒い影を作って地を揺らして降り立った。
だが、その頭は、未だ黒煙が覆う。
「っ」
「……っ最早これまでか」
「…………ち、しょうがねぇなぁ、やっぱり俺が傍にいねぇと――」
力なく聞こえる白鳳丸の言葉の終わらぬうちに、ゆらり、と大百足が巨体を揺すった。
「――ッグ、グハァッ!!」
更に深く、煉獄丸の牙が白鳳丸の身体を貫いた。
「白鳳丸っ」
「やめろっ」
ぎしぎしと不気味な音を立て、白鳳丸の身体が有り得ぬ程に二つに折れてゆく。
禍々しい暗雲の中、ばきりと鈍く厭な音が地上までも聞こえた。
「っ」
宙より、遂に噛み砕かれ、真っ二つとなった、無残な姿の白鳳丸が血肉と共に大百足の口より落ちてきた。
「白鳳丸!」
駆け出す千鶴の頬を溢れる涙が伝って濡らす。
宿命の巫女の、たった独りの番う相手を想って叫ぶ其の声に、蛇のように鎌首をもたげ狙いをつける、深淵の大百足。
喰いちぎられ、捨てられた白鳳丸の上半身にあと少しで指が触れるというところで、襲い掛かる巨大妖怪の牙より少女を救う黒い影。
「皮肉なことよ……コヤツの瘴気で身体が軽うなりおった」
噛み千切られた白鳳丸の血染めの上半身を抱く千鶴。
「……泣くな……」
「いやっ、行かないで、私を独りにしないで……!」
「……独りじゃねぇ……何処にも……いかねぇよ」
切ない二人のこの時を、邪魔立てさせぬと刹牙は傷ついた身体で攻め立てる。
猛り狂う大百足が、其れを迎え撃つ。
「お嬢……鳴滝を覚えているか……」
「しゃべっちゃだめ、今、今血を――!」
「――無茶言うなぃ……真っ二つなんだぜ……なぁ、話そう…」
「ひどい、どうして、どうして……ごめんなさい、ごめんなさい」
「あいつさぁ、あの鯉の旦那、ありゃぁ…きっと、連れ合いに会えたぜ……」
「え」
愛する者を亡くし、道を踏み外した憐れな怪、鳴滝。
千鶴と白鳳丸は、嘗て天命により彼と戦い、倒した。
「ああ、会った、いいや会う! あいつはそういう男だっ」
「っへへ、婆さん、そうだよなぁ……」
襲い来る百足の牙を避け、刹牙は続けて叫ぶ。
「百年来の付き合いじゃ、我にはわかるっ」
「刹牙……」
「なぁ。だからさ……俺たちも、いや、俺も絶対にまたお嬢とめぐり合う……」
「私と」
「そうさ……。何処にいても、何であっても、俺が必ず見つけてみせる……」
「白鳳丸……」
「だから……もう、泣くな」
抱きしめる白鳳丸の上半分の身体が、綺羅々々と光の粒に変わってゆく。
「……うんっ、泣かない……私も……見つける、見つけるからっ」
ぐっと唇に力を込め、嗚咽を堪える少女、千鶴。
粒と成って薄らいでゆく其の姿、見逃すまいと大きく見開いた瞳を溢れる涙がゆらゆらと揺らす。
「おうっ……必ず……番に……」
「うんっ」
声を、瞳を、唇を、忘れはしない。
たとえ、何に生まれ変わろうとも。
「来世で……」
「…………うんっ、来世でっ」
「……ちづる……」
千鶴の膝に乗せられて、翼を失った白い烏天狗白鳳丸。
二つに裂かれた其の身は、煌く光の粒となり、空へと溶けた。
声を出さずに千鶴が叫ぶ。
今、魂の片割れを失ったのだ。
激しい戦いの最中、刹牙が千鶴に目を向けると、頼りなげな小さな肩が震えぬように、必死に堪える様が視えた。
――天よ、余りに惨い――
だが、憐れみに浸っている間もなく、大百足が一瞬の其の隙を見逃さなかった。
うねる身体を大きく反らせ、力の限りに刹牙の身体を打って飛ばした。
「っぐ、ううぅ」
奇しくも飛んだ其の先に観音の巫女姫、千鶴が未だしゃがみこんでいた。
よろけながらも立ち上がり、口に溜まった血を吐き出すと、少女に力強く大きく吼える刹牙。
「……どうした、万策尽きたかっ。それともまだ泣いて居たいか……」
「……いいえ」
「だが、矢は、もう……あるまい」
「……いいえ」
百足は、煉獄丸は眼前の生き物を見詰める。
母妖刹牙、そして巫女姫千鶴。
漆黒の毛並みに金色の瞳のしなやかな獣。
血に塗れているとはいえ、白く美しい千鶴。
娘の左腕は、白い翼。清浄な輝きを誇るように放っている。
宿命の凶星を背負って生まれた闇丸。
稀代の妖女鮎影。
二つの怪の呪怨と憤怒の気の交わりで産まれた深淵の御子。
完全なる虚ろ、純然な悪。
煉獄の道を行く大妖怪。
其の名は煉獄丸。
彼は今、初めて天地一切の世の中で、己がたった独りであると感じていた。
其れは、唯一無二、天上天下最強の悪。
永遠の孤高。
「そうか……」
「千鶴、ぬかるなよ、様子がおかしい――」
「此の世の……生きとし生けるモノ。森羅万象悉く我の敵じゃっ。命の全てを我に寄越せ、我と共に闇となれ、我は煉獄丸、深淵の御子、呪え、怨め、天地一切を混沌に帰せよ!!」
黒々と気味悪く照り輝く其の長い身体をくねらせながら、焼け付くような瘴気と共に言葉を放つ大百足。
虚ろな二つの其の目玉に、刹牙と千鶴が映っている。
純粋な殺意に邪意が生まれる。
己に有るモノ、得られぬモノ。
求めても、得られぬならば――。
「ならば……。――天よ、地よ、呪われよっ」
「どこまでも憐れな事よ。己が姿が疎ましいか」
「やぁまいぬがぁああああああっ!」
ぐんと千鶴に伸ばす大首の前に立ち塞がる刹牙。
「刹牙っ、背を貸して!」
「……っ、千鶴、お前!」
千鶴はあろうことか残る人の姿の右腕までも、翼と変えていた。
そして其の羽先を足で押さえ、肩から己の歯で喰いちぎったのである。
大百足、煉獄丸が狂ったように嗤い叫ぶ。
「っははは、あはははは、我は呪怨の権化、我が恨み尽きる事無く此の世に降り注げ……!」
溢れる血は千鶴の白い肩から迸る。
身体中の血が流れきってしまうほどに――。
血の気が引いて、驚く速さで千鶴の顔が青白く変わってゆく。
少女は、口に咥えた自らの血染めの翼を空へ向かって投げ上げると、それもまた一本の光る矢羽と成った。
落ちくる矢羽を再び其の歯でがっちりと咥え、千鶴は刹牙に笑いかける。
其の笑顔、晴れやかにして、清浄可憐。
「ふん、いい面構えじゃ。次は無いぞ」
コクリと頷き刹牙の背に左の翼の先を乗せる。
怪である刹牙の身体に衝撃が走る。
まさしく羽の軽さのその先が、山のように刹牙の背に圧し掛かる。
眼前の煉獄丸をしっかりと双眸に焼き付けると、少女はゆっくりと目を瞑る。
千鶴の心は、静かに澄み渡ってゆく。
聞こえているのは風の音。
其の胸に浮かぶは大空を滑空する一羽の白鶴。
大きく翼を広げ、風に乗って空を舞う。
やがて、もう一羽の白鶴が、身を寄せ、飛ぶ。
二つに裂けた細長い舌を震わせて醜い口を更にガバリと大きく裂き、刹牙、千鶴両名もろとも其の牙にかけようと大首を振りかぶる。
小さく呟く千鶴の真言が刹牙の耳から血を滴らせる。
「オン・アロリキヤ・ソワカ……」
番の白鳥。
其の羽先が静かに合わさった其の瞬間。
放たれた白金の矢。
覆いかぶさるような巨大妖怪。
情けも、温もりすら知らぬ、其の存在はただ、ただ、虚ろ。
光の矢は煉獄丸の額に突き刺さり、大きく輝く帳となった。
そして、それは稀代の大妖怪、此の世の敵煉獄丸を、地中深くに押し込めてゆく。
激しい地鳴りが其の巨体を呑み込む大地の、嘆きと痛みのうめき声となって辺り一面を最後の恐怖に包み込む。
「小娘っ、そして山犬、此の怨み、末代までも祟ってくれようぞ……。心して聞けっ天よ、地よ、我は再び甦る、舞い戻り、必ず此の世に仇討たん、覚えておれぇぇぇぇぇ――!……! っげ、げぇぇぇえええっ」
……許せ……
だが其の時、ほんの一時、傷つき流血の赤に染まった其の二つの生き物を視て呟いた切ない声を誰も知ることは無い。
……ハハギミ…………
封印は成された。
此の世を滅さんと生まれた大妖怪、煉獄丸は、呪いの言葉を残し、其の身を地中深く沈めたのである。
生きとし生けるモノの存命を掛けて繰り広げられた戦いは終わった。
瘴気は薄れ、命有るモノの魂に平安の訪れが沸き起こる。
狼王刹牙は、背にもたれる少女に声を掛ける。
全てが終わったのだ。
「千鶴、やったな、でかした、よく頑張ったぞ。…………。千鶴……」
産まれ、死に、転生して尽くせども、其の少女はまた命を落とす。
其れが宿命と云うならば、あまりに憐れ。
血で濡れようとも、柔らかい刹牙の黒い背に倒れた華奢な身体。
刹牙は其処に其のまま横たわると、暫く少女のうっとりと夢見るような死に顔を眺めていた。
血で汚れた愛らしい顔を清めてやろうと、湖へと浸ける。
すると、水は白く泡立ち、煮え湯のようにぐらぐらと沸き立つと、蒸気となって辺りに霧を作った。
心地良い霧が刹牙の毛を清めるように包み込む。
視えなくなった千鶴の遺骸を刹牙が案じて目を凝らすと、涼やかな羽の羽ばたき。
一面の霧を裂き、白鶴が飛び立つ。
目の覚めるような蒼天を北へと向かう其の姿が、小さく消え行くまで刹牙は天を仰いでいた。
「解き放たれたか、それとも新たな道を行くのか……。ううん……?これ…は……」
干上がった湖底の泥土の中、白き生命の姿有り。
年老いた狼はソレを拾い、養い育てたという。
人は、産まれ、死ぬ。
流れ行く輪廻の時、何を成し、何を負う。
森羅万象、理の一部、起源の姫はいったい誰であったのか。
蒼狼伝―起源の姫―
終幕
最終話までお付き合いくださいまして真にありがとうございます。