第二節
「正成さん、自殺しちゃったのよね…」
杉倉が安楽椅子に腰かけポツリ呟く。警察が到着するまではあの部屋に誰も入らないよう、旅客は全員自室に居るように言われていた。言ったのは里見である。
「……」
里見は部屋へ戻って来てから、落ち着きなくテーブルの周りをグルグルと回り、頭の中であれこれ考えているのか平生の詭弁も鳴りを潜め異様な程に終始無言を貫いていた。なので里見がやっと口を開いたとき杉倉の反応は早かった。
「杉ちゃん。堀内さん達の部屋に入った時、何か変な所はあった?」
「変な所?」
杉倉はサラリと顎を撫でて事件発見のときの情景を回想する。
まず悲鳴を聞いて、急いで部屋に入る。障子を開け、正成氏の死体を見つける。
考えてみれば、確かに一連の流れの中に妙な点があるように思えた。
「あっ。そういえば、障子に穴が空いてたと思うわ。指でこうグリグリって開けたような」
「そんなのがあったんだ? 気付かなかったよぉ。杉ちゃんそんな所まで観察してたんだ」
「誰でもこれくらい気付くわよ。裕香は私が障子を開けた後に部屋に入ってきたから、分からなかったのかも知れないけど」
「へ? 障子を開けた?」
すると里見は「ううぬ……」と唸ってから、突然素っ頓狂な声で「これが紐かも」と手を打った。ぺチ、と景気の悪い拍手くらいの音がした。
「紐って??」
何のことやら分からぬ杉倉は困惑の表情で腕を組んでいる。
「ほらぁ、よくサークルで推理小説の犯人探しをするときやってたやつだよっ。歴舎先輩の言ってた推理法」
「――ああ。よくも1年前に卒業した先輩のことなんか覚えてるわね」
杉倉は薄ぼんやりと歴舎 李季彦という大学で3学年上だった或る男のことを思い出した。そう、彼はよくサークル内で「紐解く前にまずは『紐』の端ッこを捕まえなければならないのだよ。そしてそれは、物語においてサラリとした文章の中に自然を装って紛れこんでいるんだ、杉倉君」と推理小説の中でしか通用し得ないであろう独自の理論を吹聴して回っていた。推理力、と言うよりは読解力。読解力と言うよりは推理小説家の心理から犯人探しを行う邪道な理論である。が、本人は推理小説内での犯人検挙率に心酔しきっていた。
探偵気取りで高慢ちきに、語尾へ逐一『〇〇君』と付けて話した歴舎とは反対の気質、言わば質実剛健がモットーの杉倉にとって、この男の粉飾けばけばしい生き様は無性に腹立たしい存在以外の何物でもなかったが、彼が卒業した後探偵業を始め、1年もたたぬうちに大学時代の同サークルの友人に破産申告のやり方を尋ねてきた、という噂を聞いてからはスッカリその存在を忘れていた。最後に彼について思ったことは、腐っても法学部所属で破産申告のやりかたも分からないとは情けない…、であったと杉倉は思い返した。
「――で、紐っていうのは何なの裕香」
「うん。おかしいと思わないかな? 五十子さんは正成さんの死体を部屋で見つけて、階段まで戻ったんだよ」
「まあ、そうでしょうね」
「障子を開けなきゃ部屋の中は見られない。でも杉ちゃんが部屋に行ったとき、部屋の障子は閉まってた。普通、動揺してる人が、まして急いでる人がわざわざ内の障子をピッタリ閉めてから助けを呼びには行かないよね。…障子に穴を開けて部屋を覗き見るなんて妙なことをしたなら、ともかく」
「そうかもしれないけれど…。それだけじゃあ、こう…疑惑としての決定力に欠けるんじゃないかしら? 穴が何時からあったのかも分からないし。五十子さんが正成さんを殺したのなら……あ」
杉倉が急に言葉を飲み込んだのは、自分が知らず知らず五十子に疑いの目を向けていることに気付いたからだった。確かに堀内夫妻は夫婦仲が上手くいっておらず二人の間に嫌なムードが漂ってはいた。しかし、昨日あれほど普通に会話を交わした相手へ『殺人者』の疑念を持っていることに我が事ながら驚いたのである。ましてや、ただの直感のみを頼りにしての容疑者の決めつけであったのが正義感の強い杉倉を動揺させた。
しかし――
「…彼女は確かに怪しくはあるわね。でも、まだパッと出の仮説に過ぎないわ」
すべてを疑ってかかれ、と杉倉は頭を切り換える。罪を暴くための道徳などは存在しないのだ。
そんな杉倉の冷徹な瞳が、里見の人差し指を追って左右に振れる。里見は、あの例によって軽快な舌打ちをする。
「ちっちっち。…杉ちゃん、これは紐の端ッこ。解くべき結び目は、杉ちゃんがさっき言ってた『障子の穴』にあるのっ」
「穴と殺人がどう繋がるの?」
「さあ、どうだろうねぇ~」
杉倉の陰鬱そうな思案顔とは対照的に、口角を上げて微笑む里見はやけに楽しげである。彼女自身はそれに気付いていないようであるが。
四畳半の控室で旅館の女将は首を傾げていた。初老というには少し齢の過ぎた、上品そうな顔立ちの老婆である。月に蒼ばむ雪のような色の着物を凛と着こなした女将は「はあ、障子の穴ですか…」と言って思案顔したきり首を捻ってばかりいた。
「いつ頃からあったか分かります?」
敷居越しに里見はジッと相手の目を見て問い掛ける。こう聞かれては、どんな悪人も嘘はつけまいと杉倉は空恐ろしくなる。実際のところ、そう思ってしまうのは彼女の純粋無垢な瞳に映る、己の瞳の濁った色が見えてしまうからか。
――そうかも知れない、と杉倉は心の内で肯定して思案を打ち切った。
障子の穴を見つけた時刻。追憶の海へ航海に出たまま戻らぬ女将は臆しがちな面もちでまだ記憶を探っているようだった。障子の不備を指摘された為か、館内で死人が出た為か、はたまた、老いの為につい先刻の事も思い出せなくなった悲哀の為か、その表情は優れない。
「朝の9時半頃にお布団を仕舞いに行ったときはまだ障子に穴は無かったと思いますけど…。そうだったわよねぇ」
女将は自信なさげに、隣の厨房に控えている従業員に尋ねた。「ええ、穴は開いてなかったです」と、仕事の忙しさにかまけて素っ気ない声が帰ってくる。どうやら初めからそちらの従業員に聞いた方が早かったらしい。
「となれば穴が空いたのは堀内さん達がいた短い時間に絞られるわね…。ちなみにその時、堀内さん達は?」
「はあ、確かお二人共温泉に行かれていたかと…」
「温泉ね…。それで裕香、穴は事件とどう関係してるの?」
「まって~、今考え中……」
里見は穴がどうだ時間がこうだとブツブツ呟きながら、杉倉の衛星のようにその周りを幾度も周回する。歩きながらでないと推理できないのかと、言いたくもなるが杉倉は文句を生唾と共に飲みこんだ。彼女の推理の邪魔はしたくなかった。しかし流石に里見の回転運動が10周期を数えようとするとき、杉倉が小さな衛星の軌道上へ立ちはだかり、当然の帰結、彼女らは衝突した。里見が杉倉の平坦な胸に鼻をぶつける。『ぷにっ』と柔らかい肉が押されたのは杉倉の胸ではなく、里見の鼻頭の方であった。悲しいかな杉倉の胸は夢のかけ廻る枯野があるばかりなのである。
「うへえ、どったの杉ちゃん??」
杉倉は腕を組んで堂々たる態度で、鼻を擦り後ずさる里見を見下ろした。
「案ずるより産むが易し、直接五十子さんから事件について訊けばいいじゃない。穴のことだって、何か分かるかも知れないわ」
「……」
が、里見は唇を結んで口ごもり、あまり乗り気の様子では無いようだった。
「…杉ちゃんが五十子さんに訊いてくれる?」
どうやら里見は本人へ直接疑念をぶつけるのが怖いらしい。口は達者でも度胸は無い、詭弁論者特有の症状である。
「ったく、裕香は仕方ないわね」
「めんぼくなーい…」
だが実のところは杉倉も、昨日は普通に世間話を交わした相手に対して、捉え様によっては非常に不快に思われかねない質問をするのは気が引けた。だがしかし、疑念を見過ごすことは出来なかった。
「でも、いきなり追求する前にまずは情報収集よ。女将さん、菊の間に行ってもいいですか」
「そ、それはちょっと…。警察が来るまでは部屋に入らない方がいいと思いますけど」
「心配ご無用です。私たちが事件を解決して見せます」
「じ、事件? ですけど警察が…」
「悠長なことを言っていてはいけません。警察が来る前に、犯人が証拠隠滅を図るかも知れません」
「はあ、しかし……。自殺じゃないんですか」
「――女将さん。自殺と決めつけるのは早計です」
「それなら尚更、警察に……
「警察ばっかりを頼るのは現代日本において非常に不確定かつ非合理的です。あまり知られてはいませんが日本の安全神話はとうの昔に崩壊し、警察の事件検挙率は今や30%そこそこです。さらに裏を言えば、殺人事件の解決件数は95%とありますがそれは『警察が殺人である判断した事件』の解決件数でしかなく、本当に迷宮入りの事件は『自殺』や『事故死』として片付けられ、その件数は分かっているもの闇に葬られたもの千姿万態で図り知れません。これでも、警察だけに頼りますか? 別に私達探偵だけに任せろとは言って無いのですよ、女将さん。警察も遊びじゃないので多少は捜査もするでしょう。ただ、どっちが事件を解決するか、というだけの問題です」
杉倉が生真面目な風に忠告する。実際には脅しにもならないハッタリであるが、彼女が真顔で言えば真実味を帯びた。気の毒にも年老いた女将はもう煮るなり焼くなり、といった具合にまで辟易していた。小難しい単語を消化不良にしたままに、あっさり諦める。
「は、はあ…。じゃあ、探偵さま、どうぞよろしくお願い致します…」
杉倉は満足げに頷いて「お任せあれ。きっと事件を解決してみせます。じゃ、行くわよ」と里見に先だって歩いて行く。
「事件があって探偵が登場する? …探偵が登場するから事件が起きるのかな?」
里見はそうひとりごちた。
堀内夫妻の泊っていた菊の間の前には、誰も入らないように番をしている老従業員が立っていた。老いた番頭は口をもごもごし、女将と杉倉らに頭を下げる。部屋に入る時は女将にも同行してもらうことになった。これは里見の提言である。
「女将さん、警察はまだ来んのですかい」
番頭は額を掻きながら「弱ったね」と苦虫を噛み潰したような顔でいた。長く同じ仕事に携わっているからか女将も心境が通じるらしく、同様に苦渋の表情を浮かべる。
「車で飛ばしても麓から2時間は掛るからねぇ…」
「それじゃあじっくり推理をする程時間は無いようね。じゃあ女将さん、入ってもよろしいですね」
さっさと部屋を検分したい杉倉は答えを聞く前から既に玄関のドアノブに手を掛けている。すると、老番頭が口をフガフガさせて杉倉を引きとめた。
「あいや、お嬢さん。ちょっと待っててけろ。今、仏さんの知り合いとかいう人が部屋におるんよ。手ェ合わせてやりたいんだと」
杉倉と里見が驚いて互いを見やった。
「事件現場に人を入れちゃ駄目でしょう!?」
と、杉倉が己らのしようとしていることを棚に上げて言う。番頭は自分が何か大変な間違いを犯してしまった思って、慌てて深く頭を下げだした。
「ま、まあまあ落ち着いて、ね? 取りあえず部屋を見てこようよ。その人が部屋を出ない限りはまだ大丈夫だから。お爺ちゃんも、頭を上げてください~」
里見があたふたと間を取り持つ。彼女もたまにこういった面倒な役回りに追われることもある。哀れな老番頭を弾劾しようとする杉倉を引きとどめて、里見はドアを開けた。杉倉も我に返って、何故自分が怒られているのかも分からず恐々としている老番頭に「すいません、カッとしてしまいました」と頭を下げた。
堀内夫妻の部屋の西窓は開け放たれたままだったので、山を下って来るであろう冬将軍の息吹が微かに感じられた。その風が障子の穴から抜け出して来たのか、冷え切った玄関にまで正成氏の血の臭いが沈んでいる。もうすぐ正午になるが、人里離れた山入りの桃源郷というだけあって警察の到着は未だ先のことであった。
靴置き場にはスリッパが二組だけ残されていた。一つは堀内氏、もう一つは今部屋に居る謎の人物のものか。その『堀内氏の知人と名乗る人物』が閉めたのだろう、玄関と居間を仕切る障子はピッタリと閉めきられていた。御用改めである、と声高に叫んで部屋へ乱入しそうな杉倉を押しとどめて里見は例の障子の穴を右目で覗きこんでいた。
「杉ちゃん杉ちゃん、ここから丸々見えるよ」
杉倉は里見の頭に顔を寄せる。
「誰が、何してるか分かる?」
「今ね、中年の男の人が財布にお金を入れ替えてる…。一万円札を、一枚、二枚、三枚、四枚。あっ、今度はお金を入れた方の財布から何か抜き出した」
癖毛の強い男の後ろ姿は、昨日の里見らと同じ浴衣姿である。どうやらこの男も旅客であるらしかった。里見が小声で部屋の中の様子を実況していると、男が気配を察したのか不意に踵を返して振り向いた。ここでようやく障子の穴から見られていたことに気付き「うわわわ」と慌てて二つの財布を畳に落とした。
「な、何見てるんだ! シッシッ!」
里見は「きゃ。ばれた」と言って慌てて顔を離した。その後ろで聞き耳を立てていた杉倉の顎を、里見の頭が強打する。
「うべ」
杉倉が美女らしからぬ声を上げて目頭に涙を滲ませる。一方里見はそれに気付かないのか「うう、窓の風で目が痛かったよ」と赤い右目をゴシゴシ擦っていた。杉倉は里見の余りに鈍感なリアクションに驚きながらも、緊張に心臓を高鳴らせた。死体の前で紙幣を弄ぶ人間がそばに居て、それを警戒しない筈も無いのは当然である。
杉倉は後悔していた。殺人を犯したかもしれない不審人物が部屋に居るのを知っていて、武器も持たずに女二人たった一つの出入り口に立っているのである。土産屋で買った木刀があれば、などと思ったりしていると、ガラリと不作法に障子が開いて、中から早足で男が出てきた。二人の脇を通り過ぎ、そしてそのまま廊下へ出ようとする。とっさに豪胆な杉倉が男の前に立ちはだかった。その手には、むんずと靴べらが握られている。これが武装状態であるのかは謎である。
「ま、待ちなさい!! 中で何をしてたか、白状してもらうわ。証拠隠滅は二年以下の懲役又は二十万円以下の罰金が科せられるわよ。このまま強引に逃げるんだったら、警察が来たとき、私たちはあなたにとって決して有利ではない証言をせざるを得ないから覚悟しておくことね!」
「ま、まあまあ、お嬢さん。そう靴べらを構えずに、なに疑う事はない。単なる野暮用でね。僕ァただ契約金を返しに来ただけなのだよ」
引き止められた時は不安そうな顔をしたが、口を開けばただ決まり悪そうに、大仰な身振り手振りを交えて砕けた口調で男は釈明し始めた。言葉は滑らかであるが、それ故に胡散臭い響きがある。
「契約金?」
杉倉が疑い深そうな目で見ながら復唱する。男は懐から財布を取り出した。財布には千円札が1枚入っているだけの寂しいものである。これでは宿泊代もままならない。里見がさっきみた紙幣の移動は、どうやら男が正成氏の財布から紙幣を抜き取ったのではなく、男自身の財布から正成氏の財布へ紙幣を移していたようであった。男は空に近い財布から、名刺を取り出す。
「『あなたの人生、小説にします。小説屋 悲佐田 幎』 何これ、胡散臭いったらありゃしないわね」
「それを言うなら今のIT企業社長やハイパーマルチクリエーターとやらの方がよっぽど胡散臭いだろう。…まあ、哀れなる凡才の君らには分からんだろうが、これは人の心のニッチ産業を巧みに捕えた革新的事業であるのだよ」
障子の穴から抜けた風が侘しい音を立てて通って行く。
「…人は自分の存在を残す為に生きる。これもひとつの自然的欲求さ。だがね、考えてみたまえよ。自分が死んだら、一体誰が自分が世界に居たことを証明してくれるだろう? 家族があったとしても、存在を記憶しているのはせいぜい2,3世代までくらいのものさ。そこからは誰も、たかが一般人のことなど思い出さない。だから人はせめても不動の石に名前を彫って自分の名をこの世に残す。所謂、墓石さ。もうちょっと偉大な人はデカイ墓をつくる。より深く、世界の記憶に残る為にだね。――そこで、だ。僕ァ考えた。どんなにちっぽけな人にも必ず唯一無二の人生がある。まさにプライスレス。それを忠実に、精巧に文章でこの世に保存出来たら、どれほど良いか。子供も、墓も必要無い。その物語の中心に自分が生き続けられるんだ。ここで僕の出番さ。第3回新思想文芸賞新人賞を取った、写実的自然主義文学のホープ、非常に巧みで優雅な表現に定評のあるこの僕が、あなたの存在を代筆してあげると言っているんだ。もう少ししたら、きっと評判が評判を呼び、暮石自伝ブームが到来するぞ。そのうちこれは小説葬と呼ばれて、世界中から僕に依頼が殺到するだろう。ふっふふふ、今ねだればサインをくれてやらないこともない。一筆で千…、二千円だ。将来的にはその5倍の値が付くこと請け合いだな」
悲佐田は雑然と髭の生えた顎を指でなぞり、不敵に笑う。しかしその身に染みつく小物臭さは拭えない。無論彼の言葉は二人の女学生の心に届くことは無く、ただ無闇にその鼓膜を揺らしただけのようだった。里見は内容を理解し得ない、むしろその努力すら放棄しいるようで愛想の良い笑みを浮かべたまま別の妄想に耽っている。杉倉もそもそも話を聞く義務を放棄しているらしく腕組みした右手がパラパラ遊んでいる。さっさと推理に入りたいのだ。
「……あ、終わった? はいはい。ご高説ありがとう御座いました。革新的なニッチ産業、ねぇ…。さぞかし儲かってるんでしょうねぇ。(ここで悲佐田、引き攣った笑みを浮かべる)まあそんなこと、正直どうでもいいですから、ここで悲佐田さんがしていたことを、詳しく自供して下さい」
杉倉は未だ疑り深そうな目で悲佐田という男を見ている。悲佐田は高飛車で高圧的な杉倉と目を合わせるのが怖いのか、屈託の無い笑みを浮かべる里見の方ばかりを見て喋りはじめた。
「君らの僕の事業に対しての認識が気に障るが、この際不問にしておこう。僕は感銘広大な心の持ち主だからね。――だからこそ正直に言おう。先も言ったがここで僕がしていたことは、なに大したことじゃない。依頼の前金を返しただけだ。彼が自身の物語を語る前に死んでしまったんじゃ、僕ァ仕事を引き受けられないから。……それに彼が死んでいて、僕が彼の金と名刺を持っていたら警察に怪しまれるだろう」
悲佐田は一番核心に触れる最後をボソボソ言って「これでもういいだろう」と大手を振って部屋から出ようとする。すかさず杉倉の手が伸びた。
「うわ、帯を掴むとは女の癖に破廉恥な! は、離せっ」
悲佐田が抵抗するも、杉倉の腕は万力のように帯を掴んで離さない。
「最後の、それを証拠隠滅っていうのよ! 自分で、警察に怪しまれたくないとか言ってるし! 名刺の回収とお金の工作。ふうん、なるほどね…」
杉倉が財布の中身に目を向ける。小銭入れが寂しげにチャラチャラ音を鳴らす。
「宿代、金銭に困った住所不定無職がたまたま知り合った老人を自殺に見せかけ殺害、金を奪う。下らない動機だけど悲しいことに、今の世の中珍しい話じゃないわね。さ、悲佐田。罪を償ってもう一度、一からやり直しなさい」
「ままま待ちたまえ、その判断は軽率かつ愚直だ! 確かに旅費には困っていたが、盗みを働くほど人間堕ちてはいないし、現に今さっき金は返したろう! 奪った金を返す強盗が何処に居る!? それに住所不定無職ではない、ちゃんと事務所も構えているし、第一、無職じゃなくて『小説屋』だと名刺に書いてある筈だ悪意を持って読み飛ばしてくれるな」
「はいはい、詳しい話は怖い警官と優しい警官が署で代わる代わる聞いてくれると思います」
「いやだいやだ、僕は無実だ! これは国家権力の横暴だ! 陰謀だ!」
取り乱した悲佐田が暴れると、杉倉の掴んだ帯が解けて浴衣がハラリと脱げた。里見がパッと目を覆う。
「ほーら言わんこっちゃない。この『淫乱娘』が!」
「さ、さっさと前を隠しなさいよ! と言うかそれ、あんた、ひょっとしなくても私達の隣部屋の変態傍聴男ねッ!? 忌々しい! 覚悟なさいよ、懲役をたっぷり増やしてやるわ!」
言葉選びと悲佐田の声色から、昨日の夜に怒鳴りつけてきた傍聴男と同一人物であると見抜いた杉倉が冷たく鋭い眼差しで、悲佐田を威嚇する。すると悲佐田は「ならば、うぬらはもしかしなくても昨日の同性愛者の淫乱娘共か。バビロンの娘、ソドムの娘め」と少しばかり気高い怒気を含んで威勢良く言ったのだが、杉倉と目が合うと言葉の尊大さの割に急に態度はしおらしくなった。確かに、ノーメイク・ノーライフの杉倉が上目使いに睨むと雪女も汗をかいて逃げ去るくらいの恐ろしさがある。
「ま、全く『変態傍聴男』とは、人聞きの悪い。あれは昨日君らが無闇矢鱈に空気へ振動を与えたから、音声情報が第三者に漏えいしたのだ。聞かれたくないなら今後はモールス信号で談笑したまえ。ましてや、僕は昨日の話声を聞きたくて聞いた訳じゃない。神経があって五感が感じるのは僕の意思に左右されないからね。自然状態を悪と規定するなら君はきっと偽善者に違いあるまい。うむ、軽蔑に値するよ君は」
ほぼ初見の年下女性を偽善者呼ばわり、ましてや同性愛者扱いした悲佐田に、杉倉は女性らしからぬ声で「あぁん?」と凄味を効かせた。屁理屈を捏ねていた罵っていた悲佐田は途端に辟易して「た、確かに僕は一人の男として乙女の会話を傍受してしまうということは避けるべきであったと思う。それに関しては遺憾の意を表明しよう。だから起訴するのは考え直して下さい…」としどろもどろに答えた。
「なんか全然謝ってるように聞こえないね。大人って汚いね」
里見が得心の行かぬ様な口調で言う。それで杉倉がまた悲佐田を睨むと、この中年男はサッと視点を大宇宙へと放擲し小粋な口笛を紡ぎ出した。
「呆れたわ。こんな絵に描いたような下衆野郎、歴舎さん以来で久々に見た」
「君、初見の年上に対して酷い言い草じゃないか。『歴舎さん』が誰かは知らんが、同情しよう。ああ、振る舞いも淑やかな大和撫子はその生態の弱々しさから絶滅してしまったのか…。嘆かわしき事この上なしだ」
「勝手に嘆いてなさいな、そんなんだから女に相手にされないのよ」
「確かにそれは真実に違いない。しかし相手にされないのではない、相手にしないのだ。故に君の助言も余計なお世話なのだよ杉倉くん。君らの様な小娘に色恋沙汰の手ほどきを乞う僕ではない」
悲佐田が忌々しそうに吐き捨てる。しかしそれから急に、年相応の大人びた表情が悲佐田の顔に現れた。
「……時に、君たちはここで何をしている? 事件現場だぞ、立ち入り禁止だぞ。探偵ごっこなら辞めたまえ、君らももういい歳じゃあないか。興味本位で下手に事件を嗅ぎまわって、君らは否定するだろうがまるで娯楽感覚だ。夏目漱石は探偵業を嫌っていたね。君らを見ていればその理由が分かるというものさ。…事件があれば悲しむ人もいる。だが君らは沈痛そうな仮面を被って、その実嬉々としているのだろう? 証拠はどうだ、犯人は誰だなんて目を輝かせ、まるで知能ゲームを楽しんでるようだ。その点、悪人より質が悪い。他人を傷つけるかも知れないという配慮も疎かに。行為を自己正当化するのは、犯罪者か? 善良な市民とやらなのかい? それはどちらも否、両者の間に垣根はないのさ。唯一の違いは犯罪者の方が過ちを反省するってことだ」
「……うぅ」
里見は険悪なムードになった途端にオロオロするばかりで、杉倉と悲佐田の間で手を上げたり下げたり繰り返している。
「…詭弁ね。どうあっても事件は解決されるべきもの。警察の職務であろうが素人の知能ゲームであろうと、よ。傍から見れば興味や娯楽に過ぎないだろう、なんて有識者ぶって事実を見極める目を向けようとしないことの方が質が悪いわよ。それから、……私は人を傷つける覚悟くらい持っている積りよ。いえ、持っていなくては駄目なのよ。人と繋がることは慰め合うことでもあるし、傷つけあう事でもある。あなたはそれが出来ない、ただの臆病ものよ。自分の臆病を、他人を傷つけたくないなんて云う綺麗事でもって自己正当化してるのは、あなたの方でしょう?」
「…ふん、傲慢な小娘だ。勝手にするがいいさ。探偵小説の主人公を決めこんでいるらしいが、現実はそう簡単にいかないぞ。きっと最後に、手痛いしっぺ返しを喰らうさ」
悲佐田は杉倉と里見を脅すように、指を差して預言めいた言葉で言う。に対して、杉倉は神々しいまでに冷徹にこう返す。
「誰も傷つけないで得られる成果なんてありえないわ」
「はん、どこまで行っても可愛げのない娘。それだから男が寄って来ないんだ」
「まったく余計なお世話! まったく!!」
「へぇ、そう。男はいらないんだ」
「このッ…変態! 鼻の下伸ばして、また頭の中で卑猥な妄想してるわね? 言っとくけどそっちの趣味は無いから、私と裕香を交互に見るのはやめて。やめなさい。やめろ。――これが最後の忠告よ。や め ろ…!」
「わ、分かった分かった。じょ、冗談だ…。殺さないでくれ」
「――ホントに分かったんでしょうね?」
「ああ、ああ」
「じゃあ、これから尋問するから、正直に答えて下さい。嘘を付けば問答無用で警察に突き出しますから」
「なら仕方ない。なんなりと答えてやる」
「では、一つ。レズビアンに興味がある」
「Yes! oh,Yes!!」
「――有罪。死刑よ」
「ま、まま待ってくれ正直に答えたろうが! そりゃカミュもびっくりの不条理だ」
「変態はそれだけで罪なのよ」
「冷酷な機械人間め、内心の自由くらい認めろ…!」
「改心するなら話は別ってことにしてあげるわ」
「分かった。改心する。レズなんてもうどうでもいい。僕ァ真理を探究する高潔な文学者だ」
「高潔な文学者ねえ…」
「そして、世の為人の為小説を書き、鋭敏な感覚で世界へアンチテーゼを投げかけ、その後ノーベル文学賞を受賞する。各界を騒がす文学界の巨匠 悲佐田 幎、とは僕のことである」
「――しかし、氏は女性同士の関係に性的興奮を感じていた」
「Yes! oh,Yes!!」
悲佐田はその後、赤く腫れあがる頬を押さえながら里見による質問に淡々と答えてた。何かと言い渋って尋問ははかどらないだろうと予想していた杉倉は当てが外れて、肩透かしを食らったような思いになった。
「つまり昨日、温泉に入浴中、偶然に堀内正成さんと知り合い、例の自伝? のビジネスの話に持って行ったということ、ですよね?」
「『ビジネスの話に持って行った』では僕が商売にがめつい男と思われる。『人間の存在意義について話し合った』と訂正を要求する」
「はいはい。…で、今日の朝9時40分ごろにまた、温泉から菊の間へ戻る途中の堀内正成さんに会った。それで一緒に部屋へ行って、契約金や名刺の交換をしたんですね。この時、五十子さんは居たんですか?」
「ずっと温泉に浸かっていたようで、今日は会わなかったさ。堀内さんは部屋に戻ってから、日本酒を飲んでいたよ。僕にも勧めて来たんだが、生憎僕ァ下戸だから断った。55分ごろに部屋を出て、朝食を食べに宴会場へ行ったよ。そしてあの騒ぎが起こって、従業員やらの口を伝って堀内さんが死んだのを聞いたのだ」
「従業員の人がその時刻に菊の間から出て来る悲佐田さんを見てるから、この点で彼に嘘は無いわね」
他の人間からも聴き取り調査してきた杉倉が里見に助言する。
「じゃあ五十子さんが死体を見つかる10時2分頃までは私たちと同じく宴会場に居たということですね…」
悲佐田が狭い額に汗を滲ませ、むっつり頷く。里見は林檎のように赤い頬を訳も無く膨らまして「ふぅむ」と唸った。
「出血量が体中の血液の三分の一を失えば、人は死んでしまいます。血液の総量は体重の8%くらいだから、堀内さんの場合体重を60キログラムと仮定すると出血は1.6キログラム。リットルに直せば1.7リットルも血液が流れ出ないとこうはならないです。深く動脈を傷つけても、この量が流れきるには時間がかかるんです。…みなまに言っちゃいますと、時間的に悲佐田さんが堀内さんの部屋を出る少し前に手首を切っていれば、堀内さんの死亡時刻に矛盾は生まれないんです。悲佐田さんが出た後に堀内さんが手首を切っていれば、私たちが到着した時間でも、まだ彼の命は尽きていなかった筈なんです。つまり、貴方の出て行った後に犯行を行うのは不可能なんです」
「里見くんとやら、君は中々の博学だな。と、感心している場合じゃないよ! 君もやっぱり僕を疑ってるのかい? いや事実疑ってるんだろうね。だがね、僕が無理やり堀内さんの手首を切ったとして、なんら抵抗を受けたり返り血を浴びた痕跡が無い! 部屋や当事者、僕にだって少しも事件性を裏付ける証拠はないよ」
「その点は、これが悲佐田さんの主張を退けてしまいます」
そう言って里見が差しだした右手には、カプセル状の薬剤が転がっている。
「睡眠薬です。テーブルの隅に置いてありました。入っていた処方箋によるとこれは、堀内さんが鬱病で不眠症に陥っていた為に処方されたものだと思います。もし悲佐田さんが昨日の堀内さんとの会話によって睡眠薬の在り処を知っていれば、これを悪用して堀内さんを眠らせることができます。例えば、そのお酒に混ぜて堀内さんに飲ませたり、です。これで抵抗を受ける心配無く、あとは自分の証拠を残さぬよう細心の周囲を払えば…」
「た、確かにそれはそうだが、それでは事件の起因が偶然的で突発的過ぎやしないか」
「金に困っての強盗殺人なら場当たり的な犯行でも不思議は無いわよ。だからこそ、愚直にも正成さんを自殺したとように見せかける、軽率な手を使ったんでしょう?」
「く、だから僕ァ断じてそんな下劣な……まあ言っても信じないか。――し、しかし少し待ちたまえよ! いや、そうだ!! 死亡時刻について君らは重要なことを見逃している!!」
「重要なことですって?」
杉倉が仁王立ちしたまま、悲佐田に問い返す。
「ああそう、基本的なことだ。ここは温泉地なんだよ!」
「なんてこと全然気付かなかったわ! ここは温泉地ね!! ――それで?」
「冷やかしなさんな杉倉女史。真面目なことだ、僕の将来に関わる」
悲佐田は『僕の』という言葉を強調した。
「ったく、何を言い出すのかと思えば…」
「もう一度言うぞ、ここは温泉地だ。温泉地には無論、何がある」
「――そう! そうだ、温泉、温泉だよう! ここにだけじゃあ無くても、一般的な温泉の効用は…」
杉倉と悲佐田がにらみ合う最中、不意に思い立ったらしく顔をあげた。
「肩こり、リウマチ、『血行促進』…」
「いやあ最高の推理だ! 君、結婚しよう!! …え、嫌? じょ、冗談で言っただけだ。そんな、千切れる程首を横に振らなくてもいいじゃないか。――と、とにかく、名探偵里見ちゃんの言う通りさ」
腕組みしたまま仏頂面の杉倉を脇目に、里見は頬を紅潮させている。
「堀内さんの血管は温泉に浸かったことで拡張していた…。そこへお酒でもって血流が早まる、ってこと」
「つまり、出血速度が速まった所での出血の結果、異常なほど短時間で死に至ったということかしら」
すると悲佐田は急に無罪を勝ち取ったような晴れやかな表情になって、杉倉に無言の笑みを投げかける。に対し杉倉はキッと睨み返したので悲佐田は「うわ、怖い」と不真面目そうに真面目に怖がった。
「ただ…。それはあくまで可能性だよ。堀内さんが死亡した時間の振り幅が少しだけ延長されただけで、悲佐田さんが堀内さんの死に関わっていないということにはならないの。ただ、悲佐田さん以外にも犯行は可能、ということが確認できただけなのです。だから、第一容疑者は今のところ悲佐田さんでダントツです」
里見の冷静な意見に、悲佐田は冷や水を浴びせられたような顔をした。
「最後に、質問です。部屋を出るとき居間と玄関の仕切りにある障子に穴は開いていましたか?」
「覚えてないが、もし穴が空いてたらその時に気付いていただろうよ。取っ手と同じ位の高さにあったから、さっき障子に手をやった時に、おやっと思ったよ」
「ふ~ん、分かりました。取りあえず訊きたい事はこれくらいかなぁ」
「じゃあさっさと行きましょう、こんな男と居たら裕香が穢れちゃうわ。悲佐田さん、ゴキョーリョクカンシャシマス。もう出番は無いので部屋で大人しくしていてください」
「こ、コラ! もっと僕に謝意を表明したまえ! そんなカタコトが最低限文化的な礼儀と言えるものかぁッ!?」
悲佐田は肩を落として「まったく、最近の女は品が無い」とぼやいた。それから、旅費を払う術がない事を思い出して「あァ、吐きそうだ」と神経性の胃痛に顔を歪めた。




