第四節
連なる山々の上に重い暗雲が立ち込めている。時折思い出したように湿った風が足元をさらい上げ、ボロボロの落ち葉は坂道を駆けだしてはまた止まるを繰り返していた。
一先ず簡単な事情聴取を終えた里見と杉倉は宿の玄関に立っていた。そこへ女将や従業員が並んで、深々と頭を下げる。
「この度は大変なことに巻き込んでしまい、申し訳御座いませんでした。……お詫びとしましてはなんですが、今度また来て頂ければ、そのご料金は頂きません…」
「いえいえ、そんな。私たちが勝手に首を突っ込んだだけですよ。こちらこそ色々と頼み込んでしまいすいませんでした」
杉倉が礼儀正しく頭を下げて、そこへ女将が再び頭を下げ返した。
「――それにしても、僕ら人間は相も変わらず報われない生き物なんだねぇ…」
詩人めいた哀愁をこれでもか、と撒き散らしながらやって来たのは悲佐田であった。その手には小さな旅行鞄が握られている。
「悲佐田さん、こっちは裏口じゃないですよぉ」
里見が屈託の無い口調で言う。
「むう? …その心は?」
「無銭宿泊の癖に堂々と表玄関から出て行くたぁいい度胸してんなぁ? ってことだよう」
里見が言うと、悲佐田は「ちっちっち」と軽快に舌を鳴らして勿体付けた尊大な微笑を浮かべた。『勿体付けた』『尊大な』『微笑』 これらの言葉が互いの意味を相殺して、映像的にこの表情を想像しにくければ、痩せた髭面の中年男が不敵に頬を緩ませたと言ってしまっていい。もっと端的に言えば、中年男が犯罪スレスレの気味の悪い微笑を浮かべたのである。
「君、確か里見くんと言ったね。その、謎に対する貪欲な好奇心に免じてお答えしよう」
悲佐田がセットしたのか寝癖なのかよく分からない絶妙な乱れ具合の髪を無節操に掻きむしると、いよいよこの男が横溝正史の小説に出てくる探偵 金田一 耕助のように見える。美化される前の金田一はいささか見るに堪えなかったが。
「そう、失念しているのかも知れないが、僕もこの事件に巻き込まれた罪無き一般旅客の一人。犯罪者扱いまでされた酷い待遇の脇役さ。しかし、それもさりとて、だ。僕の名推理もあってこその事件解決だろう? 女将さんはその点、僕に大変感謝してくれている。そのご厚意にあずかって、いやこれでも遠慮して、宿泊代だけは浮かして貰ったのだ」
むふふん、と笑う悲佐田に杉倉が迫った。
「あんたねぇ…、女将さんが良い人だからって…
杉倉が言い終わる前に、女将さんが中に割って入る。
「いいんです、いいんです。良い思い出を作って頂くために来て頂いたのに、こんなことが起こって…。本当ならお金だけでは済まないことなんですけど、これがせめて出来ることですから」
「聞きましたか悲佐田さん? これが貴方と同じ人間の口から出る言葉ですよ!?」
「…まったく君は失礼な言い方をする。これでも僕ァ宿代が足りない事を念頭に、厨房でこっそり食器洗いをしたんだ。この僕に肉体労働させるとしたら時給三千円はかたいぞ。僕の手はペンを握って高尚な文字を紡ぐ為にあるんだから」
「はあ、その程度の労働でお代が賄い切れると思って? 結局、皿洗いと言っても高々1時間で済む話でしょうが。女将さんが許しても法律が許さないわよ! …万一、法律が許しても神が許さないわよ!」
「日本の神は寛容だから。きっと許してくれるさ」
「神があなたを許したら、私は神を許さない!」
杉倉が言った瞬間、山に雷が轟いた。まるで杉倉を恐れた神が悲佐田を仕留めようと雷を放ったかのようだった。肝の小ささにかけては段違いの悲佐田が「うおおう」と情けない悲鳴を洩らす。そしてゆっくりと杉倉よりも頭を低くした。
「ひゃあ、雷だぁ!」
里見が怖がりながら杉倉の後ろへ隠れる。間を開けずに再び雷が山を撃った。紫電が向かいの山の頂上に走ったのが見えた。
「落雷してる…。これは山火事が心配ですね」
杉倉が言うと、女将も心配そうな顔をしていた。
「そうなんですよぉ。昨年は向こうの山に雷が落ちて、あの辺の森が一晩中燃えていたんです。あそこにあった、この辺りで一番大きな古木も焼けてしまって…。登山客の方には結構名物だったんですけどね…」
女将の指差した先、旅館の西側の山の山頂近くに、紅葉の生い茂る中、黒く焼け焦げ山肌が露わになった場所があった。
「ホントだあ。でも旅館に落ちなくて良かったですね~」
里見が杉倉の後ろから言う。杉倉も何となしに頷きながら、その焼けただれた一帯から旅館へと視線を移すと、事件のあった二階の菊の間の窓に目が行った。今も捜査員達が作業しているのか分からないが、部屋は雲の色と同様に暗かった。
その時、杉倉の脳裏に何か嫌なものが湧いて出て来た。否定しようとしても、悪魔的とも天使的ともつかない感情に揺り動かされ、より一層その動悸は早まる。杉倉は踵を返した。
「杉ちゃん、忘れ物?」
突然走って旅館へ戻ろうとする杉倉の背中に、里見は驚いた声をあげた。しかしそれも杉倉の耳には届かなかった。
「まさか、まさか…!」
玄関をくぐり階段の踊り場を抜け、二階の菊の間の前に立つ。一帯には警察によって黄色いテープで規制線が張られ、まるで朝に見、通った場所とは思えぬ余所余所しい場所となっていた。
「杉ちゃ~ん…、そんなに急いでどうしちゃったの~?」
遅れながらも追いかけて来た里見が困惑顔で言う。杉倉はテープをくぐって、開けっぱなしの玄関から中に入った。部屋に捜査員たちの姿は無く、ほとんどの作業は終わりかけているようであった。その中で杉倉は一目散に窓の方へ歩いて行く。
ちょうど正成氏が自殺した椅子の後ろに立ち、窓の外に目を凝らす。すると……
「焼けた…木…」
目を細めると確かに、山の中に黒々と焼けた一帯が見て取れる。そして、巨大な古木だったものと思われるものが黒焦げで朽ちているのも見えていた。
『……五十子。あの木は何処だったかな』
生前、正成氏が五十子夫人に尋ねたこの何気なしの言葉が、杉倉の脳内に再生される。
「私達はとんでもない思い違いをしていたのかも…」
杉倉は部屋に入って来た里見に言うのでもなく、呟く。
「正成さんは本当に自殺だったのよ…!」
「どういうこと…?」
里見が本当に分からなさそうに言った。
「…違う、これはあくまで一説に過ぎないわ。でも、私達はこの可能性を考慮しなくちゃいけなかったのよ。……正成さんは五十子さんの視線に気づいた後、すぐには自殺しなかった。それはどうして? そう、前々から正成さんは彼女の悪意には気付いていたはずよ。それなのにどうして今の今まで自殺しなかったのか。そして、椅子が障子の側へ向いていたのは、五十子さんと視線があったからじゃ無く、『木』から目を反らす為だったら……!」
杉倉は浮かびあがる疑問と仮説を筋立てせずに並び立てる。それを里見は的確に拾い上げて、こう言った。
「詰まり、五十子さんの行為は正成さんの自殺と関係無い、ってことなの?」
杉倉が一呼吸置いて、今度は冷静に喋りはじめた。
「――そう。彼が最も悩んでいたこと、それは彼自身がもう、五十子さんを愛していないということだったのよ。あの二人の間に、『木』が一体どんなものだったのかは分からない。けど、正成さんにとってそれは二人の愛の証しだった。過去の熱愛を肯定し、五十子さんへの献身を証明するものだった…。けど、彼はもう分かってたのよ。その遠い夏は終わって長い冬が来たことを。彼は敢えて、過去の彼を象徴する『木』を見ない事を選んだ。変化しない『木』を恐れた。変化した自分を、そこに見つけてしまうから。もし『木』が燃えていなかったなら、自殺こそしなくても絶望を味わっていたでしょうね。自身の軽薄さに」
「――で、でも…。木は燃えちゃってたんだよね。その木が変わっていたとしても、どうしてそれが正成さんの自殺理由になるの」
「さっきも言ったように『木』は過去の象徴であり証明なのよ。『木』が変化していないくても、変化していても、見るのは耐えられない。彼は目をつむり、自分を鼓舞し、せめて妻への愛の義務を全うしようとした。過去の愛への責任、と言ってもいい」
「過去への責任……」
後ろに居る里見の表情は杉倉から見えない。
「そう、五十子さんに誓った愛の責任よ。でも、彼は見てしまった。『木』の朽ち果てた姿を。つまりこの自殺理由は後者の『過去の責任』に由来するのよ。過去の愛の証明は消え、ここでようやく五十子さんの悪意は意味を持った。精神を病んでボロボロの正成さんの生きなければならない愛の責任は消失した。他の人生に疲れた正成さんにとって、『木』は決して善い意味で無いけれど、彼を支える唯一の支柱だったのよ。――だけれど皮肉にも、五十子さんにとって『木』はなんの意味も持たない。言わば春の中の一瞬に過ぎなかった。彼女は、色とりどりの『愛』が欲しかった。春が秋に変わっていたとしても、正成さんを愛せていたかも知れない…。でも、そういった所で言えば二人の愛は初めからすれ違っていたのよ…。気取り屋の台詞から引用するのは嫌だけど、『人間は相変わらず報われない生き物』なんだわ」
杉倉は、警察官に連れられてパトカーに乗り込む『容疑者』の姿を再び思い返す。ぼうっと山を見る彼女の目には、一体どんな景色が広がったのだろうか。
自殺関与・同意殺人罪が適用されれば五十子夫人は刑務所に収監される。彼女を監獄へ送り込んだのは偶然にも杉倉と里見である。偶然、というには言い訳じみているかも知れない。しかし、事実はそうなのである。彼女の殺意は露見した。故に五十子に罪が無いとは言えないし、杉倉の仮説を証明する方法は永遠に失われている。死人に口無し、と悔しがる意味すらもうない。五十子夫人は愛されようとした余りに夫を失い、正成氏は夫人を過去で愛した余りに死に追いやられた。だがこれらを自分本位であると言うには惨たらしい。ましてや彼女らがしたことも…
「勿論、正成さんの自殺の原因はもう誰にも分からない…。五十子さんの殺意かもしれない。正成さんの苦悩かもしれない。いいえ、そもそも人の心を勝手に解釈するのは間違い、得意顔した探偵の無用の詮索なのかも知れない。だけれど…」
杉倉が言葉に詰まって沈黙すると、背後から泣きじゃくるか細い声がしていたことに気付く。彼女が驚いて振り返ってみると、里見が目をゴシゴシ拭いながら、なおもボロボロと大粒の涙を流している。見ている方まで目が潤みそうになる、善い意味で子供じみた憐憫さだった。
また一方で、久々に繊細な里見を見られたような安堵と懐かしさが、思わず杉倉の胸を撃つ。
「裕香…」
「やっぱり、犯人は名探偵がつくるってことに、なっちゃう…のかな……? あたしは、なんてことをしたんだろう……!」
杉倉がそっと里見に寄り添い、頭を撫でる。そこにいるのは何時もの、臆病で内気で健気で思いやりのある、芯から優しい少女である。そうであるからこそ彼女は泣くのだった。涙に交じって下唇から一筋の血が滴る。本人も知らぬ間に唇を噛み締めていたらしい。
「『罪を罪と知るものには、総じて罰と贖いとが、ひとつに天から下される』 芥川龍之介が纏めた或る伝記の一節さ。自分で自分を罰せられるなんてのは思い上がりも甚だしい。正成氏が死んだのは罪か? 罰か? 君らは一体何を探し当てたのだ?」
いつか見たように、悲佐田が物憂げな表情で部屋の入口に立っていた。しかし口調は実にあっけからんとしている。無闇な感情移入はしない、という強い意思表示のようにも聞こえる。見え方と聞こえ方に大分隔たりのある、最後まで腰砕けな矛盾した男であった。
大粒の雨が屋根瓦を叩く音は次第に活気を帯びるが、その場は一層静けさを増したようだった。
「……じき迎えのバスが来る。早く下へ降りてきたまえよ」
独白するようにポツリと言った悲佐田は、そのまま言葉少なに足音も立てず行ってしまった。
パンツのポケットに両手を入れた悲佐田の肩は寒そうにすぼまり、透明な重荷を背負っているようにも見えた。
…………
………
…
階下で、振り子時計の音が鳴った。外の雨は激しくなっている。
「優しいのか厳しいのか。嘘つきなのか誠実なのか、よく分かんない人なんだね」
里見がクスッと、いやグスッと鼻をすすって小さく笑う。杉倉は何か答えようかとも思ったが、思い止めて何も言わずに里見の頭を優しく撫でた。
里見に何を言うべきか、悲佐田の言葉から里見に何が伝わったのか、そうして何かが解決したのか、それらは杉倉にはやはり知り得ないのだ。
「――償えない罪を持ってない人は、いない。これもまた運命かしらね」
しかし杉倉の瞳は力強く前を見据える。里見はそんな杉倉をしみじみと見てから、窓の外の山々に視線を移した。
低く垂れこめた雷雲の上には、どこまで深い蒼空が広がっているのだろか。
――そんなことを考えながら。
バスは雨に白く煙る山々を縫って左右に振れる。やがて薫ってくる潮の匂いを思い出すにつれて、西の雲が油絵のように紅と橙とが濃厚に折り重なった色彩を帯びてきた。バスには杉倉と里見、そして離れた後ろの座席に悲佐田がいる他、色あせたワイン色の座席が寂しく並んでいる。そしてバスは、最後の山のトンネルに入った。出口が見えているのに中々外へは出られない、そんな長い空洞を陰気な電燈に導かれてバスに揺られている最中、それまで沈黙していた杉倉が口を開く。
「…罪を知らなきゃ探偵にはなれない。…なるべきでもない。じゃあ、私達は一体なんだったのかしら」
里見はちょっと沈黙して、手元に視線を落とす。
「……でも今は、あたし達が何であるか言えると思うよ」
杉倉も一寸考えてから、「それは何?」と聞き返した。里見は悲しげな調子でクスクス笑うと、アーモンド形の綺麗な瞳を細める。不図、瞳の輝きが増しているのに気付く。遠く感じた出口も近いのだろう。
「『元・美少女探偵』 だよ」
すると例の如く、聴き耳を立てていたらしい悲佐田が後ろでわざとらしく鼻をかんだ。
杉倉が苦虫を噛み潰したような顔で里見に向かって肩をすくめる。
二人は目を細めた。
――トンネルの向こうに、夕日の溶けた海原が待っている。
初めての推理小説ということもあり、万全を期して推敲を重ねたつもりです。どこか矛盾や不可解な点が御座いましたらご一報頂けると幸いです。
並びに、この推理小説はシリーズの第一章にでもしてみようかと、読者の皆様の御機嫌うかがいも兼ねて発表してみました。これを機にシリーズを始めることになるやも知れませんので、以後お見知りおきを。
ちなみに、構想ではシリーズと云えど一話完結で、章の主人公は毎回変える積りです。第2章では悲佐田・そして『病弱探偵』が主人公となる予定。




