お飾りにもなれなかった王太子
王宮の奥にある私的な応接間で、ヴェルディナード王国の王太子グリアム殿下は、お菓子を前にした小さな子供のような邪気のない笑顔を浮かべていた。グリアム殿下は明るい金髪碧眼の、いかにも王族といった優美な見た目をしている。
ソファの隣の席には、身を寄せるようにして男爵令嬢ミリエラ・スバッシュが、やや固い表情で座っていた。彼女は艶やかで緩くカールした栗色の髪に、鮮やかな緑色の瞳をした美少女だ。
「今、なんと?」
グリアム殿下の婚約者である私、公爵家の長女で宰相の娘でもあるイベッタ・ユーディンが問いかけると、グリアム殿下はニコニコとしたままでもう一度同じ言葉を口にした。
「仕方ないな、イベッタ。もう一度言うよ? 私はこのミリエラのことを好きになってしまったんだ。だから、君との婚約は破棄して、彼女を王太子妃にしようと思う」
先ほどと変わらない言葉が繰り返される。彼は、全く問題ではないように口にしたが、これは——。
「グリアム様は、わたくしも、宰相である父の支援も、我がユーディン家の後ろ盾も必要ではないとお考えですか?」
私がそう言うと、グリアム殿下は驚いた顔をする。
「何を言っているんだい? 私はただ、王太子妃を入れ替えたいと言っているだけだ。君も、宰相も、これまで通りに私をサポートしてくれて構わない」
「わたくしとの婚約を破棄されるのでしたら、そういったことはもうできなくなります。当然ではないですか」
ミリエラ嬢の顔色が悪い。そうよね、彼女は初めから愛妾狙いで、王妃などという面倒な地位には興味がない。
ただ、わたくしよりも王太子に愛されている、寵愛された女として、社交界に君臨したいだけなのだから。
「なぜ? 彼女と結婚できたら私が喜ぶと言っているのに、叶えられないと言うの? これまで君は、私の願いを喜んで何でも叶えてくれたじゃないか」
グリアム殿下が心外だという顔付きで、わたくしに問いかける。明らかに、何が問題なのか、まったくわかっておられないようだった。
これは……もう駄目ね。この方は、満足にお飾りすらできないのだわ。
確かに、わたくしも我が家も、これまで殿下の要望はなるべく叶えてきた。
高価な文房具。
貴重な書物。
豪華な衣服。
カフスやブローチなどのその身を飾る宝飾品。
見た目も優美で実力も備えた、優秀な護衛騎士。
殿下の好きな冒険譚に出てくるような、立派な芦毛の馬。
お茶会やパーティー、ピクニックや水遊びなどの楽しい催し。
どれも、殿下の機嫌を取るために我が家が叶えてきた。
そしてわたくしは、幼い頃からそんな殿下を支えるために常にそばに控えて、どんな話も要望も、丁寧に聞いてきた。
学園では代わりに宿題をやったり、テスト前の勉強のためのノートをまとめたりもしてきた。
学園に入ってから、殿下がミリエラ嬢を気に入って、二人で出かけるのも止めずに見守ってきた。
ミリエラ嬢が将来、愛妾として王宮に入るための準備すらしていた。
けれど、それもこれまでだ。
この国はもう、数代前から王族はお飾りとして君臨するだけで、政治は我が公爵家が輩出する宰相と、中央貴族を中心に回っている。
王に必要なのは、優れた見た目と血筋だけ。
政策を考える必要はなく、ただ差し出された書類に美しい筆致でサインをし、社交や外交の場では官僚たちによって用意された挨拶文を笑顔でスピーチし、政略に従った結婚をして子孫を作ってくれれば良い。
グリアム殿下も、そうなる予定だった。
だからこそ、公爵家の用意した小さな箱庭の中でくらい自由にすれば良いと、叶えられる願いは叶えられてきた。
学生のうちから不貞をしても、将来、好きな女を迎えて愛妾を持っても構わないというほどに、甘やかしてきた。
けれども、これはさすがに駄目だ。政略による婚姻の意味を全くわかっていないようでは、お飾りにすらなりようがない。
下手に卑屈で暗い性格になられても困るという理由で、我が家が殿下を自己肯定感を高く保つように育てたのは確かだが、ここまで自己が肥大してしまっていては扱うのが難しい。
まだ悪いことをしたという自覚があれば良かったし、わたくしと政略の結婚だけはして、心は愛妾にだけ注ぐような小狡いところがあっても別に良かった。
でもグリアム殿下は本気で、自分が喜ぶことが相手に対して報酬になると考えている。自分が喜べば、笑顔になれば、幸せと思えば——それでわたくしも嬉しくなるのだと、宰相である父も喜ぶのだと、本気でそう信じているのだ。
「それはいけませんわ、殿下……道理が通りません」
わたくしはなるべく優しい口調でそう言い、戸惑う殿下を置いて席を立った。
すぐにこの件を父に伝えて、上手くことを計らわなければならない。結婚する前に、彼を王に仕立て上げる前にわかって良かったのだろう、きっと。
父に事情を話すと、王太子はすぐに第二王子である一歳年下のガリウス殿下に挿げ替えられた。
ガリウス殿下は、グリアム殿下に比べれば髪色も少し暗い金茶だし、瞳の色も透き通った青ではなく深い青色で見た目は少し地味だ。
けれど、グリアム殿下より真面目で成績も良く、贅沢もせず、何より王太子のスペアとしてのご自分の立場をよく理解していらっしゃった。
予定では、王太子が王になった時に支える、臣下となる予定だった。後継者争いが起きないように婚約者も決めずにいたのが幸いして、わたくしはすぐにガリウス殿下と再婚約をした。
グリアム殿下は断種の上でミリエラ嬢と速やかに婚姻させ、王領の中の小さな屋敷で、一生を慎ましく過ごすことと決められた。
もちろん、ある程度の人数の使用人たちも一緒だ。社交は基本的にさせないし、王都での暮らしに比べればあまりにもささやかではあるが、生活に困るようなことはない。ただし、領地から勝手に出ることは禁じられた。
こちらとしては、お二人にはただ穏やかに、一生慎ましく平穏に暮らしていただければそれで良い。
現在、王都では、ある純愛をモチーフにした歌劇が流行っている。いや、我が公爵家が流行らせた、というのが正しいのか。
「おお、ミリアム……婚約者がある身でありながら、私はそなたを愛してしまった……何という裏切り、何という罪だろう」
愛のために苦悩しながらも、最後には王位を捨てる決心をする王太子。
「ああ、グリエール様! わたくしも、婚約者があると知らないまま、貴方様を一目見た瞬間から愛してしまった! この想いは決して表には出してはいけなかったのに……。この目が、心が、貴方様を追うことを止められませんでした……!」
婚約者がいるのを知らずに彼を愛してしまい、背徳感に苦しむ健気で純粋な娘。
「すべてを捨ててもそなたが欲しい……この身が幾度砕かれようと、例え流浪の民に身を落としても、そなたと共にありたいのだ」
「グリエール様……! わたくしも、家を捨てても、旅の空で土の上に寝ることになったとしても、貴方様に一生ついて行きたい!」
彼らは誠実に婚約者と周囲にこうべを垂れ、謝罪し、結果として王位も貴族としての地位も捨て、ただの平民として結ばれる。王領の誰も訪れぬような田舎の一軒家で畑を耕し繕い物をし水を汲む、そんな不便な暮らしをすることも厭わぬほどの純愛。
間違いなく、つい最近王位を捨てて結ばれたという現実の王太子とその恋人をモデルにしたお芝居に、王都の人々は群がった。そして評判も上々。
「お飾りにすらなれなかったあの方も、最後にこのように国民の人気取りの役に立てて良かったですわ」
わたくしは王家のためのボックス席で、その演目を眺めながら、そう独りごちた。隣の席に座っているガリウス殿下は、ひっそりとした控えめな笑顔を浮かべるのみだ。
彼は兄であるグリアム殿下と違って、余計なことを言わない。必要以上の贅沢もしようとはしない。とても良く弁えている王族だった。
「今度こそ、上手くやって行きたいと思っていますの」
わたくしが言うと、ガリウス殿下はうっすらと微笑んだ。
「こちらこそ、上手くやっていけるように心がけよう。——この国のために」
「ええ、この国のために」
愛情はまだないけれど、この国が一番大切という気持ちは同じ。
今度こそ上手くやれると信じて、わたくしも微笑んだ。
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