凶児 降臨 呪われた契り
*一部性的な描写があります。
夜空を翔ける紫の筋。
瘴気を帯びた紫雲が、禍々しい妖気を放ち飛んでいた。
「くぅ、やはり、足りぬか……。此のままでは、いつまで人の形を保っていられるか……。鳴滝様亡き後、辺りに残った小妖を捕り込み何とか甦ったが……。所詮、間に合わせ……妖力が足りぬ。何とか、何とかせねば」
紫雲となって飛ぶその者は、観音の使い千鶴によって昇華した黒い鯉の化身、鳴滝の寵姫鮎影である。
自らも、千鶴の従者白鳳丸の手によって滅せられた。
だが、あろう事か千鶴、白鳳丸両者への怨みと共に、鳴滝の淵より甦ったのである。
復活を遂げた鮎影は鳴滝亡き後、淵に隠れ消滅しようとしてゆく己の小妖が集まって形を成していた。
更なる力を求めて飛ぶそのうちに、彼方に隠すこと無い強い妖力を感じた。
視下ろすと其処には紅蓮の炎を纏った若者が独り林に座り、襲い来る怪を、指すら動かさずに霧散させていた。
「あれは……なんという荒削りな……。溢れる力に、惹かれ来る魑魅魍魎、雑鬼を次々と拡散させておる」
己であれば、ことごとく喰らい、其の身に取り込むであろうにと、紫雲は、空より降り、若者が座す林に降り立った。
空より炎と視えたは、此の男の豊かな紅に広がる長い髪であった。
紫雲は人影と成り、己の存在を示す為、大きく妖力を開放する。
「ふん」
「騒々しいのぅ。此れは一体、なんの遊びかえ」
「うせろ」
「愛想の無いこと」
男の瘴気に当たらぬよう、距離を保ちながら辺りに犇く雑鬼どもを摘んでは喰らう鮎影。
目を開き、鮎影を見ようともせず疎ましそうに声を出す男。
「旨いか」
「腹が空いて敵わぬのよ、なんとかしてたもれ」
男は問われようとも、変わらずに座り続ける。
鮎影が隙を見せぬように窺いながら、殆どの雑鬼を喰らい尽してしまうまで、さして時間は掛からなかった。
最後の一匹を平らげると鮎影は、にたりと嗤って男のほうへと艶かしく声をかける。
「のう、まだ足らぬよ、馳走してたも」
「悪食に足ることは有るのか」
「ひもじいのお……。ひもじくて、気がおかしゅうなりそうじゃ」
「いい加減、うせろ。気に障ってきおったぞ」
「おお、怖や怖や。そなた、知っておるぞ、其の赤い髪、赤い瞳」
「――」
「はぐれ妖怪の、闇丸であろう。同じ怪でありながら、姿が違う、力が強いと蔑まれ疎まれた、忌み子」
そう云うあんたは淵の旦那の妾だろう、主が滅してなぜ其処に居る」
「ひもじいよう、恵んでたもれ」
「浅ましいことよ。俺が動かぬうちにとっととうせろ……いやまて、そうだな。手っ取り早く妖力を溜めたいのじゃろう、まさか俺を喰らうつもりも有るまいが……。是より一山先に、蟲族の集落が有る、其処へ行ってたんと喰らえ」
「蟲族…。じゃがそれは――」
「大方は、雑魚であっても、少しは腹にたまる奴も居るはずじゃ。女、子供、赤子も居ったかの」
「赤子……」
喉を通る蕩けるような赤子の肉を思い、ごくり、と鮎影は生唾を飲んだ。
生まれたばかりの赤子を喰うのは、いか程ぶりであろうか。
「柔らかな肉、甘い血潮は、どれを喰うても精が付きそうじゃ」
「そうであろう、行って存分に喰ろうてこい」
「よいのかえ……」
「なんのことだ」
「蟲族はそなたの一族、同胞を妾に差し出すのか」
「同胞とは片腹痛い。怪は生まれる時も、死するときも、独り。一族などと馴れ合いは反吐が出る」
闇丸は髪を一筋手に取ると、引きちぎって息を吹き込む。
すると髪は空を泳ぎ、一匹の小さい地蟲と成って西方へと飛んでいった。
「反吐が、のう」
「どうした、馳走せよとねだりよるから云うたまでよ」
「生まれ育って未練なしと。小気味良い。良かろう、不憫なそなたの敵を討ってくれような。独り残らず、血を吸い尽くし、一族もろとも、紅蓮の炎で焼き尽くそうぞっ」
云うや否や、再び紫雲となり蟲の後を追って飛ぶ鮎影。
「ふん」
何事もなかったかの如く、そのまま押し黙って座り続ける闇丸の胸中には、一帯何が在るのだろうか。
一刻後。
鳴滝の淵より、一山超えたとある集落。
深夜、絹を裂く女の悲鳴が耳を貫く。
山間の小さくとも豊かであった集落は、今や焦土と化していた。
家々を焼く業火が、夜であっても其処を明るく照らし出す。
朱色の炎に立つ人影は、其の腕に抱く女の首よりゆっくりと顔を離す。
「……ふぅ。まだじゃ、まだたらぬ……」
炎に照らされた青白い顔は、鮎影。
闇丸の放った地蟲を追い、辿りついたこの集落は、彼の闇丸自身が育ち、そして追われた村である。
辿り着きすぐさま村を襲った鮎影は、老若男女、赤子といえども其の牙にかけた。
逃げ惑い、まるで花が手折られるように次々と其の血を啜られて、倒れ行く蟲族の群れ。
中には、立ち向かってくるものあれども、鮎影の敵ではなかった。
『数は居っても……たわいの無い。村長であってもこの程度か……期待はずれもはなはだしいわ。このように微々たる精気では力が満たされぬ。もっと、もっとじゃ……』
「耄碌したな爺さん……」
何時の間にやってきたのか、燃え盛る炎に焼かれる老人の屍に向かって呟く闇丸の声に、一抹の情が窺えた。
赤子の頃から溢れては抑えきれぬ妖力で、母の腹を食い破って産まれた闇丸。
同胞を怯えさせたのはその力だけでは無い。
「貴様らが信じて疑わぬ俺の宿命とやら、証明してくれたわ。満足したか」
怪であっても怖気の走る誕生を成した闇丸は、種となって宿った時より村長によって、其の宿命を占われていた。
其の宿命は、天地一切の理に反する稀代の凶児、必ずや、天上天下に仇成す《あだなす》モノと。
「俺の顔を見て、やはりといった顔をしおって……。満足したか、貴様の占う俺の宿命、当たっておったかよ」
血を啜られて干からびた年老いた蟲族の屍を足先で弄ぶ様に小突く闇丸。
其の横顔に、果たしてどのように彼の心が表れていたか、闇に隠れて窺い知れぬ。
誰も、闇丸自身さえも。
「闇丸」
「良かったのお、俺も是にて育ててもろうた、恩が返せたというものよ」
「闇丸」
「なんと言う蒼い顔じゃ、血を吸い尽くされて寒かろう。ほうれ、最後の孝行じゃ、温まって逝くが良い」
散々嬲った屍を両手で掴んで高々と頭上に上げる。
哀れな遺体は闇丸の手によって、眼前に燃え盛る炎へと投げ入れられる。
すると、其れは落ちる事無く青白い焔となって弾け散った。
「ふん――」
そう、此処は人の里にあらず。
闇丸の手引きによって鮎影が襲った此の集落は、隠れ里。
地に蠢く、蟲の化身の蟲族どもが、牙を持つ山の主を頼りに何処からともなくたどり着き、肩寄せあって共に生きる。
そうした場所であったのだ。
『まだまだ未開では有るが、この闇丸という男、計り知れぬ妖力を其の身に湛えておる。欲しい、此の男の全てを。さすれば、妾の怨敵千鶴、白鳳丸ともども、必ずや討ち果たせようぞ』
闇丸の力を計りながら、鮎影はゆっくりと舌なめずりをする。
蕩けるような甘い声でもう一度其の男の名を呼ぶ。
「闇丸」
「たんと喰ろうたか。腹は満たされたか」
「そうじゃのぉ……。そちには世話になった。礼をせねば……な」
「ふん」
「……不思議な男じゃ……」
「――」
「惹かれるのお……」
「――」
心にも無い世辞を云う。
闇丸は、生まれ育った故郷の村が、赤黒い血に染まって焼かれるのを視ていた。
何時でも皆殺しにする力を持ちながらも、幼き頃より諭し育んできた村長。
そして、秘かに焦がれた楓を、傷つけることにひとかけらの情が動いて躊躇させていた。
闇丸にとって情は不要のもの。
追われた、というより自ら進んで野に下り、林に座して、鬼心を得んと瞑想していたのである。
「妾はもう十分に潤った、そちのお陰じゃ」
「そうかい……そいつは良かったなぁ」
「どうじゃ、妾は、前にもまして美しゅうなったかえ」
「そうさなぁ」
気の無い返事に妖女鮎影は、口元の血を拭い、うっとりと微笑みを返す。
炎を背に立つ闇丸に揺ら揺らと近づく鮎影。
ゆるりと闇丸の首に腕を回し、顔を近づける。
其の身には、先程血を啜りつくした村長の娘、楓の薄絹を纏っている。
大きくはだけた胸元から匂い立つ淫靡な香りが闇丸を包む。
「お前のその燃えるような紅い髪、美しいのぉ……」
「其の衣、楓の物か」
「楓……そのような名であったのか」
「生き血に名は要らぬか……」
「美しい娘であった。血も甘く香っておったわ」
怪ながら、心優しい娘、楓。
疎まれ、忌み嫌われる闇丸を楓だけは分け隔てなく扱った。
情けを知らぬ闇丸であっても、言葉に出来ぬ何かが楓によって其の胸に沸きあがろうとしていた時もあった。
「楓の血は、旨かったか」
だが、楓は他の者の子を産んだ。
闇丸が鮎影に喰らえと進めた赤子が、其の子であった。
絡みつく鮎影の身体をぐいと引き寄せる闇丸。
燃え立つような赤い髪は乱暴に束ねられ、やや吊りあがった切れ長の目に光る紅の瞳。
身に溢れる妖力が、抑えきれずにその瞳までをも紅く染めていた。
闇丸の知らぬ処で課せられた宿命。
其の証となる紅い瞳。
「味おうてみよ。ほうれ、美味じゃぞ……」
そう云って紅い唇を開いて差し出す、更に赤い小さな舌。
其の先から、血が滴って筋を為す。
闇丸は其の顔に何も浮かべず、己も習って舌を出す。
先が二つに割れた細く長い闇丸の舌が、其の血を受け止めそのまま鮎影の口へと押し入る。
「く、くくくく」
口を吸われて尚、嗤う鮎影。
胸元から漂う濃厚な淫臭から懐かしい楓の匂いを一瞬嗅ぎわけ、荒々しく鮎影の纏う楓の衣をぐっと引き下げる。
露になった、白い乳房が解き放たれて大きく揺れる。
鮎影の身体から、するりと衣が滑り落ちる。
無数の命と、精気を屠り、青白く燐光を放つ妖しくも艶かしい其の肢体。
そして其れを貪りつくそうと舌を這わす闇丸。
「そうじゃ、そうじゃ、たんと味わえ……」
絡み合う二匹の異形のモノ。
生き血を吸われ、切り裂かれ。
焼け爛れた無数の屍の其の上で、燃え盛る炎に照らされ情欲の限りを尽くす。
「どうじゃ……。たまらぬか、堪えずとも良い、精を放て、気を注げ。抑えきれぬその力、妾がつこうてしんぜよう……」
「やはりな、そう云うことか……。何処までも貪欲なことよ……。ああ、だがこれは、たまらぬのぉ……。蠢ききっちりと銜え込みよる……蕩けそうじゃ」
「そうであろう、痺れるようなその悦びに身を委ね妾のモノとなれ、闇丸」
「俺は――」
「さぁ――さぁ……」
鮎影の肉がねっとりと粘り気を帯び、胎内だけに飽き足らず全身で闇丸を取り込もうとする。
痺れる脳髄と己の身体の芯。
朦朧とした其の意識の中で、闇丸は唯一匹の雄と成り掛けていた。
どろりと溶けて触手となった鮎影の肌が、闇丸を己の内へ内へと押し入れようとする。
「俺……は……」
「良い子じゃ、良い子じゃ……」
「俺は――誰のモノにもならぬっ」
「っ!」
大きく頭を振りかぶって、闇丸の牙が鮎影の肩へと喰らいつく。
「おのれ……こしゃくな、まだそのように抗いよるか」
負けじと鮎影は白磁の顎をガクリと外し、細く伸びた牙を闇丸の肩に突き立てる。
闇丸は、渾身の気を腹底に溜めてゆく。
優位であったはずの鮎影が、貫く闇丸の男に翻弄され始める。
気をやってなるものかと、鋭い爪で闇丸の背を切り裂く鮎影。
瞬間。聞き覚えの有る涼やかな声が闇丸の名を呼んだ
「闇丸……」
「楓っ」
鮎影が闇丸の嘗ての思い人、楓の顔と変わる、腹の下で切なげに眉を寄せる楓の淫らな姿に、闇丸の気が大きく膨らんだ。
「くっ、うおおおおお」
熱く漏れていた吐息はいつしか、唸り声と化していた。
闇丸の声が獣の咆哮と変わり、其の身体が大きく弓のように反り返って気を放つ。
瞬間、二匹の淫獣は溶け合い一つの黒い塊となって大きく膨らむ。
膨らみは揉み上げられるように波打ち弾んでいた。
やがて其れも収まり、幾本もの黒い帯が内より出でて空を舞うと、しゅるしゅると人型を造る。
そして仰け反り、嬌声を上げる。
「さても、さても、なんという妖気であるか……。漲り、昂る、妾のモノじゃっ、妾のモノ――。っ! くっ、うぬぅぅぅ、ま、まさか――」
鮎影の美しい黒髪が、端から上へと真紅に変わる。
背中まで伸び、房となってうねる赤い髪。
すらりと引き締まった其の体躯。
其の姿は、闇丸――いいや違う。
――――俺は――妾は――此れは――ナンダ――
炎に照らされる其の顔は、闇丸でも、鮎影でもなかった。
女とも男とも見える、煌びやかな顔に虚ろな双眸。
鮎影、闇丸、両者の恨みと呪いを浴びて、受肉した一匹の大妖怪。
その、強大で邪悪なる妖気に、幾山を越えた辺り一帯の気がぐにゃりと歪んだ。
其の存在に近隣に生きとし生けるもの全てが戦慄する。
薄く紅い唇を開いて呟く麗しい声。
「我が道は煉獄の道」
世の理を乱すモノ。
現存してはナラヌモノ。
怪は、其処に在るだけで罪。
魂も魄も其の身には無く、唯その胸に在るは虚ろのみ。
焦土と化した集落を、山裾よりじっと見つめる影一つ。
影は、いまだ燃え盛って勢いを保つ炎の其の奥に妖しく膨らむ瘴気を視る。
邪悪な妖気を放つ一匹の怪を。
その穢れた欲望と呪いの権化に、爪を立てて地を掻き、白く輝く大きな牙を剥き低く唸った。
唸り声が聞こえたか、はたまた己を狙う妖気に気づいたか。
チラリとそちらに目線を流すと、「ふん」と呟き、生れ落ちたばかりの怪は白い裸体を隠す事無く立ち上がる。
蒼白く、真珠の粉を其の身にまぶしたかのように光る肌。
若鮎の如くしなやかな体躯。
滝に落ちる白水のような細指で、足元に山となる屍から選んで女の髪を束で引き抜く。
大きく払って身に巻きつけると、其れは豪奢な漆黒の内掛けとなった。
嘗て其の屍が楓と呼ばれていたことを、知っていたであろうか、あるまいか。
「さぁて、此の世を殺しに参ろうか」
邪悪な妖気と天地一切への揺ぎ無き怒りと呪いの権化、稀代の凶児、誕生の瞬間であった。