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第一節

『――名探偵さえ居なければ、事件なんて起こらないのにね』


思わせぶりな、(つたな)い溜息


寒気に白らむ吐息が見たいか


子供じみた少女は事も無げにそう云ったのだ


それなのに。澄んだ瞳には寂しい秋色が(にじ)み渦巻く


あるいは『拙い』のはその生き方か


知ってるようでいて知り得ぬ場所に、少女は立った


嗚呼、もうすぐ冬かしら


――ただそう思う秋の待宵






 遊び盛りの大学生らしい雰囲気の若い女性の旅客が二人。朗らかに茹で上がった体を秋風が通り過ぎていく。河の畔の露店風呂から戻る吹きさらしの回廊には鮮やかな紅葉が影を射していた。その影の下を二人は歩いている。透き通るほど白い湯上りの肌を紺の浴衣へ忍ばせ、悠々と歩く様は優雅な尾をなびかせ泳ぐ金魚のようである。やがて回廊は旅館の本館入り口に途切れて、二人はその中へと入っていった。

木目調の続く背景に縁取られた、浴衣を羽織った体の柔らかな曲線は笑い声と共に時々変化する。それでも書き直された曲線の優美さは損なわれることが無い。初々しいうなじの通り過ぎた後には、屈託の無いかすかな甘い香りが閑散とした長い廊下に尾を引き漂う。古い旅館は夕立の後のようなやんわりとした静けさを内に宿し、たまに廊下を出歩く旅客や従業員の気配も濃い朝霧の中に包み込んでしまうようであった。急こう配な、焼き杉の階段を上り2階の廊下へ出て、左右に伸びる廊下を右に進む。突き当たりに、彼女らの部屋があった。

『梅の間』と彫り込まれた表札をくぐり、玄関にスリッパを脱ぎ去った。その後から入って来た長身の女性旅客がそのスリッパを丁寧に並べ直す。湯上りの裸足が床にひたひたと張り付いて、そこに小さな足形が薄く曇ってすぐに消える。我先にと犬が駆けだすように、まっしぐらに行き玄関と和室を仕切る障子を開けると、まず畳の沈んだ薫りが光景よりも先んじた。秋空高くの太陽に燻され、咽返るようなあの独特な草の匂いである。思わず床へ寝転がり薫りを楽しみながら、永遠指先で畳の目をなぞっていたくなる衝動もひとしおに、次に飛び込んでくるのは向かいの窓の奥で淡く燃える紅葉である。赤は紅葉、黄は銀杏と色彩も華やいでいる。向かいの山の中腹にある銀杏の木のどれかから飛び立った雲雀が、声だけになっても空を飛び続けていた。


 ふわふわした淡い栗色の総髪を右へ流した、背の低い方の娘が「うわあ、良いお部屋~」と居間の中央に置かれているテーブルの周りを興奮した様子で徘徊しだした。特に何かしようと言う訳ではないらしいが、旅情にそそられてジッとしていられないようだ。その姿はさながら餌を探して森を駆けまわる、鈍臭い栗鼠のようである。背の低い割に肉付きのよい胸が一見彼女をずんぐりした体形に見せかけるが、実際にはその下、ウエストから足の先まで華奢な細い線が続いている。体のラインを出せば女性からも羨望の眼で見られるべき体型である…筈なのだが、彼女は自分の姿形が浮き出すような恰好を好まないらしい。今日着ているこの浴衣も、彼女の倫理観に照らせば限界ギリギリの所であるらしく、頻繁に豊満な胸のはだけそうな浴衣の襟を正していた。


をかし(・・・)があるよねぇ…」


しみじみと呟く栗鼠は窓の外に広がる景色を見ている。そこへ、景色になど毛ほども関心なさそうな機械的にさえ思える声が、ウロウロ彷徨う栗鼠の丸っこい背中を軽く突いた。


「え。お菓子(・・・)なんて何処にあるのよ?」


声の主は、おおよそ栗鼠のような小動物系の人間とは対象の位置にいる『種』らしかった。彼女(・・)は、玄関と居間を仕切る障子をぴしゃりと閉めきり、畳を猫のような足取りで優雅に蹂躙した。

背の高く、艶やかな黒の長髪を蹴鞠程に丸く束ねて後頭部に背負いこんだ、飄々とした風貌。雑誌のモデルと言って差し支えの無い程、ほっそりしたくびれから淑やかな尻、艶めかしい腿、スラリと長い脚を安楽椅子へ落す。動物で言えば、『豹』と例えると彼女をイメージしやすいのかも知れない。彼女は居間と西窓を挟んで存在する四畳ほどの広縁の、小さなテーブルと小さな古い冷蔵庫、そして二脚の安楽椅子のある整然としたスペースを早くも己の牙城とし、先に部屋に運んでおいてもらっていた自分の荷物を確認していた。と言うのも、二人はまず真っ先に温泉に浸かって来ていた。旅の疲れを汲んだ女将の好意のお陰である。さらに気をまわして脱衣場に浴衣まで用意してくれたからには、着替えて戻らない手は無かった。それが、ここまでの話の顛末である。


話は戻り、『をかし』と『お菓子』を間違える、そんな椅子の上の主を、なんとも恐れ知らずの栗鼠が指差し笑った。


「あはは、『お菓子』じゃないよう。杉ちゃんは可笑しい(・・・・)こと仰るね~。枕草子の『秋は、夕暮。なんたらかんたら、いとをかし。』の、「をかし」だよぅ。それを『お菓子』だなんて、杉ちゃんってば食いしん坊屋さんなんだから」


そう言って、道化者の栗鼠はお気楽な声を弾ませる。『杉ちゃん』と呼ばれた女豹、もといその女性旅客は眉をハの字に曲げて軽く溜息をついた。「をかし」と言わずに「風情ある」と素直に言えば良いものを、と。それは全く正論である。そもそもこんな古典語を使わなければ起こらない誤謬である。非があるとするならばそれは栗鼠の方である。

正直に言えば、『杉ちゃん』なる人物は余り回りくどい物言いを好まなかった。ただ、どうしてか彼女の周りには千変万化に言葉を弄す奇人変人ばかり集まるのである。いや、こうも考えられた。言葉を巧みに弄せる者でなければ、かの女王の相手は勤まらない。だから結果的に彼女の周りに残るのが詭弁家ばかりなである、と。


「ちっちっち」


女王なる『杉ちゃん』の浮かべる不満げな表情だけで、彼女の言わんとする不服を読みとったように、栗鼠もとい背の小さい方の女子大学生は、相棒を煙に巻くホームズばりに軽快な調子で舌を鳴らした。言うまでもなく、彼女も一方(ひとかた)ならぬ詭弁家である。さらに輪を掛け悪い事に、持ち前の天然自然な性格ゆえ自分の詭弁に気付かない。これは案外、深刻な問題であるが、今はそれを置いておき「をかし」の話である。彼女曰く、「風情がある」とそのまま言っていしまえば会話の雰囲気は壊れて野暮になり、当の会話の中に「をかし」が無くなってしまうのだそうである。「詰まりそれはね、『をかしによる、をかしの為の、をかし。』なんだよぉ」だそうである。…問答が無限回廊へ墜落しそうになっているのを察すると『杉ちゃん』は時間の浪費を避けるため不承不承それ以上追及するのをやめた。対詭弁家戦略として『スルーからの放置』は定石である。彼らの言葉遊びに付き合っていてはキリが無くなる。こう言った所『杉ちゃん』は、流石に長きに渡り言葉を弄ぶ輩を相手にしてだけのことはあるようだった。





 太平洋を臨むリアス式海岸線の道に沿って市営バスに揺られるとやがて道は混然とした山々の連なる内陸へと逸れて行く。山間の古臭い暗いトンネルを幾つか過ぎると、潮風の磯臭さは次第に抜けていく。代わりに空気は森閑とした森の大気で充満する。半円状の急なカーブが左折、右折を繰り返し、最後にもう一回山沿いを左折する。――と、突如として眼下紅葉に煌めく山の渓谷で、ひっそりと煙を吐き出す煙突と群青色の瓦屋根の連なりが出現するのである。冒頭二人の女子大生が訪れていた、詰まる所この物語の舞台となる宿は『鳥羽温泉郷』の中でも筆頭格の古参温泉宿である。40年ひっそりと続く老舗旅館でもありながら、過酷な環境下に生きる大学生達の軽い財布から絞り出せる程度の金額でも、中々良い按配に古臭く風情のある10畳ほどの部屋へ泊ることが出来る。少々設備が時代から取り残されている感があるものの、他方では時代変わらず名湯と知られた此処の温泉は浸かり放題、まさに源泉垂れ流しの状態である。なにより彼女らが気に入ったのは、部屋の西の大窓からは壮大に連なる蒼い山脈とそれを彩る紅葉とが十二分に眺望できる点であった。二人は広縁の小さなテーブルを隔て二脚置いてある安楽椅子にそれぞれ腰かけ時間が過ぎるのも忘れ、マッチの明かり程の朱が差した頬をあっちへ向けこっちへ向け、何か見つける度に目を輝かせた。結局のところ『杉ちゃん』もこの雄大な景色に満更でもない感慨を抱いているようである。

気付いた頃には既に形も思い出せない。そんな秋の薄雲は、遥かな宇宙の暗い青を背景にして、空に飲み込まれ消えてゆく。


 さて冒頭「をかし」の話から、テーブルを挟んで交わされる会話が転びに転んで中世日本における女性の幸福論までに発展し、その話題もようやく尽きかけた頃である。どういう訳か話の経緯はまったく謎であるのだが、二人の内の背の低い小動物系の方、安房(あわ)大学法学部の二回生 里見 裕香(さとみ ゆうか)のふっくらした唇の間からお得意の逆説的暴論が飛び出した。


「名探偵が居なければ、事件なんて起きないのにね」


「……どういうこと? 凄く詭弁っぽく聞こえるんだけれど」


もう一人の方、同大学同学部の同回生 『杉ちゃん』こと杉倉 李袮(すぎくら りね)は里見の今言った言葉へ、まっとうな人間であれば抱かざるを得ない疑念を携えてこれに対面した。青年少女のあどけなさ残る新顔の大学一回生から、長らく社会へ出ることを拒否した古参の学院生までもが杉倉へ畏敬の念を込めて呼んだ『クールビューティー杉倉』なる尊称にまったく遜色の無い容姿を冷たく光らせ、スラリと長い四肢を腕組み足組み「詭弁だわ」と冷然と言ってのける。親友に対しても辛辣な言葉にオブラートを被せようとも試みない彼女である。良薬口に苦しとも云うが、彼女の言葉はまさしく劇薬であり、平時の服用にはかなりの覚悟が必要である。だが、その杉倉に言われてもなお、いつ何時でも平然としている里見もやはり尋常ならざる人物であった。里見はいつも、この杉倉に付いて回っている。


「詭弁じゃあないよう」


杉倉の苦言に里見は猛然と、と言うにはやや勢いに欠ける語調で反論する。むしろ「いい湯だなぁ」とかに台詞を変えれば語調としてはピッタリである。そんな語気のまま里見は続ける。


「だって、もし地球に人が二人しか居なくなって、その内の一人がもう一人を殺しちゃったら事件は成立する?」


「事件は事件だわ。他の誰かが騒がなくても事件は起こったとしか言えないわよ」


「じゃあ今度は、地球に国、法律が無くなったとしたら、事件は起こるかなあ?」


「国の法律が無くなったって、事件は事件だわ。基準が無くったって、殺人は殺人よ」


「じゃあ加害者が事件を、殺人事件を起こしたって自覚が無かったら? 不慮の事態、みたいなことで」


「被害者がいれば事件よ!」


身を乗り出して杉倉が言った為に安楽椅子は振り子のように揺れた。


「でも被害者さんは死んじゃってるんだよ。死んじゃえばもう喋れないし伝えられない、自分が被害者さんなのかすらも考えられないよ。そしたら誰が、事件を見つけ出すの?」


「……」


杉倉は黙り込むしかなかった。もし「被害者も加害者も、それを認識するのが私達、生きてる人間でしょ」なんて言ってしまえば、里見が「ほら、私達、つまり第三者の名探偵が居なければ、事件は起きないのよ」と返してくるであろうことが分かっているからである。ましてや「神様がゼンブお見通しよ」等とは言えない。杉倉はどうにも釈然としないまま、「お腹減った」とぶっきら棒にぼやいて茶を濁した。


「うん、そうだねぇ。晩御飯楽しみだよ~」


里見は執着しない。これほど勝利を目前にした議論でも途中で中断されたことになんら憤慨も示さなかった。彼女はまるで春霞に浮く風船のようにフワフワしていて、だけれども風船の紐はしっかり大地に留められている。里見裕香はそんな人間だった。だから杉倉も、到底気の合いそうに無い里見を憎めずにいた。どころか里見には尊敬に近い念すら覚えているのである。最も、そんな気配は微塵も出す積りの無い杉倉ではあるが。


「裕香、晩御飯まで時間あるし、ちょっと外に出て散歩しよっか。サークルの皆にお土産買わなきゃいけないし」


「うん、いいともぅ~」




 何を考えているやら得体の知れない里見よりか、まだ頑固者でプライドの高い杉倉の方が親しみやすい人格かもしれない。二人を知る人物はこう総評を下す。だがしかし、付き合えば付き合う程その面白みを増すのが里見であるのもまた周知の事実であった。例えるならそれは未知の生態を持つ生き物を観察する生物学者が抱く興味に似ている。そしてその内、観察対象に尋常ならざる愛着を抱くことになる学者が多いという流れに到るのも同様である。

里見はサークルのゆる系キャラマスコットとして新人勧誘時にはその実力を滞りなく発揮する。釣られてくるのは老若男女の有象無象。里見裕香、これまさに万有引力の化身なり、と一部の者からは奇異と愛玩の眼差しでもって愛でられている。特にこの杉倉なる女性は推理小説愛好サークル、通称『D坂の喫茶』にて同じ新入生として来ていた里見女史と出会い、それからというもの底なし沼にはまるかの如く、見る見る間に彼女との関係は深くなった由縁がある。仮面のような杉倉の表情も里見と居るときは、豆腐のように柔らかくなる。だがこう指摘すると杉倉は必ず怒る。杉倉曰く、里見は「チョコマシュマロに似た魔物」であるという。それでも付き合いは2年目にもつれ込み、この3泊4日の温泉旅行に到るのである。先の『事件の定義』についても、二人がこうしたサークルに身を置いているから話題に上がったものなのだろう。





 杉倉は里見を連れだって、石畳の敷き詰められた緩い坂を沿って広がる温泉郷を散策していった。目に鮮やかな落ち葉の色彩が眩しい。空高く鳶の鳴く声が聞こえた、気がした。ここが温泉郷といっても、数軒の旅館と土産屋が山麓の隙間を縫って営業しているようなもので、二人が一帯を見て回るのにも、さほど時間は掛らなかった。帰り道に、お土産を雑然と並べた商店の細い展覧スペースに無理やり二人分の体をねじ込んで、一つ一つ商品を手に取り笑い合った。商品こそが可笑しいものだったのか、それは分からない。

この世の春だと、キャンパスライフを謳歌する大学生を折り返し地点に手ぐすね引いて待ちかまえていると伝わる『就活』と呼ばれる恐ろしく億劫な現実を少しだけ先送りにしようと試みるように、彼女らはゆっくり歩いては立ち止るを繰り返しているのだろうか。否、夢は漠然としていなかった。杉倉の場合は。彼女は、自分に出来る事をするまでよ。と美しい二本脚で屹立して警察官になるのだと豪語する。訊けば彼女の家系はそろいもそろって警察一家であるらしい。何かしらアイデンティティの遺伝があるのかも知れない。一方で里見は、将来を見いだせていないようだった。推理小説愛好サークル随一の推理力を持ってしても、自らの将来を見出すのは簡単では無かったようである。

秋の日はつるべ落とし、と云うように山際には臙脂色の曲線が尾を引いて、太陽の名残が物惜しげに傾斜の街に影を差せしめた。


――紅葉が表裏を交互に見せて……川面に浮かぶ。そのまま温泉郷を南北に分ける渓流に乗って、秋色の艶やかな山間に消えるのだった。


大方店をまわって一抱えもあるお土産をこさえると、二人は長い坂をフウフウ言いながら登ってようやく旅館の玄関前まで辿りついた。この地域の特産とは言い難いような大量生産型の個性の無い土産饅頭と醤油煎餅の数々。杉倉は木刀を、里見は一つ一つに文字の刻まれた数珠のようなものを買っていた。

坂を登り詰めた先、ちょうど旅館の店先に熟年の夫婦と思しき旅行客が眼下に広がる温泉街を眺めているのが分かった。チェックインがまだ済んでいないのか、重そうなバッグが足元に置いてある。

するとその妻君の方が、荷物に埋もれながら歩いてきた二人に気付いて声をかけた。


「あらあら、すごい荷物ねえ。二人とも学生さん?」


「はぁい」「ええ」


里見と杉倉は同時に返事をし、荷物の山から顔を覗かせる。

小太りの細君はリュックに長ズボン、そしてスニーカーという温泉客とは思えないいでたちであり、またその夫の方も同様の恰好であった。里見が好奇の目で老夫婦を下から上へ見やるので、杉倉は「こら」と里見を小突く。すると細君がふっくらと笑顔を作って、少し申し訳なさそうに里見の疑問に答えた。


「ごめんなさいねぇ、こんな場違いな恰好で。家の人がどうしても山にも登りたいって言うから」


細君は、先ほどから一心に其処彼処の紅葉を眺めている夫へ非難の色を込めて言う。だがそれでも夫は温泉郷囲む景色からチラリとも目を移そうとはしなかった。目を奪われる、どころか魂までも奪われていそうな様子である。


「ここの山は綺麗ですもん。見惚れちゃうのも仕方ないことです」


杉倉はまるでこの老人の心を銀幕にして紅葉を見ているかの様に言ってのける。


「まあ綺麗なんだけどねぇ…」


細君の方はどうにも奥歯に物の挟まった言い方で渋々杉倉に同意する。綺麗だけどね、と表面上は肯定しただけに、その言葉は反って否定的な調子が強まった。


「新婚旅行で初めてここに来て、それからもう十何回目か知らねえ。流石に飽き飽きしてるのよ。でも困ったことにね、この人が旅行へ行こうなんて言い出す時は大抵ここしか来たがらないんですよ。あたしはもっと韓国とか大阪とかにも行きたいのにねぇ…」


「……五十子(イサラコ)。あの木は何処だったかな」


すると突然、夫が口を開いた。まるで話の流れなど気にする様子も無しに発せられた、突拍子もない質問である。老人は抑揚の無い穏やかな声に、何か倦怠感を漂わせる口調である。まるで今まで自分の妻になじられていたのを何一つ聞いていなかったかのように、そこに湧き起こる何かしらの感動も認知し得なかった。


「あなた。さっき山の中でも言いましたけど、あなたが一体どの木のことを言ってるのか分からないんですよ」


「そうか。…いや、あるいは見ない方が良いのかもしれんな」


たったそれだけポツリと言って、胡麻塩髭の侘しい老人はそぼそぼと歩いて旅館の玄関をくぐって行った。その間彼は一度も振り返ることは無かった。五十子と呼ばれた細君はそんな老人の背に冷淡な一瞥をくれてから、二人の女学生へ「あなたたちは楽しそうねぇ」と羨望と自虐を込めたような言葉を軽く投げかけた。何となく白けた女だけの一座で、杉倉のどうしようもなく作った笑顔が冷たい風に晒された。





「…ねえ裕香。『女心と秋の空』って云うじゃない」


 夕食後、杉倉はふとブラウン管に映る暗いテレビ画面を見ながら、里見に言った。里見は蒲団にすっぽりもぐってモゾモゾ動いている。


「春の天気は秋と似てるから、春の空も女心って言えるんじゃないかしら」


「ふぅうん?」


「それでもって、夏の空と冬の空は男心なのかもね」


里見が予期せぬ方向から蒲団を這い出し顔をにゅっと出す。しかし里見が予期できない人間だと予期している杉倉は彼女の行動に一々驚くことは無かった。

窓の外に広がる常闇に佇む山々の頂で、望月が薄雲の波を浴びる。山に疎らな影が蠢き、木々が微風にざわつく。しかし再び月が顔を出すと魑魅魍魎は紅葉の下に隠れ、世界にはぼんやりと重ね重ねに遠のく山々が浮かび上がるのである。目まぐるしい様でいて、ゆったりとした時の中に、階下からは囁く程の河のせせらぎが伝わってくる。

杉倉はテレビを消した。真っ黒の画面に、蒲団で各々の態勢にくつろいでいる二人の姿が映る。杉倉は長い脚をゆるく折り曲げ、胡坐と体育座りの中間くらいの態勢で缶ビールを煽っていた。


「杉ちゃんが言うならそうかも。あたしはよく人の心が分かって無いって言われてるから…。そういうのは、よく分かんないや。えへへ」


「ううん、私だってよくは分かってないわ。でも、そんな気がするのよ。…そんな気がする、だけよ」


杉倉はそう言いながら、堀内夫妻のことを思い返していた。先刻この旅館の玄関で会った、あの老夫婦のことである。

堀内 正成と五十子は二十歳の時に結ばれ、今年で結婚48年目になるのだという。堀内正成氏は或る大学の教授で現在もその職を続けているが、最近は鬱病からなる精神衰弱で講義を休むことが多く、医者からは何処か心休まる療養地で休暇をとるよう言われここに来たらしかった。元来規則正しい頑冥な人物であるようで、その為に人一倍心労も大きかったのかも知れない。

五十子夫人は生まれが裕福な華族の家系であった。しかし不景気の折に彼女の父親が手を出していた海外投資で失敗し、彼女が小学生のときに母親と二人、都会へ半ば逃げ出すように離婚してきたのだという。その街で偶然、当時大学生の正成氏と知り合い、絵に描いたような恋愛の末に結ばれたのだと五十子夫人は語った。目も霞むような暑い夏のことだった、という。


『一生の愛を誓う、ってのはよく聞くけど…実際にそうするのは難しいものね。正成さんは今はどんな気持ちなのかしら』


杉倉は口に出さず、頭の中で言ってみる。


――ふと天井の四隅の影が揺らめいたかと思えば、いつの間にか部屋に入り込んだ蛾が電灯の周りで羽ばたいていたようだった。杉倉はこの痩せた蛾をしみじみとした気持ちで見ながら、里見に尋ねる。


「堀内さん夫婦のこと、どう思う?」


杉倉が缶ビールから唇を離し里見の答えを待つ。


「どう思う、かぁ…。う~ん、……何だか二人とも辛そう、かな? これ以上は一緒に居たくないっていう感じ。長く連れ添ってると、あんな風になっちゃうのかなァ~…」


杉倉は、「それは違う」と言いそうになってから、何が違うのかが言い表せられないのに気が付き口をつぐんだ。杉倉が黙り込んだので、里見は不思議そうに首を傾げている。


「…人の心なんて、見えるものじゃあないんだからこんな質問は無意味よね。それに、他人の気持ちを解釈するなんてお節介が過ぎてるわね…。変なこと聞いちゃったわ」


「ううん、無意味な疑問なんて無いと思うよ。私なんて、分からない事も分からないんだから。 ――だから、色んなことが分からない杉ちゃんは名探偵になる素質があるってことかもだよ!」


蒲団を跳ねのけて里見が杉倉をしげしげと見つめる。「な、何よ」と杉倉はあんまりにも里見が直視してくるので少し間が悪くなって、床の間の掛け軸やら活花に目線をめぐらせた。掛け軸には『雲外蒼天』と躍動感溢れる字で書いてある。


「そしたら杉ちゃんはねぇ~、美少女探偵 杉倉李袮の事件簿! だね」


――活けてあった金盞花の花弁が一枚、淑やかに散った。素朴な色調の和室の中で、この花だけは眩いばかりの黄色のアクセントでもって部屋の中に浮きあがっている。奇抜と言えば聞こえはいいが、場違いと言われると返す言葉も無い。そんな花はどこか里見に似ている。


「私はもう美少女っていう年でもないわよ」


杉倉は流石に呆れたように言い、そのまま開いた口にビールを流し込んだ。鶴のように細長い首に通る喉を、小気味の良い音を立てて冷えたビールが伝い落ちていく。


「――じゃあ元・美少女探偵 杉倉李袮ってのはいかがです社長?」


杉倉がむせる。『元』の一字は杉倉の琴線に触れる何かがあったらしい。


「虚しいわ…。それは余りに残酷な真実よ。せめて『美女探偵』にして。なんなら『探偵』の部分も取っていいから」


「う~ん。美女探偵かあ……語呂が悪いなぁ」


里見は不満そうに蒲団をバタバタさせた。薄暗い照明の中で埃が舞って空気は白っぽく濁る。


「語呂って…。里見はどんなのが語呂が良いっていうのよ」


呆れたように言ってから口端を半分だけ微笑ませて、言葉尻に挑発的な口調を滲ませる。すると里見は目をキラリと輝かせた。


「例えばね……『病弱探偵』『美幼女探偵』『囚人探偵』『元・探偵』とか」


「語呂はともかく、設定オチの探偵ばかりじゃない。最後に至ってはもう探偵じゃないし」


「じゃあ杉ちゃんはどんなのがいいのよ」


文句を垂れる杉倉に、里見は上目遣いで不満げに唇を尖らせ、頬をぷうっと膨らませた。彼女が拗ねた時は大抵こんな顔をする。その顔が余りにも子供じみているので、杉倉以下誰もが毒気を抜かれてしまう。


「ええ? ど、どんなのがって……」


「ほら~。早く、早く」


嬉々として待ちかまえる里見は子供っぽく急かしながらも少し意地悪い顔をしている。杉倉の頭の堅い事を知っていてわざと言っているようだった。


「無茶振りなんて卑怯よ!」


「えへへ~。だが問答無用ッ!」


「ま、待ちなさいな…! ええっと、たんてい、たんてい…。トンデンタンテイ、コウテイタンテイ…、ポンテンタンテン。ああ、不味いわねゲシュタルト崩壊してきた…。うう、ううんと…。探偵、タンテイ。どど、ど、どう、『童貞探偵』なんてのはどうかしら!?」


「……」


「うッ……!」


口当たりの良さを追求した結果、予期せずにして甘酸っぱいチェリー(・・・・)の香り漂うような卑猥単語をこの世に生み出してしまった杉倉が己の失態を悔やんで唇を噛んだ。里見は数秒間無言だったがやがて顔をポッと赤くした。知らんぷりをしているが意味については理解しているらしい。マシュマロの様な外見でも、中身は黒くてほろ苦いチョコレートが詰まっているのかもしれない。


「…ハア。意味不明だよ」


「出たわね、詭弁! ちゃあんと意味も分かってる癖に、このブリっ子淫乱娘が~ッ!」


己の失態を隠ぺいするため、杉倉が強引に結果論的猥談責任を里見へ押し付ける。里見もこればかりは嫌がって抵抗していたが、杉倉の怒濤のくすぐり波状攻撃よって最終防衛線は破られ呆気なく敗戦を喫して「うきゃきゃ」と息も絶え絶え悲鳴をあげた。

夜遅くに騒いだため、隣の部屋の旅客が「ええい五月蠅い、この淫乱娘共がッ!」と壁越しに怒鳴ってきた。真に最もなことである。ただし怒り心頭、真面目腐った声を装ってはいるが、杉倉の言った『淫乱娘』という単語を重ねてきている点、どうやら隣の旅行客の男は何らかの卑猥な妄想の元、二人の戯言や(くすぐ)り合う物音にしばらく聞き耳を立てていたらしい事も察せられた。杉倉は壁に向かってあかんべえ、と舌を出した。

この後からは隣の傍聴男に聞かれぬよう話し声を潜めて、普通の女子大生らしい恋の話、理想男性像放談、映画、音楽、芸能人ゴシップの話題に花を咲かせ、夜は滔々と更けていった。消費された缶ビールは計四本。いずれも杉倉の五臓六腑に沁み渡った。



――事件は翌日の明朝に起こる。







「裕香、醤油」


「裕香は醤油じゃないもん」


「…裕香、醤油とって」


「ん。」


 朝は機嫌の悪い里見と、二日酔いで機嫌の悪い杉倉は重たげな瞼を担いで朝を迎えた。チェックアウトは11時。寝坊して朝食前に入浴が出来なかったからにはチェックアウト前までに急いで朝餉を済ませて、温泉に浸かる時間を確保する必要があった。一階の宴会場に用意された朝食は湯気の立つご飯と味噌汁、焼き鮭とほうれん草の御浸し、黄金色の卵焼きと沢庵であった。簡素ではあるが素朴な味の中に季節の風味と奥深い旨みがある。旅館で食べている、という心理作用があるのかも知れない。二人は大いに満足して椀を尽く空けた。


ここで、二階へ続く階段の方から長くも無く短くも無い悲鳴が聴こえた。意味を成しているようでもあり、単に声を上げたようにも聞こえる、咄嗟には判断しかねる悲鳴であった。

その悲鳴の上がった二階は廊下の挟んで幾つもの部屋があり、里見・杉倉もその一室で夜を明かしている。朝食をとっていた数人の客、給仕の従業員達がその声に何事かと顔を見合わせている。するとまた、先ほどの悲鳴をあげたのと同一人物のものと思われる声が切羽詰まった調子で叫んでいる。


「だ、誰か来てッ!! 家の人が…、旦那が……」


刹那の沈黙と、次の瞬間に湧き上がる小さなどよめき。しかしそれはまだ、何かしらの事件の発生に半信半疑の域を出ていなかった。箸を置く人こそ半数はいたものの、座から腰を浮かせる者は疎らであった。

その中で、一人真っ先に二階へ向かおうとしていたのは杉倉であった。凛々しい目で前方をキッと見つめ、ツカツカと畳を踏みつけて行く。続いて遅れないよう里見がその後をトコトコ歩いてゆく。それからようやく、気後れしていた給仕の従業員やら男性の旅行客などがたどたどしく続いていった。


階段の踊り場には堀内五十子夫人が立ちつくしていた。右目が赤く潤んでいる。


「五十子さん、何が…?」


「お、お風呂に入って、部屋に戻ったら…家の人が……!」


堀内の細君、五十子はそれ以降を言うのに喉が閊えるのか、「家の人が」より先を言い表せないようだった。


「部屋はどこですか?」


詰問するような鋭い口調で問うと、五十子は狼狽し躊躇しながらもやがて答えた。


「……え、ええと。き…菊の間よ!」


「どこ?」


杉倉が、遅れて階段を駆け上がってきた女将に振り返って尋ねる。


「はあ、菊の間は奥から2番目西向きの部屋です」


不安げな顔で答える女将が、他の従業員と顔を見合わせる。どうしたものかと、ひどく気を揉んでいるようだった。

杉倉はうごうごしている人混みを置いて颯爽と歩いて行く。


「ここね…」


『菊の間』と確かに書かれた木札の掛けられた引き戸を開けて中に入る。そこにほんの少しもの躊躇は無い。玄関には鳥羽温泉とプリントされたスリッパが一組だけ綺麗に揃えて置いてあった。前後を障子紙に遮られて仄暗い玄関は何となく不穏な空気が漂っている。

杉倉は居間の障子を、やはり迷いなく開け放った。



 畳の香りはせず、ただ肌寒い。安楽椅子が開けっ放しの窓から入る秋風に揺られている。部屋は整然として、浴衣も綺麗にたたまれて隅に寄せてあった。テーブルには日本酒の徳利と二つの御猪口が置いてある。


――堀内正成は安楽椅子にゆったりと腰かけていた。


憂鬱そうに目をつむり、だらしなく開いた口には舌が押し込められたように詰まっている。頬の肉は今にも腐り落ちるかと錯覚するほどに弛みきり、鼻の脇の皺が昨日より際立ってよく見えた。杉倉はウッと口を押さえる。吐き気をこらえる為、ではない。杉倉の体が本能的に、この物体(・・)から発せられる死の臭いを拒絶したのである。椅子の肘掛からずれ落ちた正成氏の左腕はダラリと伸びて、手首から流れ出た血液が指から滴って畳に広がっている。

その大きな血だまりの上で、皆に向かって安楽椅子がキシキシと忍び笑いを洩らしている。


「正成さん…!」


杉倉が駆け寄ろうとすると、何時の間にやら後ろに付いて居た里見がそれを止めた。


「動かしちゃ駄目、杉ちゃん。ここは私に任せて、警察と救急に電話して」


里見の冷たい剣幕に面食らいながらも、杉倉は頷いて踵を返した。携帯は部屋に置いてある。

杉倉の去っていく背中を見届けてから、里見は覚悟を決すように一息吐いて、堀内氏の首の動脈に人差し指と中指を添える。粘土に指を押し付けているような、ひどく空虚な感触に里見は内心ギクリとした。推理小説では見慣れている光景でも、やはり実際では語弊はあるが生々しい(・・・・)『死』の感覚がある…。里見は空いている片方の手で堀内氏の瞼を持ち上げた。ドロリとした眼球の瞳孔は力無く開ききっている。里見はしばし指に神経を集中させていたが、すぐにそれも無駄であると分かったようで、指を離すと首を小さく横に振った。やはり、堀内正成は死んでいた。

畳の上に血に濡れたカミソリが落ちている。


「――ああ、あなた! あなた…!!」


五十子夫人が部屋に入って来るなり、大きな声で泣き始めた。玄関の方には騒ぎを聞いた人達が集まってきている。現場を保存する必要がある、と里見は考えた。


「事件現場ですから、絶対入っちゃ駄目ですよ! 女将さん、お客さん達を部屋に戻してあげてください」


「は、はい。でも警察には…」


「――私が今、連絡しました」


杉倉が人込みを掻き分け部屋に戻ってくる。絹糸のような一筋の髪が解れて細い顎まで垂れていた。


「正成さんは?」


その問いに、里見はただ首を振った。部屋は重い沈黙に包まれる。五十子の泣き声だけが細々と部屋に沁み入る。その中で里見は独り、辺りを冷静に観察していた。

争った形跡も無く、部屋は片付いているのを見ると誰かが押し入って来て堀内氏を殺害したとは考えにくい。とするとやはり自殺、もしくは可能性は低いが顔見知りによる殺人か。手首にはカミソリで2度深く切った痕があり、その傷口からは未だ血が滴っていた。傷は、いずれも一文字に深く刻まれており、非常に冷静な判断力を持って切り裂かれたようだった。用心深く、さらに一度手首を切ってあるのもその証拠である。

点々と血の付いたバスタオルが1枚、窓際の物干スタンドに掛けてある。触ってみると、まだかなり湿っていた。恐らく正成氏は温泉に浸かって戻ってきた後に死亡したらしい。

里見はそこまで分析すると、すっくと立ち上がった。里見の傍らに立つ杉倉は何時もの通り鉄面皮であるが、心は掻き乱れているらしく正成氏の死体を見つめたまま一言も発しない。なので里見が彼女に代わって周囲に告げる必要があった。


「皆さん、屋敷から出ないで部屋に待機していて下さい。それと決して、この部屋には入らないでくださいね」


里見に台詞を奪われ、ようやく杉倉も我に返ったのか、戸口に群がる人々を牧羊犬のように追い立てて部屋へ押し込める。その旅客たち中に、一人顔色の悪い男が居た。

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