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第三節

「――そうよ。あの剃刀はあの人の愛用品で、旅行に行くときはいつも持ち歩いてたわ。まさか、そんなもので自殺するなんて…」


「…成程、そうですかぁ。では、五十子さんが部屋に戻ったのはいつ頃だったんでしょう?」


 五十子は一階の事務室で一人口をピッタリ真一文字に結んで、不安定な焦点を虚空に巡らせていた。骨董品と思われる古い振り子時計の鐘が五十子を覚醒させるまでの数分間、里見と杉倉は重くのしかかる何かを必死に堪えたまま彼女の前に立ちつくしていたのだった。


「さあ、よく覚えてないからねえ…。部屋に入ってあの人を見つけてから飛び出して来たのよ、時計を見ている暇なんてなかったわよ」


「あの悲鳴を上げたときなんですね? じゃあ発見は大体10時から5分の間ごろですね…。でも五十子さんは普段から身の回りのことをキッチリとさせる人なんでしょうね」


「…? 何が言いたいの」


「いえ、部屋を飛び出したのに居間の障子をキッチリ閉めていくなんて、普通の人はしないだろうと思ったので」


「…そうかも知れないわね。私も無我夢中で覚えていないけど、きっと閉めていったんでしょ。でも、どうしてそんなことを訊くの? アタシ、今は少し独りにしてて貰いたいの」


五十子は憔悴したような面持ちのまま、煩わしそうに言った。


「居間の所の障子に穴は開いてましたか?」


「――さあ、どうだったかしら。よく覚えてないわよ。もういいでしょう、早く行って頂戴」


「申し訳ありませんが、もう少しだけお付き合いくださいませ。亡くなられた正成さんについて、幾つか妙な所があるんです」


杉倉が端的に答える。里見は口を半開きにしたものの躊躇が言葉を押し止めていた。


「…妙? 変なこと言わないで。何が妙なの、アタシにはさっぱり分からないわよ…。教えて、何が妙なの?」


「一つ、…正成さんの自殺の動機が分からないんです」


普段の無邪気さは影を潜めた里見が所在なさげに言った。


「…アラ、昨日言わなかったかしら。だってあの人は鬱病だったのよ。いつ自殺してもおかしくなかったわ」


「でもでも、これから自殺する人がどうして仕事を依頼するんでしょうか? 正成さんは亡くなる寸前に、ある人に自伝のようなものを書いてもらう約束をしていたみたいなんです。契約金まで支払って、どうしてその活動を行わないまま死を選んだのでしょうか」


「あの、『ある人』ってもしかしてこの旅館に泊ってるあの不潔そうな男のことですか? 昨日会った時から、胡散臭そうだからおやめなさいと言っていたんですけど、あの人はいっつも私の言うことなんて訊きやしないから…。きっとその男があの人に無理に迫ってそうさせたんでしょうよ」


未亡人は眉間に皺を集めて言った。里見は肯定も否定もせず、ただ「成程」と一言いった。彼女に似合わぬ慇懃無礼な感じのする端的な答え方である。人が変わった、と言うに当てまるかどうか。元々里見の言動の本意が凡人には大よそ理解しがたい為に、今の彼女が一体どこまで彼女本来の姿であるのか理解しかねるのだ。杉倉は、推理に熱中すると性格の変わる里見を全く知らない訳では無かった。サークル活動中に推理ゲームにおいても度々この彼女は現れる。その度杉倉は内心ギョッとするのだった。


「――ああそうだわ、里見。それと、私も変だと思ってた所があるのよ。正成さんの椅子の向き」


杉倉は内心の揺らぎを誤魔化すのに、自身から推理の『紐』を差しだす。その紐の一端はまだ里見の目の行き届かない場所にあったらしく、興味深そうに問い返してきた。


「椅子の向き?」


「昨日、正成さんは食い入るように山の景色を見てたわよね。それほど目を奪われるんだったら、最後にそれを見ておきたいと思うのが普通だと思うのだけれど」


その時、五十子はハッと息を飲んだ。里見と杉倉はそれを見逃さなかった。一秒ない位の複雑に絡み合った詮索の為の視線と沈黙は不穏に間延びし、永遠に続くとも思われる疑念の大波が現実を遮った。


――古時計が時を告げる。





 珍しいことに、杉倉は里見の小さな背中を見ながら歩いていた。平生で杉倉の前に人が立つことは稀である。杉倉は不慣れな感覚を抱きながらも旅館を散策する里見に付いて行くのだった。


「足りない…」


小さく呟いたのは里見であったが、その意味する所は直ぐに理解できる。

先の五十子の反応で彼女に不審があることは誰が見ても明らかだった。殺害の動機、死体発見時の違和感、それらすべてが彼女を指差している。


――が、『足りない』


正成氏の死と五十子を関連付ける明確な証拠は見つからないのだ。なので、二人は五十子の追及を打ち切りこうして旅館内で証拠探しに明け暮れている。

二階の廊下で、『ならば』と杉倉が推理に一石投じた。


「五十子さん以外が犯人だっていう可能性はないの? 例えばあの悲佐田とかいう男も、かなり怪しいと思うのだけれど」


「悲佐田さんは多分犯人じゃないよ」


里見はぴしゃりと言いきった。彼女の頭にはすでにある程度のマインドマップが出来上がっていた。

悲佐田が犯人であるという疑いは全くないという訳では無いが、その可能性は極めて小さい。先程まで行われていた尋問で、正成氏の睡眠薬がここへ来る時より幾つか減っていると五十子夫人は証言している。やはり、正成氏が睡眠薬を使用したのは間違いが無いようであった。これが自発的行為であったのか、それとも……。


二人は菊の間へ再び足を踏み入れた。部屋に入る為、再度女将に同行してもらう。女将の顔色は優れなかった。窓を閉めたために室内は、濃い血の匂いでむせ返っている。


「例えば」


里見が床に落ちている和剃刀を指差し言った。


「悲佐田さんは正成さんから聞き出した睡眠薬を使って、被害者を昏倒させる。仮にこれが正しいなら、テーブルにあった日本酒に混ぜ飲ませた可能性は高い、かも。でもここで一つの疑問点があると思うの。薬の包装から見ても、この睡眠薬は市販のものじゃなくて、お医者さんの診断から処方されたものだというのが直ぐに分かるよね。普段服用する量を知らない人が、こっそりとこれを正成さんに飲ませたなら、検死した時に不自然なのがすぐにばれちゃう。ましてや、睡眠薬は量を間違えば大変なことになるよね? あの悲佐田さんが、そんな賭けの様な事をするかな」


「まず、しないでしょうね。この際に適当な言い方ではないけど、あいつは真正のチキン野郎だと思うわ」


杉倉は深々と頷いた。


「…そしてもう一つ。和剃刀で手首を切ったのなら、必ず返り血が飛び散っている筈なの。だから剃刀を持った手には血が付いてる。でもここの旅館はお部屋に手洗い場が無い」


そう、ここは古い旅館であるが故に部屋にはトイレなども無く、手洗い場は廊下に出て行かなければならいのだ。もし手を血に濡らしたまま出て行けば誰かに見つかる可能性がある。そして、あの根性の無い悲佐田という男のことである。


「手に何か被せていたら返り血も何とかなるんじゃないかしら。手袋とか手拭、そこに掛けてあるようなバスタオルでも」


杉倉はスタンドに掛けてある一枚のバスタオルを差して言ってみる。里見は大福じみて柔らかい頬を両手で抱えるように抑え込んで、一考するように俯いた。


「…杉ちゃんの言う通り、あるとすればそれが唯一の直接的証拠だね。確かにそれはその通りなんだけど…」


里見はすでに悲佐田に嫌疑をかけるのは本旨に外れると考えていた。否、彼女は初めから悲佐田犯人説を否定していた。見つけ出した紐の端と、悲佐田の行動は結びつかないと直ぐに直感していた。にも関わらず悲佐田を尋問したのは、単に彼の知る情報を引き出すに過ぎない演出であった。里見の思惑通り、刑務所へ送られかねない危機を感じた悲佐田は里見の思惑以上の考察を与えてくれたのだった。

 さて場面は戻り、膠着状態の推理で煮え切らない里見に対して、杉倉の決断は早かった。

「一寸待ってて」と一人部屋を飛び出して、部屋先にいた女将に場所を問いただすと、悲佐田の部屋を真っすぐに強襲した。悲佐田は何処へ行ったか部屋はもぬけの殻である。鍵もかけていない所、フラッとトイレにでも行ったのかもしれない。杉倉はその隙にと、取りあえず証拠になりそうな血の付いた手袋、手拭、バスタオルを探す。実行あるのみという彼女の情熱は時として恐ろしい。


「ゲッ、何よこれ…!? あいつこんな趣味あるの…」


悲佐田の旅行鞄から出てくる怪しい物体に目を大きくしたり細くするのが2,3度。そうしている内、あっという間に部屋の中の目ぼしいものは尽きてしまう。悲佐田は最低限度の所持品すら持っていなかった。どういう経路でこの宿まで辿りついたのか、どこか山中で野垂れ死にしてもおかしくは無かった筈である。唯一見つかった娯楽品は江戸時代風の描画の男女が組んず解れつする本だけであった。





「はあ。昨日の夜、うちの若いのがこの部屋から捲し立てるような怒鳴り声を聞いた、なんて言うものですから……はぁ」


「ふむふむ、成程」


女将と里見が菊の間の前の廊下で話していると、杉倉が早々戻ってきた。そして間髪いれずに結果を報告する。いささか機械じみた行動形態である。


「あの男の部屋にあった手拭、バスタオルには血の跡らしきものは無かったわ。もしあいつが持ち込んだ私物を犯行に使ったんであれば別だけど、それだけの計画性が見られるべき(・・・・・・)事件じゃないしね…」


「菊の間にもそれらしい証拠は無かったよぅ。ただね…」


と、ここで里見は何かに気付いているような素振りで杉倉に次ぐ。


「この部屋にはバスタオルが一枚しかなかったんだ」


「うん?」


杉倉はまだピンと来ないらしく、涼やかな目元を縁取る長い睫毛を瞬かせた。


「二人の旅客にバスタオルは何枚必要かな」


杉倉は思わず口に手を当てる。こうしなければ呆けたようにポカンと開かれた口を晒していたことだろう。女将は何のことやら、と二人の顔を交互に見つめる。


「…それともう一つ、これは殺人であって、殺人じゃ無いかも知れない」


里見の謎かけに、杉倉は口に当てていた手を下げ、呆けたようにポカンと開かれた口を晒した。女将は何のことやら、と二人の顔を交互に見返している。


「五十子さんなら、正成さんを殺害するのは可能なの。でも、それじゃあ一部の謎は未解決のままに終わっちゃう。すべての点を線で結ばなきゃ、真実の全体像は見つからない」







引いては押し寄せる潮騒のように、時計の鐘から幾層もの金属音が鳴り渡る。

これを皮切りに、里見は意を決し口を開いた。


「五十子さん。何も隠していないと、私の目を見て言って下さい」


すると五十子は居心地悪そうに口をもぞもぞさせた後、突如開き直ったような大声で里見を怒鳴りつけた。


「一体どういう積りなの? 探偵ごっこか何か知らないけどね。いい加減にしないと、こっちだって黙ってないわよ」


「はい、勿論その通りです。五十子さんには喋って頂きたいんですから。あなたは正成さんの死について、まだ話していない事があると思います」


里見が言葉尻を捕えて挑発する。怒りによって五十子の顔はサッと蒼褪める。探偵の作戦通りか、と遠巻きに杉倉は眺めていた。


「……い、いい加減にしなさいよ! 私があの人を自殺させたって言いたいの!? 私の気持ちも考えずによくそんなにモノを言えるわねッ。事情は全部警察に話しますから、あなた達はもう帰って頂戴! あなた達には何も話すことは無いわ!」


普段ならここで押し負かされビクッと体を震わせるであろう里見が、なんと身を乗り出した。その顔は自信にあふれ、彼女をよく知る杉倉でさえ驚きと底知れぬ嫌悪感、もしくは罪悪感によって目を(しばた)かせる。捲し立てられる里見をサポートしなければ、と意気込んでいた杉倉にはもう傍観者の立ち位置しか残されていない。


「五十子さん。今、『自殺させた』と言いましたね??」


里見は人差し指を立てて、満足げな顔で静かに言い寄る。五十子はもはや額に油汗を浮かべていた。


「なッ……! い、いいから、出て行きなさいッ!!」


「あ、気を悪くしないでください。ただ、言い方が奇妙だったので…。でも人が死んで、自分が疑いを持たれればその容疑は『殺人』ですよね? それを自殺させた、なんて特殊な状況でいきなり想定するのは不自然なんじゃないですか」


「それは……。わ、私が、常日頃からあの人に辛く当って、自殺に追い込ませたんじゃないかって思ったからよ」


「成程」


里見はフウムと頷く。しかしまたすぐに顔をあげて「そういえば」という切り口でも急過ぎるように思えるように話題をくるくると変える。まるで連続で王手を掛けている素人将棋の終局のようだった。


「そういえば、今回の事件における凶器は正成さん愛用のカミソリでした。折りたたみ式、和剃刀」


「……」


五十子はいよいよ憔悴しきって舌を出して喘ぐ犬のような面持ちで、押し黙って目だけを炯々とさせている。


「でも、鬱病の人にそんな刃物を持たせるでしょうか? さっきも『いつ自殺してもおかしくない』状態にあると言った居ましたね。きっとお医者さんからも言われていた筈ですよ。刃物を持たせてはいけない、と。…あなたが、剃刀を預かっていたのではないのですか。五十子さん」


里見が、普段とは打って変わったように冷たい口調で問い詰める。五十子はまだ口を噤んだまま里見らを睨んでいた。


「しかも、正成さんの顎鬚は昨日ここへ来た時のまま、どころかさらに伸びて剃られないままになっていました。剃る機会は何度もあったはずなのに。もしも剃刀を彼が所持していたなら、これは不自然だと思います」


「確かに言われてみればうちのパパなんかが、お風呂場でよく髭を剃ってたわ。正成さんは昨日今日で幾度も浴場へ行ってるのよね」


杉倉が神妙な顔で意見する。


「もしも五十子さん、あなたが剃刀をテーブルの上に置いたなら。…わざと温泉に行く前には剃刀を渡さず、正成さんが自殺を図るその直前、温泉から戻った彼の目の前にそれを置いていたなら、矛盾は解消されて理由へと変わります」


するとここで、五十子の顔に変化があった。それまでずっと沈痛な無表情を決めこんでいた彼女の顔に、いや正確にはその口元がぐにゃりと捻じれた。笑っている様にも泣いている様にも見える、酷く凄惨な顔つきであった。


「そうよ。確かにあの時、剃刀をテーブルに置いたわ。だってあの人、余りにも髭が汚らしく伸びきっていたんですもの。オホホホ、昔は剥いた茹で卵みたいな肌だったのに」


五十子はヒステリックに笑った後、急に真剣そうな顔に戻る。


「でも、まさかあそこで自殺するとは思わなかったですもの! 普通分かるものですか? ねえ探偵さん」


「それは確かに分かりません。ですけど、どうすれば自殺するか(・・・・・・・・・・)くらいは、分かりそうなものじゃないでしょうか。取り分け、重い鬱病を患った人なら。選り分け、長年連れ添った夫なら、です。あなたが昨日、正成さんへ怒鳴り散らしている声を聞いたと証言している人がいます。病人にそんなもの言い、あんまりにも連れないじゃないですか」


ここまで云われ、ようやく五十子は弁解の言葉を見失ったようだった。うわ言のように「そんなの分かる訳ないじゃない、そんなの分かる訳…」と繰り返しているものの、それはもはや抗弁の役割も果たしていない。彼女の顔面は蒼褪めたまま、虚ろに見開かれた目だけが赤い。


「私の考える事件の流れはこうです。10時56分ごろ、悲佐田さんが正成さんの部屋から出て行ってすぐに、ほぼ入れ違いだったんでしょう、五十子さんは部屋へ戻ってきます」


里見の語りに五十子はほとんど反応を示さなかった。


「そうだ、五十子さん。江戸川乱歩の『赤い部屋』という作品を知ってますか?」


五十子はほとんど分からないか位に首を横に振る。


「それって、確か青年が殺人を犯さず人を殺したって話をする話よね」


杉倉が深い海底から記憶の欠片を拾い上げて来たように言った。


「これから起こり得るであろう偶然の大事故を予測していて、そこへわざと被害者となるであろう人を導く。予想通り事故は起こり、青年に唆された被害者は不幸な事故の犠牲者(・・・・・・)となる。本人が故意にそうしたと自供しない限り、罪に問われることは無いっていう完全犯罪よね。でも実際、そんなことが可能かしら? あの小説でも、青年の唱えたこの完全犯罪は狂言だったし、少し現実離れしてると思うわ」


「うん、これは少し偶然に頼り過ぎてる犯罪方法だと思うよ。だけど、この方法を単純化させるとつまりは、人を死へ追い込むってことだよね。そういった意味じゃあ、酷い苛めをして相手を自殺まで追い込むのだったり、ストーカーをして相手を自殺に…って、間接的な殺人は実際可能だと思うの」


「ちょっと里見、苛めとかストーカーが自殺の原因なら加害者は罰せられるわ。『赤い部屋』のトリックは根本的な死亡理由が予測できない事故だったからこそ成り立つのじゃないのかしら?」


「うん、そうだね。でもそれを逆に言っちゃえば、あれでは予測できない筈の事故を偶然予測しているからこそ犯罪が可能なの。つまり逆説で言えば犯人は『最終的な悪意以外に有形無形、いずれの形も持ってはいけない』 …ということになるよね」


突然の大声を出したために、ドアの外が騒がしくなってきた。五十子がわめき出した頃から隣の部屋に居る従業員達の話声はピッタリと止み、こちらの部屋に聞き耳を立てているのが伝わって来ていたのだが、ここに来ての会話の内容からついに誰もが騒然としてきたのである。


「五十子さん、あなたはそこで『殺意』を露わにしてしまったんです。だから、この犯行は露見したんです」


杉倉には里見が核心へと踏み込む痛烈な足音が聴こえる様だった。


「何が、殺意だっていうのよ…? 言って御覧なさいよ」


五十子は挑発の言葉としては余りに弱々しく言った。里見はそれに一呼吸置いてから、また喋りはじめた。


「障子の『穴』です。あなたは例の青年のように、偶然の一致による殺人を思い描いていました。正成さんへ辛く当って、ついに彼を鬱状態にまで追い込んだんです。後一歩、もう一押しさえすれば正成さんは自殺する。あなたはその機会を日々の中でついに、今日見つけたんです。きっとここへ来てから、いつも以上に正成さんへ辛く当ったのでしょう。そして彼にさも自然を装って和剃刀を渡し、そっと部屋を後に外へ出るふりをして玄関で部屋の中の様子を窺っていました。もちろん待ち望んでいたのは正成さんの自殺。これが所謂『悪意』です。しかし、予想外にも正成さんは中々自殺しようとしなかった。時間が刻々と過ぎて行く中、あなたは業を煮やしてある行動を起こします。それが、『障子に穴を開けて中を覗き見る』です。様子を知りたい、と思う気持ち。そしてもう一つ、正成さんの死を願う『殺意』です」


『見る行為自体が殺意』

一見分かり難いが、杉倉はその場面を想像して全身の肌が粟立つのを感じた。



――かつて自分の瞳と同じように、幸せな将来を共に見つめる筈だと確信し合った瞳が


――その瞳が憎悪の狂気に血走って


――死の淵に立つ自分をジッと見ている


――シネ、シネ、シネ、シネ……



にわかに、世界の中で椅子に座っている五十子の姿形が異形の者の如くに歪み始めたように見えた。正成さんは、その視線に突き落とされたのか――。


「ッ……!」


杉倉は一歩後ずさる。だが逆に、里見は一歩踏み出すのだった。里見は最早杉倉も、五十子すらも見てはいなかった。


「変だと思ったんです。初めは、階段の踊り場で見かけたあなたは涙で目が赤くなっているんだと思いました。でもよくよく見れば赤くなっているのは右目だけで、左目は何ともない。でもあの部屋へ行ってみて分かりました。窓から入る寒風です。私も障子の穴から部屋を見てみたんです。そうしたら障子の真向かいの窓から入る風がもろに目に入っちゃいました。五十子さんの右目だけが潤んでいたのはきっとそのせいですよね?」


「……」


五十子の沈黙は依然崩れない。


「でも、これだけ言ってもまだ証拠は足りないです。私が心配していたのは警察が来る前にその最後の証拠を滅却されることでした」


「まさか…」


五十子がこれまでに無く底の抜けた声をあげた。


「この宿の焼却炉と洗濯機は女将さんに言って止めてもらいました。何度もここに来た事がある五十子さんなら、これらの稼働している時間も知っている可能性があり得ると考えたからです」


「それで、その『証拠』っていうのは…?」


杉倉が訊く。


「それはね杉ちゃん、五十子さんが持っていなかったものだよ」


「持っていなかったもの?」


「お風呂へ持って行かなきゃならないものは、石鹸とかシャンプー以外にもあるでしょ?」


「…成程。それで、バスタオルね」


「そう、濡れたまま服は着れない。でもあの時、湯上りの筈の五十子さんはバスタオルを持っていなかった。しかも部屋には正成さんのバスタオルがあるだけで、五十子さんのはどこにも無かったんです。推察するなら、五十子さんのバスタオルは部屋に帰って来た時スタンドの手前側に掛けて置いたんだと思います。正成さんのバスタオルは奥側の掛け棒に掛っていましたから。――本来なら、部屋の中へは戻っていないというアリバイを完璧にする為、そのバスタオルを手に一階まで私たちを呼びに来る積りだったんでしょうが、運悪く何らかの痕跡が、恐らくは正成さんが手首を切った際に飛び散った血でしょう。そのバスタオルに付いていたのではないですか。きっと探せば、焼却炉か洗濯機、もしくはこの旅館の何処かにバスタオルが隠されている筈です」


どうやらこれがチェックメイトであったらしく、五十子は力無くうなだれる。しばらくの間部屋は重苦しい沈黙に包まれた。

長かったような、けれども思い返せば案外短かったような、妙にギクシャクした時計の秒針が刻、刻、刻、刻と正常に動き出したのは五十子がポツリポツリと口を開いた時のことだった。


「…あの人ね、結婚してから随分変わったわ。まるで夢が覚めてくみたいに日々が単調になった。思えばあの頃がもう『秋』だったのかも知れないわ。……あの人ね、あたしの視線に気づいてからしばらく、何とも言えない虚ろな顔でいたわ。目も開いているのか閉じているのか分からない。それでもあたしは見続けた。瞬きも忘れてたかもしれないわね。そうしている内に不意にあの人、窓の方に顔を向けてあたしから目を反らしたの。…絶望したわ。まだ自殺してくれないのか、まだ私に答えてくれないのかって。でも、あの人はまた直ぐ振り返って睡眠薬を日本酒で飲んで、手首をゆっくり2回切りつけたわ。…凄い血が出るのね。噴水みたいだった。それからしばらく時間を置いてあの人が死んだ頃を見計らって…。名探偵さんの言う通りバスタオルを持って行こうとしたけれど、血が沢山ついていたから諦めたのよ。階段横の物入れの後ろに隠しておいたわ。警察が来る前に、焼却炉に投げる積りだったけど、もう無理そうね。でも、ここまで冷静にしたのに、していたつもりだったのに、やっぱり動揺してたのかしら。部屋に私が来ていないことにしようとして、障子まで閉めきっていったのは流石に不味かったわね。もしかしたら、そんな所から結局は警察に捕まっていたかも知れないわ」


五十子は遠い目をした。人を死に至らしめたその目は、今過去を見ていた。


「あたしだってね、あの人を嫌っていた訳じゃないんだよ。あの夏の日、木の下であたしが結婚を申し込まれた時から今日まで。ここまでしておいて言うのも変かもしれないけどね、好きだった(・・・)からこそ辛く当たっていたのかもね。それにね、あの人さえ死んでくれれば、後に何かが待ってるとかいう期待もなかった。ホント、何であんなに……」


里見と杉倉はその先の言葉を待ったが、五十子はもう口を噤んでいた。そしてもう二度と彼女の言葉は聞こえてこなかった。

その時、部屋のドアが喧しく開いた。開け放たれた戸口から大股で入ってきたのは黒のスーツへ窮屈そうに収まった強面の男であった。歳のせいかやや疲れた雰囲気を纏っているが、皺の中に落ち込む双眸は剥き出しの目玉がそこにあるかの如く、すべてを太い視線で射抜いてしまいそうだった。

開け放たれたドアの向こうには、従業員やら警察の制服姿の人間が忙しそうに動き回っているのが見える。平穏な温泉街には似つかわしくない、堅苦しい喧騒に満ちてる。


「悪いが勝手に名探偵さんの推理を拝聴させてもらった。お見事、と言いたいところだが…それでは税金泥棒の面目躍如か」


掠れるほど低い声で喋るこの妙齢の男は、地を這う様な重い口調であるが、言葉には嬉々とした響きを含ませて言った。


「失礼、自己紹介が遅れた。茨城県警刑事部第一課の金碗 大吾朗(かなまり だいごろう)だ。早速だがここにいる人間(・・)全員には、色々と聞きたい事がある。こちとらお国から給料を貰ってるんだ、端役と言えどもきっかり仕事はさせてもらおうか」


この男の『人間』の言い方が嫌に冷徹で、杉倉は眉をひそめた。金碗は杉倉の目線に気付いているのかどうか、彼女を眼の端にも留めず、部屋の前に控えていた部下を呼び寄せ、うなだれる五十子夫人を両脇から支える様にして立たせる。


「――それでは、また後ほど」


金碗は目だけは動かさずに会釈して忙しそうに部屋を後に、颯爽と場を去ってしまった。舞台が移ったような疎外感が部屋に漂う。


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