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『「妹のほうが妻にふさわしい」と言う夫へ。では、私の持参金で建てたお屋敷も妹に差し上げますね』

掲載日:2026/10/13

第一章 金色の応接室にて


秋の気配が深まり、テラスの向こうに広がる広大な庭園の楓が、赤と黄色に染まり始めていた。

王都の高級住宅街でもひときわ目を引く、白亜の瀟洒な大邸宅。大理石の床には柔らかなペルシャ絨毯が敷き詰められ、壁には帝国の一流画家による風景画が飾られている。磨き上げられた銀器が、午後の柔らかな日差しを浴びて鈍く輝いていた。


その豪奢な応接室のソファで、エルステッド伯爵家の当主であるユリウスは、苛立たしげに足を組み替えた。


「――聞こえなかったのか、エレオノーラ。離縁してほしいと言っているんだ」


ユリウスは自慢の金髪をかき上げ、冷たいヘーゼルグリーンの瞳で妻を見据えた。

仕立ての良い上等な燕尾服に身を包み、非の打ち所のない美貌を持つ二十四歳の貴族。しかしその表情には、長年甘やかされて育った者に特有の、浅薄な傲慢さが張り付いている。


彼の隣には、桃色の豪奢なドレスを纏った少女が、まるで小動物のように身を寄せていた。

エレオノーラの腹違いの妹、クララである。

今年十八歳になったばかりのクララは、潤んだ大きな瞳を伏せ、レースのハンカチを口元に当てていた。


「お姉様……ごめんなさい。わたくし、お義兄様をお慕いしてしまって……でも、どうしても想いを抑えきれなくて。ユリウス様を支えられるのは、わたくしのような慎ましく殿方を立てられる女だけですわ。いつも小難しい商売の話ばかりして、旦那様を蔑ろにするお姉様では、伯爵家の妻は務まりませんもの」


クララはそう言いながら、細い指先でユリウスの腕にそっと触れた。

ユリウスはその手に自身の掌を重ね、満足げに微笑む。


「クララの言う通りだ。エレオノーラ、君は美しく育ちもいいが、女としての可愛げが致命的に欠けている。家の帳簿を勝手にいじり、平民の商人どもと対等に渡り合い、私に小言ばかり並べ立てる。伯爵夫人に求められるのは、夫の威厳を立て、社交界で可憐に微笑むことだ。君のような冷血な勘定取りではない」


ユリウスはわざとらしくため息をつき、テーブルの上に一枚の羊皮紙を滑らせた。

王立裁判所の認可印が押された、正式な離縁承諾書だった。


「幸い、君の実家であるクロイツ辺境伯家も、君ではなくクララがエルステッド家に嫁ぐことを非公式に認めている。君が身を引けば、丸く収まるのだ。名門の妻としての重責から解放してやるのだから、感謝してほしいくらいだよ」


対面に座るエレオノーラ・エルステッドは、淹れ立てのアールグレイのカップをソーサーに静かに置いた。

磁器のぶつかる澄んだ音が、室内に小さく響く。


エレオノーラは今年で二十二歳になる。艶やかな夜空色の黒髪を上品なシニヨンにまとめ、深い藍色の瞳は冬の湖のように澄み渡っていた。身に纏っているのは上質な仕立ての紺色のドレスだが、クララのような過剰なフリルや宝石の飾りはなく、機能美と洗練を極めたものだ。


「……ユリウス様。本気でおっしゃっているのですか?」


エレオノーラの声は、驚くほど静かで穏やかだった。

震えも、怒りも、悲嘆の色すらない。


ユリウスはその冷静さを、強がりか諦めだと受け取ったらしい。薄い唇に嘲笑を浮かべた。


「本気も本気だ。言っておくが、慰謝料など請求するなよ? 三年間、名門エルステッド伯爵夫人の座にいさせてやったのだから、むしろ授業料をもらいたいくらいだ。持参金も、この屋敷の生活費としてとっくに消費されたとみなす。君は身一つでここを出て行きたまえ」


「お姉様、聞き分けのないことを言ってユリウス様を困らせないでくださいね」

クララが勝ち誇ったような笑みを瞳の奥に滲ませ、追撃するように言った。

「お父様もおっしゃっていましたわ。『エレオノーラは商売にかまけて貴族の領分を忘れた出来損ないだ』って。この素晴らしいお屋敷も、伯爵夫人の地位も、これからはわたくしが相応しく受け継ぎますから。安心してどこへでもお行きなさいな」


エレオノーラは二人の顔を、じっと見つめた。


三年前。

財政難に陥っていたエルステッド伯爵家は、クロイツ辺境伯家に対して政略結婚を申し込んできた。

当時、父である辺境伯は後妻とその娘であるクララを溺愛しており、亡き正妻の娘であるエレオノーラを邪魔に思っていた。そのため、巨額の負債を抱えるエルステッド家へ、厄介払いとしてエレオノーラを嫁がせたのだ。


エレオノーラは持参金として、亡き母の遺産と、幼い頃から自ら興して育て上げてきた『ローゼン商会』の資産の一部を持ち込んだ。

荒れ果てていたこのエルステッド本邸を現在の白亜の宮殿へと改築したのも、借金を肩代わりしたのも、すべてエレオノーラの資金と差配によるものだった。


――それを、すべてクララに譲れ、と。


エレオノーラは胸の奥で、カチリと何かが外れる音を聞いた。

情けや未練など、最初からなかった。だが、わずかに残っていた「妻としての義務感」という名の鎖が、完全に断ち切られた瞬間だった。


「承知いたしました」


エレオノーラは、ふわりと微笑んだ。

その笑みは、ユリウスが見たこともないほど晴れやかで、息を呑むほど美しかった。


「な……んだと?」

拍子抜けしたように、ユリウスが目を見張る。泣き叫び、すがりついてくると予想していたのだろう。


「殿方がそこまで望まれるのでしたら、私がこれ以上口を挟む理由はございません。謹んで離縁をお受けいたしますわ。このお屋敷も、調度品も、使用人たちも、すべてクララにお譲りいたします」


「本当ですか、お姉様!」

クララが歓声を上げ、胸元で手を叩いた。

「まあ、物分かりがよくて助かりますわ! わたくし、ずっとこのお屋敷の女主になりたかったの! 舞踏室のシャンデリアも、温室の薔薇も、すべてわたくしのものね!」


「ああ、そうだとも、クララ。君のものだ」

ユリウスも安堵したように鼻を鳴らした。

「ふん、最初からそう言えばいいものを。見苦しい真似をせず、賢明な判断だったな、エレオノーラ。今日中に私物をまとめて出て行ってくれ」


「ええ、もちろん今すぐに出て行きますわ」


エレオノーラは差し出された離縁承諾書を手に取ると、万年筆を流れるように走らせ、自身の署名を記した。

そして、書類をユリウスに押し戻すと、優雅な所作で立ち上がった。


「これまでお世話になりました、ユリウス様。どうかクララと、末永くお幸せに」


完璧なカーテシーを披露し、エレオノーラは一度も振り返ることなく応接室を後にした。

背後から、「これで邪魔者はいなくなったわね、ユリウス様」「ああ、今夜は二人で祝杯をあげよう」という浮かれた声が微かに聞こえてきたが、彼女の足を止めるには至らなかった。


第二章 引き払いの刻


自室に戻ったエレオノーラは、呼び鈴を鳴らした。

すぐに扉が開き、初老の執事ハインツと、メイド長のマルタが姿を現した。二人の表情はひどく沈んでおり、憤りを隠せない様子だった。


「お嬢様……お話は、漏れ聞こえてまいりました」

ハインツが震える声で言った。

「あのような身勝手な旦那様の言い分、到底納得できません。裁判所に訴え出れば、勝てる見込みは十分にございますのに!」


「いいえ、いいのよ、ハインツ」

エレオノーラは優しく微笑み、執事の肩に手を置いた。

「私はもう、エルステッド伯爵夫人という肩書きに縛られる生活に疲れ果てていたの。むしろ、願ってもない解放ですわ」


エレオノーラは机の引き出しから、あらかじめ用意してあった封筒を二通取り出した。


「ハインツ、マルタ。あなた方を含め、私がローゼン商会を通じて雇い入れた使用人全員に、今月分の給与と、半年分の特別退職金を支払います。全員、本日の夕刻までに荷物をまとめてこの屋敷を退去してください」


「退職金……!? しかし、それではこの屋敷の管理は誰が……」

マルタが目を見張る。


「私の知ったことではありませんわ。新しい奥様になられるクララが、ご自分で手配なさるでしょう。それから、ローゼン商会が管理している倉庫へ連絡を。私の私物である図書、美術品の一部、そして母の形見の宝石箱を運び出す手筈を整えてちょうだい」


「……かしこまりました。お嬢様のお言いつけ通りに」

ハインツは深く一礼した。長年エレオノーラの手腕を見てきた彼は、主人がただ打ちのめされて去るのではないことを、痛いほど理解していた。


「それから、もう一つ重要な仕事があります」

エレオノーラは冷徹な商人の瞳になり、分厚い革張りのファイルを取り出した。

「王立公証人役場と、帝都商業銀行の支店長へ使いを出して。――『ローゼン商会がエルステッド邸に対して設定している第一順位抵当権および債務保証の打ち切りについて、正式な通告書を作成せよ』と伝えてちょうだい」


ハインツの眉がピクリと跳ね上がった。

そして、その顔に微かな、しかし痛快な笑みが浮かんだ。


「かしこまりました、エレオノーラ様。迅速に手配いたします」


一時間も経たないうちに、屋敷の裏手にはローゼン商会の馬車が数台滑り込んできた。

私服に着替えた使用人たちが、手際よく荷物を運び出していく。総勢三十名近くいた使用人のうち、代々エルステッド家に仕えていた二、名の老僕を除き、料理人、庭師、馬丁、侍女に至るまで、すべての腕利きの者たちが屋敷を去る準備を始めた。


エレオノーラは、自室のクローゼットから必要な衣服だけをトランクに詰めさせた。

華美な宝飾品の多くは、ユリウスが「伯爵家の品」として自慢していたものだが、それらの購入伝票はすべてエレオノーラが保管している。しかし、彼女はあえてそれらを置いていくことにした。

なぜなら、それらは今後、ユリウスたちを縛り上げるための格好の「罠」になるからだ。


準備を終え、屋敷のエントランスホールへ降り立つと、そこにはユリウスとクララが立っていた。

二人はホールを行き交う使用人たちの多さと、運び出されていく箱の山を見て、不快そうに眉をひそめていた。


「おい、エレオノーラ! これは何の騒ぎだ!」

ユリウスが怒鳴り声を上げる。

「使用人どもが仕事を放棄して荷物をまとめているぞ! 今夜の祝宴の準備はどうなっているんだ!」


クララも金切り声を上げた。

「そうですわ! わたくし、極上の鴨肉のローストとヴィンテージのワインを用意するように命じましたのに、料理長が『私はローゼン商会に雇用された身ですので、これにて失礼します』などと無礼なことを言って厨房を出て行ってしまいましたのよ! お姉様、あなた使用人たちに何を吹き込みましたの!?」


エレオノーラは立ち止まり、涼やかな顔で二人を見つめた。


「吹き込むなどと、滅相もございません。彼らは全員、私の個人商会であるローゼン商会が直接雇用し、給与を支払っていた専門職の者たちです。私がこの家を出る以上、私の被雇用者である彼らがここに留まる理由がございませんでしょう?」


「なっ……なんだと!?」

ユリウスの顔が引きつる。


「給与を払っていた……? 馬鹿な! 彼らは我がエルステッド家の使用人だぞ!」


「いいえ。エルステッド家の名義で雇われていたのは、先代から仕えている門番のトムと、老いた下働きのマリーの二人だけですわ。月々の給料の支払い明細書をご確認なさったことはございませんの? ……ああ、失礼いたしました。ユリウス様は『小難しい勘定の話』はお嫌いでしたものね」


エレオノーラは扇で口元を隠し、くすりと笑った。


「彼らに給与を支払い、引き続き雇いたいのであれば、ユリウス様がご自身の口座から金貨で再契約金をお支払いになればよろしいのです。総勢二十八名、月におよそ金貨百二十枚ほどになりますけれど」


「ひ、百二十枚……!?」

ユリウスが絶句する。

当時の王国において、一般的な貴族の年収が金貨千枚から二千枚程度であることを考えれば、人件費だけで月百二十枚というのは目を見張る額だった。それだけの腕利きと人数を揃えていたからこそ、この広大な屋敷の維持管理が可能だったのだ。


「そんなの嘘よ!」クララがヒステリックに叫んだ。

「お姉様、わたくしに意地悪をしているのでしょう! ユリウス様、あんな平民上がりの使用人ども、追い出してしまいましょう! もっと安くて愛想のいい使用人を新しく雇えばいいだけですわ!」


「そ、そうだ! クララの言う通りだ!」

ユリウスは動揺を隠すように大声を出した。

「君の息のかかった生意気な使用人など、こちらから願い下げだ! さっさと連れて出て行け! 私とクララだけで、この屋敷を十全に運営してみせる!」


「頼もしいお言葉ですわ、ユリウス様」

エレオノーラは優雅に会釈した。

「それでは、私はこれにて失礼いたします。お二人の門出を、心より祝福申し上げますね」


エントランスの重厚な扉が開き、秋の澄んだ空気がホールに流れ込む。

車寄せには、一台の豪華な黒塗りの馬車が待機していた。

エルステッド家の紋章ではなく、青い薔薇と天秤を組み合わせた――『ローゼン商会』の紋章が誇らしげに刻まれた馬車だった。


御者台の横に立っていた長身の男が、エレオノーラの姿を認めるなり、足早に駆け寄ってきた。


「お迎えに上がりました、エレオノーラ様」


男はエレオノーラの前に跪き、恭しく手を取った。

深い灰色の髪をなでつけ、知的で精悍な顔立ちをした青年。仕立ての良い濃紺のスーツを完璧に着こなした彼は、帝国屈指の大商会であり、エレオノーラが秘密裏に立ち上げたローゼン商会の共同経営者、レナード・ヴァルツだった。


「お疲れ様でした。……すべての手続きは完了いたしましたか?」


「ええ、レナード。完璧に」

エレオノーラが微笑みかけると、レナードの口元に微かな、しかし絶対の信頼を湛えた笑みが浮かんだ。


馬車に乗り込む寸前、背後からユリウスの不快そうな声が飛んできた。


「おい、エレオノーラ! その男は何者だ! 貴族の妻であった身でありながら、平民の男と懇意にするなど、恥を知れ!」


レナードは冷ややかな灰色の瞳をゆっくりとユリウスへ向けた。その眼光の鋭さに、ユリウスは思わず一歩後ずさる。


「エルステッド伯爵。すでに離縁承諾書に署名がなされた以上、エレオノーラ様は貴方の妻ではございません。彼女は現在、我がローゼン商会の筆頭総裁であり、何者にも縛られない自由な淑女です。……それから」


レナードは無機質な笑みを浮かべ、胸ポケットから一枚の紙片を取り出して見せた。


「近いうちに、当商会の法務顧問を通じて正式な通知が届くかと存じます。せいぜい、その豪華な屋敷での甘い新婚生活をお楽しみください」


「な、何だと……?」


ユリウスが問い返す間もなく、レナードはエレオノーラを馬車へとエスコートし、扉を閉めた。

パッカパッカと軽快な蹄の音を響かせ、黒塗りの馬車は白亜の屋敷を後にする。


車内で、エレオノーラは深く息を吐き、シートに身を沈めた。


「終わりましたのね」


「はい。そして、ここからが始まりです」

対面に座るレナードが、穏やかな声で言った。

「三年間、本当によく耐えられましたね、エレオノーラ。貴女をあのような無能な男のもとに縛り付けておくのは、私にとっても耐え難い苦痛でした」


レナードの言葉には、商売の相棒としての敬意だけでなく、長年押し殺してきた深い情愛が滲んでいた。

エレオノーラは頬を微かに染めながら、窓の外へと流れていく景色を眺めた。


「ありがとう、レナード。あなたが水面下で完璧に準備を整えてくれたおかげよ。……さあ、彼らが『現実』という名の請求書を受け取るのが、今から楽しみですわね」


第三章 楽園の崩壊


エレオノーラが屋敷を去ってから、最初の二日間、ユリウスとクララはまさにこの世の春を謳歌していた。


「見て、ユリウス様! このサロンの絵画も、飾り棚のマイセン磁器も、すべてわたくしたちのものですわ!」

クララは贅沢なレースのドレスを引きずりながら、広い屋敷を駆け回っていた。

「お姉様ったら、本当に馬鹿ね。こんな素晴らしい財産を全部手放して、身一つで出て行くなんて!」


「全くだ。あの女はプライドばかり高くて、実利というものが分かっていないのだ」

ユリウスも上機嫌で、ワインセラーから勝手に持ち出した最高級の年代物ワインをグラスに注いだ。

「これからは君がこの屋敷の女主だ。明後日には、王都の貴族たちを招いて、盛大な婚約披露パーティーを開こうじゃないか」


「まあ、素敵! ドレスも新調しなくちゃ! 王都で一番腕のいいお針子を呼びますわ!」


しかし、三日目の朝。

二人の楽園に、最初の亀裂が入った。


「……ユリウス様、寒いですわ」

ベッドの中で目を覚ましたクララが、震えながら不満の声を漏らした。

「どうして暖炉に火が入っていないの? それに、朝食のワゴンはまだ届かないのかしら?」


ユリウスも寒さに顔をしかめ、枕元の呼び鈴を何度も激しく打ち鳴らした。

しかし、どれだけ待っても誰も現れない。


苛立ったユリウスがナイトガウンを羽織り、薄暗い廊下へ出ると、そこにいたのは腰の曲がった老僕トムだけだった。


「トム! 貴様、何をしている! 早く暖炉に薪をくべ、湯を沸かし、朝食を持ってこい!」


トムは困り果てたように眉を八の字にした。

「も、申し訳ございません、旦那様……。薪の在庫はございますが、重くて私一人では各部屋に運ぶことができませんで……。それに、料理長たちが全員辞めてしまいましたので、厨房には誰も火を使える者がおらんのです。私とマリーでは、固い黒パンを切ってお茶を淹れるのが精一杯で……」


「何だと!? 街から新しい使用人を手配したと言っただろう!」


「は、はい……昨日本宅へ参りました職業紹介所の者によりますと、これほど広大な屋敷を管理するには最低でも二十人の熟練使用人が必要とのことですが、旦那様がご提示された給与額――月銀貨十枚では、誰も引き受け手がおらぬと、断られてしまいまして……」


「銀貨十枚のどこが不満だというのだ! 名門伯爵家に仕えられる栄誉があるというのに!」

ユリウスが怒鳴り散らす。

以前エレオノーラが支払っていた給与(月金貨百二十枚=銀貨換算で千二百枚以上)の十分の一以下で人を集めようとしたのだから、応募者が集まるはずもなかった。


結局、その日の朝食は、冷め切ったぬるい紅茶と、乾燥してパサついたパンだけだった。

クララは「こんな豚の餌みたいなもの、食べられませんわ!」と泣き叫び、皿を床に投げつけた。その破片を片付ける者すら、屋敷にはいなかった。


さらに悲劇は続いた。


昼過ぎ、屋敷の呼び鈴が乱暴に鳴り響いた。

トムがおずおずと扉を開けると、そこには王都中の名だたる商人たちが、険しい顔で列をなしていた。


宝石商、高級呉服商、肉屋、酒商、花屋、馬具商――総勢二十名を超える商人たちである。


「エルステッド伯爵はおられるか!」

先頭に立った高級呉服商の主人が、手にした分厚い請求書の束を突きつけた。


応接室に引っ張り出されたユリウスは、集まった商人たちを威圧するように睨みつけた。

「無礼だぞ、平民ども! 伯爵邸に押し入って何の真似だ!」


「無礼なのはそちらです、閣下!」

呉服商が怒声を張り上げた。

「本日、ローゼン商会から正式な通達が届きました! 『エレオノーラ様の離縁に伴い、本日以降、エルステッド伯爵家のツケ払いの保証を一切打ち切る』と!」


「……は?」

ユリウスが間抜けな声を漏らす。


「どういうことだ? 保証とは……」


肉屋の主人が進み出て、怒りに顔を真っ赤にして言った。

「とぼけないでいただきたい! この屋敷で消費される最高級牛肉も、子羊の肉も、これまではすべてローゼン商会が月末に一括して支払ってくれていたのです! 伯爵家の信用などではなく、エレオノーラ様個人の信用でツケが利いていたんですよ!」


「そ、そんな馬鹿な……! この屋敷の支払いは、伯爵家の予算から出ていたはずだ!」


「笑わせないでください!」

宝石商が書類を机に叩きつけた。

「エルステッド伯爵家の金庫が空っぽなことくらい、王都の商人なら誰でも知っています! 先代が残した借金すら、エレオノーラ様が商会の利益から肩代わりして返済していたのですよ! そのエレオノーラ様が保証人を降りられた以上、過去半年分の未払い金、総額金貨八百枚を、今すぐ現金で支払っていただかなければ困ります!」


「き、金貨八百枚……!?」


ユリウスの血の気が一気に引いた。

八百枚。それはエルステッド家の領地から上がる年間純収入の半分に匹敵する額だった。そんな大金、今の屋敷の金庫にあるはずがない。


「ユリウス様……! どういうことですの!?」

隣で話を聞いていたクララが、青ざめてユリウスの腕を掴んだ。

「お姉様がお金を払っていたなんて、聞いていませんわ! このお屋敷の贅沢な暮らしは、伯爵家の財力によるものではなかったのですか!?」


「う、うるさい! 私だって知るか!」

ユリウスはクララを乱暴に突き飛ばした。

「おい、商人ども! 支払いは待て! 領地の代官に命じて税を徴収させれば――」


「待てませんな」


重々しい声が、エントランスから響いた。

商人たちが道を開ける。現れたのは、黒い法衣を纏った王立裁判所の執行官と、二人の騎士、そして帝都商業銀行の支店長だった。


「エルステッド伯爵。貴殿に、王立裁判所からの差し押さえ予告書と、債務の一括弁済請求書をお届けに上がりました」


執行官が無表情に差し出した羊皮紙を、ユリウスは震える手で受け取った。

そこに並んでいた数字を見て、ユリウスの目が限界まで見開かれた。


『担保権実行予告通知書』

『被担保債権総額:金貨一万五千枚』

『抵当権者:ローゼン商会』


「い、一万……五千枚……!? な、なんだこれは! 何かの間違いだ!」

ユリウスは喉をかきむしるように叫んだ。


銀行の支店長が、冷徹な眼鏡の奥から侮蔑の視線を送った。

「間違いではございません、伯爵。三年前、荒れ果てていたこのエルステッド邸を改築し、庭園を造営し、調度品を揃えるために投じられた莫大な資金……そのすべては、エレオノーラ様が代表を務めるローゼン商会からの『融資』という形で処理されておりました」


「ゆ、融資……? 持参金ではなかったのか!?」


「持参金として計上されたのは、先代の負債整理に充てられた金貨三千枚のみです。この屋敷の改築費用一万五千枚に関しては、エルステッド邸そのものを担保として、商会が抵当権を設定しておりました。契約書には、貴殿ご自身の署名と花押がしっかりと記されておりますよ」


支店長が提示した契約書の控えには、確かにユリウス自身の華麗なサインがあった。

三年前、結婚の浮かれ気分の中、「必要な手続きの書類です」とエレオノーラから差し出され、中身も読まずにサインした書類の山――その中に、これが混ざっていたのだ。


「そして」執行官が一歩前に出た。

「契約書第十四条に基づき、『エレオノーラ殿との婚姻関係が終了した場合、債務者は三十日以内に融資残高の全額を一括返済しなければならない。返済がなされない場合、抵当物件である本邸および敷地内のすべての動産は、直ちに抵当権者に明け渡されるものとする』と明記されております」


「あ、明け渡す……? この屋敷を……!?」

クララが悲鳴を上げた。

「嫌よ! 嫌ですわ! このお屋敷はわたくしのものよ! お姉様が『差し上げる』っておっしゃったのよ!」


「ええ、エレオノーラ様は屋敷の所有権を放棄されました」

執行官は冷ややかに言った。

「ただし、所有権と共に、一万五千枚の債務と抵当権もそのまま引き継がれたのです。所有権を持つ者が、その物件に設定された借金を返済するのは当然の法理ですな」


「払えるわけがないだろう、そんな額!」

ユリウスが泡を吹いて叫んだ。

「金貨一万五千枚など、我が家の領地を丸ごと売り払っても足りんぞ!」


「ならば、自己破産を申請し、爵位を返上して領地と屋敷を競売にかけるしかございませんな」

支店長は事務的に言い放った。

「期日は本日より三十日後。それまでに金貨一万五千枚と、商人たちへの未払い金八百枚をご用意ください。なお、期日までの間、屋敷内の美術品や調度品を勝手に持ち出すことは法律で固く禁じられます。違反した場合は横領罪として投獄されますので、あしからず」


執行官たちが去り、商人たちが「一ヶ月後、耳を揃えて返してもらうぞ!」と怒鳴り散らして引き上げていくと、冷え切ったエントランスホールには、ユリウスとクララの二人だけが取り残された。


暖炉の火は消え、床には割れたティーカップの破片が散らばり、窓からは容赦ない秋風が吹き込んでくる。


「ユ、ユリウス様……どうなさるの……? わたくしたち、どうなってしまうの……?」

クララが震えながらすがりついてくる。


ユリウスは激しい怒りと絶望に顔を歪め、クララの腕を激しく振り払った。

「うるさい! 貴様のせいだ! 貴様が『お姉様より私の方が妻にふさわしい』などと甘言を弄したから、私はエレオノーラを手放してしまったんだ!」


「なっ……なんですって!? ひどい! わたくしを愛しているとおっしゃったのはユリウス様ではありませんか! 甲斐性なし! 無能!」


「黙れ、この疫病神が!」


かつて愛を語り合っていた二人は、寒風吹き荒れる豪華なゴミ屋敷の中で、醜く罵り合うことしかできなかった。


第四章 光射すテラスで


王都の喧騒から少し離れた、緑豊かな丘の上に建つ瀟洒な邸宅。

ここ『ローゼン商会迎賓館』のサンルームには、柔らかな日差しと、芳醇な珈琲の香りが満ちていた。


テーブルの上には、焼きたてのスコーンと自家製のベリージャム、そして湯気を立てる珈琲のカップが並んでいる。


「――それで、エルステッド伯爵は裁判所で喚き散らした末に、領地の半分を担保にして金策に走っているそうですが、どこの銀行も相手にしていないそうです」


書類から目を離し、レナードが苦笑交じりに報告した。

エレオノーラはスコーンにジャムを塗りながら、ふふっと楽しげに笑った。


「当然ですわね。年間収入数百枚の領地で、一万五千枚の借金を返せるはずがありませんもの。銀行だって慈善事業ではありませんから」


「クロイツ辺境伯家……貴女の実家にも、クララ嬢を通じて泣きついたようですが、あの強欲な父親御も、一万五千枚という天文学的な数字を聞いた途端、クララ嬢を『勘当する』と言って門前払いしたそうです」


「お父様らしいわ」

エレオノーラは冷淡に言った。

実家の父は、常に損得勘定だけで動く男だった。エレオノーラを追い出したのも、今度はクララを切り捨てたのも、すべて金と保身のためだ。そんな実家に対する情など、エレオノーラの中には微塵も残っていない。


「三十日の期日が過ぎれば、あの白亜の屋敷は正式に我がローゼン商会の完全所有物となります」

レナードは満足げに眼鏡の位置を直した。

「立地も構造も最高ですからね。改装して、我が商会の本部兼、高級会員制サロンとして再利用する計画を進めております。エレオノーラ様、内装のコンセプトはいかがいたしましょう?」


「そうね……」

エレオノーラはカップを手に取り、香りを楽しんだ。

「あの悪趣味な金ピカの装飾はすべて取り払って、落ち着いた木目調と、たくさんの本を置ける図書サロンにしましょうか。誰かの見栄のためではなく、本当に寛げる場所にしたいわ」


「素晴らしい案です。すぐに設計士を手配しましょう」


レナードは手帳にメモを走らせると、ふと顔を上げ、エレオノーラをまっすぐに見つめた。

その灰色の瞳には、商売の枠を超えた、熱を帯びた光が宿っていた。


「エレオノーラ」


役職名ではなく、名を呼ばれたことに、エレオノーラは小さく胸を跳ねさせた。


「……何かしら、レナード?」


レナードは席を立ち、エレオノーラの隣へと歩み寄った。そして、テーブルの上に一つの小さなビロードの小箱を置いた。

カチリと蓋が開かれる。

中に収まっていたのは、夜空のような深い輝きを放つ、見事なサファイアの指輪だった。

エレオノーラの瞳と同じ色の、一点の曇りもない至高の宝石。


「これは……?」


「三年前、貴女がエルステッド家へ嫁ぐと決まったあの日から、私が個人的に買い付け、職人に彫らせていたものです」

レナードは静かに、しかし力強い声で言った。

「いつか、貴女があの無能な男の呪縛から解き放たれ、自由になったその時に、必ず渡すと誓っていました」


エレオノーラは息を呑んだ。

レナードとは、彼女が十五歳で商会を立ち上げた時からの付き合いだ。

貧民街の孤児だった彼は、卓越した計算能力と商才を持っていた。エレオノーラがその才能を見出し、共にローゼン商会を王国屈指の大商会へと育て上げてきたのだ。

彼が常に自分を一番近くで支え、どれほど理不尽な状況でも味方でいてくれたことを、エレオノーラは痛いほど知っていた。


「私は平民の商人に過ぎません。貴族の肩書きも、広大な領地も持っていない」

レナードはエレオノーラの前に片膝をつき、彼女の細い指をそっと包み込んだ。

「ですが、貴女の才能を誰よりも尊敬し、貴女の自由を誰よりも守り、貴女という人間を誰よりも愛する自信があります。……エレオノーラ。商会の共同経営者としてだけでなく、私の生涯の伴侶として、私の隣にいてくれませんか?」


飾らない、真摯な求婚の言葉。

かつてユリウスが求めていた「男を立てる従順な飾り」ではなく、一人の対等な人間としての敬意と愛が、そこには満ちていた。


エレオノーラの視界が、じわりと涙で滲んだ。

三年間、誰にも頼れず、冷血な商人の仮面を被り、一人で戦い続けてきた孤独が、レナードの温もりによって溶けていくようだった。


「……私で、いいの?」

エレオノーラは微かに声を震わせた。

「離縁された傷物ですのよ? 社交界の貴族たちからは、冷酷な女だと後ろ指を指されるかもしれないわ」


「貴族どもの戯言など、犬にでも食わせておけばいい」

レナードは不敵に、そしてこの上なく優しく微笑んだ。

「貴女の価値を理解できない愚か者の視線など、我々の世界には必要ありません。貴女が創り出し、私が広げるこの商会こそが、我々の王国です」


その言葉に、エレオノーラの唇からふわりと笑みがこぼれた。

彼女は迷うことなく、レナードの手庭に自分の手を重ねた。


「ええ、喜んで。――私の生涯のパートナー、レナード」


レナードの顔に、歓喜の光が広がった。

彼は震える手でサファイアの指輪を取り、エレオノーラの左手の薬指へと滑らせた。

誂えたかのように、完璧に指に馴染む。

レナードはその指先に、誓いを込めるように深く口づけを落とした。


第五章 因果の果てに


三十日の期日は、瞬く間に訪れた。


王立裁判所の強制執行により、エルステッド邸は完全に差し押さえられた。

ユリウスは最後まで「私は伯爵だぞ! 先祖代々の屋敷から追い出すなど許されん!」と暴れ回ったが、冷徹な騎士たちによって門の外へと叩き出された。


彼に残されたのは、荒廃した領地の残り半分と、莫大な借金の山だけだった。

貴族院は度重なる不祥事と債務不履行を重く見て、ユリウスから伯爵位を剥奪し、平騎士へと降格処分を下した。

領地は王室の管理下に置かれ、ユリウスには日々のパンを買うだけの僅かな年金しか支給されなくなった。彼は現在、王都の場末にある湿気た安アパートで、酒に溺れながらかつての栄光を喚き散らす日々を送っているという。


一方、クララも悲惨な末路を辿った。

実家から勘当され、ユリウスからも追い出された彼女は、贅沢な暮らしを諦めることができず、怪しげな金貸しから借金を重ねた。

最終的には、持っていた偽物の宝石や古着をすべて売り払い、王都を追われて遠くの鉱山街で、粗末な酒場の給仕女として朝から晩まで怒鳴られながら皿を洗っているという噂だった。

かつて「殿方を立てる可憐な女」を自称していた彼女の爪は割れ、美しい金髪は油と煙で煤けてしまっている。


――そして、冬が訪れた。


雪が優しく舞い散る王都の中心街。

かつてエルステッド邸と呼ばれていた白亜の建物は、美しく生まれ変わっていた。


『ローゼン・ライブラリー・サロン』


門のプレートには、そう刻まれている。

かつて冷え切っていた館内には、最新式の温水パイプによる暖房設備が張り巡らされ、まるで春のように暖かかった。

壁一面には世界中から集められた貴重な書物が並び、磨き上げられた木の床と柔らかな絨毯が、訪れる人々を温かく迎え入れている。

かつてユリウスが贅沢のためだけに使っていた舞踏室は、身分を問わず学者や商人、芸術家たちが知的な議論を交わす開放的なサロンへと変貌を遂げていた。


「エレオノーラ様、帝国からの新しい羊毛の取引契約書が届きました」


サロンの一角にある執務室で、ハインツが笑顔で書類を差し出した。

かつてエルステッド邸を去った使用人たちの多くは、より良い待遇でこのサロンや商会に再雇用され、生き生きと働いていた。


「ありがとう、ハインツ。確認するわ」


デスクに向かうエレオノーラの左手薬指には、深い青のサファイアが誇らしげに輝いている。

彼女の表情には、かつてのような張り詰めた冷たさは微塵もなく、自信と幸福に満ちた柔らかな光が湛えられていた。


コンコン、とノックの音が響き、扉が開く。


「エレオノーラ、少し休憩にしないか? 君の好きな、焼きたての林檎のタルトが焼き上がったよ」


レナードが、湯気を立てる銀のトレイを持って入ってきた。

彼の指にも、エレオノーラとお揃いのシンプルなプラチナの指輪が光っている。


「まあ、素敵。ちょうど甘いものが欲しかったところよ」


エレオノーラはペンを置き、立ち上がってレナードを出迎えた。

レナードはトレイをテーブルに置くと、自然な動作でエレオノーラの腰を引き寄せ、その額に優しくキスを落とした。


「今日の調子はどうだい、総裁殿?」


「最高よ、副総裁殿。あなたと一緒にいるんですもの、上手くいかないはずがないわ」


二人は顔を見合わせ、声を立てて笑い合った。


テラスの窓の外には、粉雪に覆われた美しい庭園が広がっている。

春になれば、ここには一面の青い薔薇が咲き誇る予定だ。


「妹のほうが妻にふさわしい」と言い放ち、すべてを奪おうとした愚かな元夫。

彼らが喉から手が出るほど欲しがっていたのは、エレオノーラが築き上げた富と名声の上澄みに過ぎなかった。

器を奪ったところで、中身を満たす力のない者には、ただの重荷にしかならないのだ。


エレオノーラは窓辺に立ち、レナードの手をしっかりと握りしめた。

自分の力で立ち、愛する人と共に未来を切り拓く。

その手応えと温もりこそが、何ものにも代えがたい、彼女の真の財産だった。



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