極度の潔癖症である夫が、私のデブで不細工な親友とキスして、その風呂水まで貪り飲んでいた件
プロローグ
私の夫は、病的なほどの潔癖症だった。
結婚して三年。コンビニのホットスナックさえ「汚い」と顔をしかめるような人だったのに、ある夜、彼は私の目の前で浴槽のそばに跪き、私が一番信じていた親友に媚びるような目を向けていた。
さらに滑稽だったのは、彼が離婚を迫ってきたことだ。
マンションも、預金も、車も、すべて親友に残せ。
私は何一つ持たずに出ていけ、と。
夫に裏切られ、親友に嘲笑われた私は、本来ならそこで完全に心を閉ざしていたはずだった。
けれど、途切れ途切れにかかってきた一本の救いを求める電話が、すべてを変えた。
夫の異常な変化は、ただの不倫ではなかった。
水筒の底に残った白い粉。
いつの間にか接続を切られていた見守りカメラ。
親友の狂ったような独占欲。
私は一つずつ真実を剥がしていった。
そして、自分の手で夫を救い出し、自分の手で親友を刑務所へ送った。
けれど、彼が床に膝をつき、離婚しないでほしいと縋ってきたとき、私が返した言葉は一つだけだった。
「助けたのは、あなたがかつて私の家族だったから。でも、もうあなたの妻には戻れない」
1.浴室にいた、知らない夫
夫の神谷隼人は、東京・青山にある会員制パーソナルジムで、もっとも予約の取れないトレーナーだった。
ジムは骨董通りの近くにある。表通りから少し入った場所にあり、看板も控えめで、完全予約制の会員しか受け入れていない。通っているのは、芸能関係者や企業役員、体型管理を厳しく求められるモデルたちが多かった。
隼人のレッスンは、常に二か月先まで埋まっていた。受付のスタッフが冗談まじりに言うこともあった。
「神谷トレーナーの枠を取るのは、週末のミシュラン店を予約するより難しいですよ」
隼人には、ほとんど執念に近いほどの身体管理の習慣があった。それに加えて、病的と言っていいほどの潔癖症でもあった。
家の浴室は毎日洗浄と消毒をする。浴槽を使ったあとは必ず湯を抜き、専用の洗剤で洗い直す。冷蔵庫には、鶏むね肉、野菜、無糖ヨーグルト、プロテインしか入っていない。コンビニのホットスナックに手を伸ばしたことさえなかった。
結婚して三年、隼人がよく口にしていた言葉がある。
「体を整えることは、生活を大切にするための基本だ」
私はときどき、彼の世界は張り詰めすぎていると思った。それでも、隼人は仕事で一線を越える人ではなかった。私的な感情で顧客を縛ることもない。トレーニング後に食事へ誘われても、彼は礼儀正しく断り、その日の食事アドバイスだけをジムの会員システムに送っていた。
青山周辺のパーソナルトレーナーにとって、顧客との距離感を誤ることは致命的だ。曖昧な接客だと受け取られ、クレームになれば信用を失う。
隼人はそのことを、誰よりも慎重に扱っていた。
だからその日、私が予定より早く豊洲のタワーマンションに帰り、浴室から水音が聞こえたときも、扉の向こうにあんな光景があるなんて思いもしなかった。
その日は本来、丸の内の会社で残業するはずだった。けれど企画部の会議が急に中止になり、私は帰りにスーパーへ寄った。隼人が指定しているメーカーの低脂質の鶏むね肉を買い、エレベーターで三十階へ上がる間、今夜はこっそり自分用に小さなプリンを食べようかと考えていた。
玄関のセンサーライトがついた。
けれど、家の中にはいつもの消毒液とレモン系洗剤の匂いがなかった。リビングのカーテンは半分だけ閉まり、ローテーブルには片づけられていないデリバリーの容器が置かれている。床には、粘ついたコーラの滴まで落ちていた。
廊下の先に立った瞬間、浴室から水音と低い笑い声が聞こえた。
扉に鍵はかかっていなかった。
私は浴室の扉を開けた。
手に持っていた鶏むね肉が、床に落ちた。
鏡は湯気で白く曇っていた。空気には、発酵したような酸っぱい匂いが混じっている。
隼人は浴槽のそばに跪いていた。両手で湯をすくい、顔を近づけて飲み込んでいた。その姿はあまりにも異様で、滑稽な行為をしているというより、何か神聖な儀式を受け入れているように見えた。
浴槽の中に座っていたのは、大学時代からの友人、大沢珠美だった。
彼女は浴槽の大半を占めるように体を沈め、水面には濁った泡が浮いていた。赤いネイルの指先が浴槽の縁にかかっている。私に見られたというのに、珠美の顔には慌てた様子がなかった。
むしろ、ずっとこの瞬間を待っていたような落ち着きさえあった。
「隼人、何してるの?」
自分の声とは思えないほど、鋭い声が出た。
隼人がゆっくり振り返った。口元にはまだ水滴がついていた。けれどその目だけは、何かに焼かれたように異様に明るかった。
「うるさいな。珠美のそばにいるのが見えないのか」
「隼人、まだ欲しい?」
珠美が浴槽の中から手を伸ばし、彼の頬に触れた。
隼人はすぐに顔を伏せ、その手のひらに頬を寄せた。
「欲しい。珠美のものなら、全部欲しい」
「目を覚ましてよ! 珠美だよ? あなたが前に、近づくのも苦手だって言っていた相手じゃない!」
私は駆け寄り、隼人の腕をつかんだ。
次の瞬間、頬に強い衝撃が走った。
私は冷たいタイルの上に倒れた。耳の奥で、嫌な音が鳴り続ける。
結婚して三年。隼人がこんな目で私を見たことは一度もなかった。
それは怒りでも、後ろめたさでもない。
ほとんど嫌悪に近い冷たさだった。
浴槽の中で、珠美が笑った。
「美緒、自分の姿をちゃんと見たら? 痩せていて、つまらなくて、女らしさなんて少しもない。隼人を責めないであげて。男がどっちを選ぶかなんて、最初から分かっていたことでしょ」
珠美が隼人に向かって指を曲げた。
「隼人、こっちに来て」
隼人は迷わなかった。
彼はまた浴槽のそばに跪き、珠美に首へ腕を回されるままになった。二人は私の目の前で、ゆっくりと唇を重ねた。
胃の奥から何かがこみ上げた。私は壁に手をつき、吐き気をこらえた。
隼人が珠美から離れ、こちらを見た。
「出ていけ。邪魔するな」
私はふらつきながら家を飛び出した。
エレベーターの扉が閉まった瞬間、自分の手がずっと震えていたことに気づいた。
これは不倫なんかじゃない。
少なくとも、ただの不倫ではなかった。
2.彼がこんなふうになるはずがない
私は千葉の実家へ戻った。
母は私の頬に残った赤い跡を見るなり、持っていた湯飲みを落としかけた。そのままスマートフォンを取ろうとしたので、私は慌てて手首をつかんだ。
「お母さん、警察は呼ばないで」
喉が紙やすりでこすられたように痛かった。
父がリビングから出てきた。私の顔を見た瞬間、表情が硬くなった。けれど何も問い詰めなかった。玄関の灯りを少し明るくし、肩に掛けるものを持ってきてくれただけだった。
私は玄関に座り込んだまま、靴さえ脱げなかった。
何をどう説明すればいいのか分からなかった。
潔癖すぎてコンビニの揚げ物さえ口にしない夫が、家で他人の風呂の水を飲んでいた。体脂肪率を小数点以下まで管理していたパーソナルトレーナーが、突然、珠美を女神のように崇めていた。
そんな話をして、誰が信じるだろう。
私自身でさえ、まだ信じられなかった。
母はそれ以上、無理に聞かなかった。台所へ行って味噌汁を温め、客間の布団を敷いてくれた。父は廊下の端に座り、私を驚かせないような低い声で、明日は会社を休みなさいと言った。
部屋に入ってから、私は上司に年休申請のメッセージを送ろうとした。
会社で一番避けるべきなのは、突然連絡が取れなくなることだ。家の事情であっても、正式な手順で伝えなければならない。
画面が光ったまま、しばらく指が動かなかった。
ようやく私は一文だけ打った。
体調不良のため、明日一日休暇をいただきます。
送信したあと、スマートフォンの中に残っていた古い写真を開いた。
写真の隼人は、ジムの大きな窓の前で黒いトレーニングウェアを着て、清潔で明るい笑顔を浮かべていた。
あのころ、私たちは青山のジムで出会った。周囲からは、自律した二人でお似合いだと言われていた。隼人もよく、私たちの日常をSNSに載せていた。トレーニング食、朝のランニングコース、週末の低脂質弁当。そこには、整った生活だけが並んでいた。
「美緒、式の前は少しだけ頑張ろう。俺も一緒に食事を整えるから」
「今日は炭水化物が少し多かったね。夜に三十分だけ歩こう」
「いつか子どもができても、健康的な生活を一緒に続けたいな」
隼人の厳しさに、息苦しくなることはあった。
けれど悪意はなかった。私がこっそりケーキを一口食べても、彼は眉をひそめるだけだった。残りの半分を片づけて、翌日の散歩コースを送ってくる。
先週も、私の体重が〇・五キロ増えただけで、隼人は真剣に食事記録表を取り出した。食事、睡眠、飲水量、運動時間。細かく記録された表を見せながら、彼は仕事のストレスで生活リズムを崩さないようにと言った。
それは嘲笑ではなく、彼なりの気遣いだった。
そんな人が、たった数日で浴室のあの姿に変わるはずがない。
スマートフォンが震えた。
珠美から動画が届いていた。
画面には、私が家に置くことを許さなかった高糖質のミルクティーとフライドチキンのバケツが映っていた。隼人はソファの横に座り込み、珠美のふくらはぎを低い姿勢で揉んでいる。
珠美の声は、甘ったるく湿っていた。
「隼人、足がだるいの」
「もうそんなに歩かなくていい。俺が背負うよ。珠美はそのままでいい。体重なんて、一グラムも減らさなくていい」
隼人は珠美を見つめていた。
従順すぎるその表情は、私の知っている夫ではなかった。
スマートフォンを握る指先が冷えていく。
大学時代、珠美は体型と性格のせいで同級生から距離を置かれていた。私はずっと彼女のそばにいた。
珠美は人付き合いが得意ではなく、誰かの冗談を何日も覚えてしまうような人だった。私は彼女が少し敏感なだけだと思っていた。飲み会にも連れて行き、サークル活動でも席を取っておいた。
彼女が痩せたいと言ったとき、私は隼人に頼んで無料でトレーニングプランを作ってもらった。結婚前のことだ。
隼人は基礎的な評価だけをした。彼女の体に直接触れることはなく、測定は女性スタッフに任せた。トレーニングの強度も最低限まで下げていた。
けれど珠美は数日で泣き出した。隼人に侮辱されたと言い、それ以来ジムには二度と行かなかった。
あのとき、隼人は本気で怒っていた。
「俺に、彼女の努力を決めつける資格はない。でも、人の善意を攻撃されたと思い込むのは違う」
それなのに今、変えられているのは隼人のほうだった。
私は顔を洗い、鏡に映る自分を見た。
頬の赤みはまだ消えていない。さっき玄関の枠をつかんだときにできた浅い傷が、手のひらに残っていた。
離婚するにしても、真相を知らずに終わらせることはできない。
3.離婚協議書の罠
翌朝、私は豊洲のマンションへ戻った。
鍵は開いていた。廊下にはデリバリーの袋が積まれ、靴箱の前には珠美のサンダルが投げ出されている。彼女は大学時代から、派手で安っぽい装飾が好きだった。リボンとラインストーンが密集したそのサンダルは、我が家の冷たいグレーの床にひどく浮いていた。
リビングは荒れ放題だった。
フライドチキンの箱、ポテトチップスの袋、コーラの空き瓶がローテーブルと床に散らばっている。油の匂い、甘い匂い、汗の匂いが空気にこびりついていた。
毎日換気し、週に一度は徹底的に掃除するよう隼人が求めていた部屋は、一晩でまるで別人の住まいになっていた。
珠美はソファの大半を占めて座っていた。
隼人はその横に小さく座り、煮込み料理の入った器を持っている。スプーンで一口ずつ、珠美の口元へ運んでいた。
「珠美、口を開けて」
珠美はゆっくり飲み込み、横目で私を見た。
「美緒、よく戻ってこられたね」
隼人が顔を上げた。眉間にしわが寄る。
「何しに来た」
私は玄関に立ったまま、靴を脱がなかった。
「隼人、話がある」
彼は器を置いた。
その表情は、知らない人間を見るように冷たかった。
「話すことなんてない。美緒、離婚しよう」
「珠美のため?」
珠美が顎を上げた。勝ち誇ったような目だった。
「私を指差さないで。隼人が私を選んだのは、私のほうがきれいだからよ。私は大事なものを、ずっと残してきた。美緒は違うでしょ。前に付き合っていた人もいたんじゃない?」
私は珠美を見て、思わず笑ってしまった。
「珠美、自分が何を言っているか分かってる?」
隼人は私を見なかった。
ただ、珠美だけをぼんやりと見つめている。
「珠美は特別なんだ」
彼はローテーブルの下から書類を取り出し、私の前に投げた。
「離婚協議書だ。署名しろ。マンションも、預金も、車も全部置いていけ。何も持って出るな」
その書類は、ひどく雑に印刷されていた。日付の書き方さえ前後で違っている。最後には私の署名欄があるが、公正証書、債務、ローンの負担、財産目録に関する記載はどこにもない。
マンションは結婚後に二人でローンを支払ってきた住まいだ。頭金の一部には、私の婚前の貯金も入っている。その後の毎月の返済は共同口座から落ちていた。
預金の大半は私の給与と賞与だ。
車は、結婚前に両親が私のために用意してくれたもので、名義も私のままだった。
それなのに、その書類は私のほうが追い出されるべき人間だと言わんばかりに書かれていた。
隼人が指先でローテーブルを叩いた。音が急かすように重なる。
「これは珠美に残す。彼女には、これから面倒を見てくれる人が必要なんだ」
私は書類を閉じ、テーブルの上へ戻した。
「この内容では、法的には通らない。財産分与は、あなたの一存で決められるものじゃない。婚前の個人財産も、勝手に誰かへ渡せるものじゃない」
隼人の目が陰った。
「署名しないのか」
「しない」
珠美の顔色が変わった。
彼女はゆっくりと身を起こした。ソファの革が、鈍い音を立てる。
「美緒って、本当に現実的なんだね。隼人に捨てられたのに、まだお金にしがみつくんだ」
私はポケットの中のスマートフォンを握った。
録音を示す赤い点が、静かに点滅している。
「珠美、あなたは今ここに住んでいるけど、私の同意もないし、賃貸契約もない。管理規約にも、長期滞在者は届け出が必要だと書いてある。管理会社に話がいって困るのは、あなたのほうじゃない?」
珠美の表情が一瞬だけ固まった。
隼人が立ち上がり、彼女の前に立つ。
「そういうことで脅すな」
私はもう二人を見なかった。
出ていく前に、戸籍謄本のコピー、印鑑証明に関する古い資料、銀行明細の一部を持ち出した。
エレベーターの扉が閉まったあと、私はスマートフォンを開き、録音が保存されていることを確認した。書類の写真もクラウドにアップロードした。
この結婚がここまで来たのなら、せめて財産と責任だけは、二人の勝手な言葉で決めさせない。
4.助けを求める電話
私はそのまま都心の法律事務所へ向かった。
事務所は有楽町近くのオフィスビルに入っていた。受付は静かで、壁には数名の弁護士のプロフィールが掲げられている。私を担当してくれたのは藤原律子弁護士だった。
名刺に載っている写真より、実物のほうが穏やかに見えた。
藤原先生は、すぐに結論を出そうとはしなかった。
まず時系列で出来事を書き出すよう求められた。浴室、平手打ち、動画、離婚協議書、財産の要求。その一つ一つに日付をつけ、資料をパソコンに保存していく。
録音を聞き終えたとき、先生の表情は重くなっていた。
「財産分与の観点から見れば、相手方が出してきた内容には合理性がありません。マンション、預金、車については、実際の出資、婚姻期間中に形成された共有財産、婚前財産の性質を分けて整理する必要があります。ただ、ご主人の様子はかなり不自然ですね。単なる不倫だけで説明するには、違和感があります」
「私も、そう思っています」
藤原先生の視線が、私の頬に残った赤みに移った。
「離婚調停の準備はできます。ただ、まずは証拠を残し続けてください。録音、メッセージ、写真、相手から送られてきた動画は消さないでください。暴力や薬物の可能性があるなら、何より先にご自身の安全を確保してください」
「できるだけ早く、調停を申し立てたいです」
先生は説明資料を開いた。
「協議で離婚できない場合は、家庭裁判所で夫婦関係調整調停を行うことになります。双方が別々に事情を話し、調停委員が財産資料や離婚原因を確認します。今は、相手と私的に書面を交わさないこと。SNSで相手の情報を公開しないこと。この二つは必ず守ってください」
私は頷こうとした。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
画面には、隼人の名前が表示されていた。
少し迷ってから通話ボタンを押し、同時に録音を開始した。
「隼人」
すぐには声が聞こえなかった。
電話の向こうから、重い呼吸だけが聞こえる。
「美緒……」
背中が少しずつ強張っていく。
「隼人?」
「助けて……違う……俺じゃ……ない……」
通話はそこで切れた。
スマートフォンを握ったまま、私はソファの上で固まった。
数秒後、バッグをつかんで立ち上がる。
「藤原先生、調停の件は一度止めてください。私、戻らないと」
先生も立ち上がった。声がさっきより低くなる。
「一人で室内に入らないでください。まず位置と状況を確認して、危険だと思ったらすぐに通報してください。今は無理をする場面ではありません」
事務所を出た私は、タクシーを拾った。
窓の外を、東京の街が流れていく。銀座の看板、日比谷の木々、晴海通りの車列。そのすべてが、薄い膜の向こう側にあるように見えた。
頭の中には、切れかけた声だけが残っていた。
俺じゃない。
もしそれが言い訳ではなく、本当だったら。
身体能力の高い男性が、数日のうちに狂信的で鈍く、従順な状態になった。極端に失うことを嫌う人間が、かつて耐えられなかったものを突然受け入れ始めた。
これは心変わりではない。
何かに支配されているようだった。
タクシーが勝どき橋を渡るころ、遠くに豊洲のタワーマンション群が見えた。そこは、隼人と一緒に選んだ家だった。
通勤の便利さ、眺望、管理体制の安全性。私たちは何度も話し合い、最後にあの部屋を選んだ。隼人は言っていた。
きれいで、静かで、生活を整え直すのに向いている。
今、その場所は秘密を閉じ込めたガラスの箱のように見えた。
5.水筒の底に残った粉
私はすぐには部屋へ上がらなかった。
もし珠美に本当に問題があるなら、何も考えずに飛び込むのは危険だった。自分まで巻き込まれるだけだ。
マンションの外の植え込み近くに身を隠し、エントランスを見張った。
豊洲の海風は少し冷たく、指先がこわばった。下のコンビニは明るく、帰宅する住人たちが次々にカードキーで中へ入っていく。警備室からはテレビニュースの音が漏れていた。
すべてがあまりにも普通で、その普通さが怖かった。
三十分ほどして、珠美が出てきた。
鮮やかな赤いワンピースを着て、大きなゴミ袋を持っている。歌うような鼻声を漏らしながら、ゴミ置き場へ向かった。
袋の口はきちんと結ばれておらず、デリバリーの容器、空き瓶、使用済みの紙類が見えていた。彼女はそれを放り込み、スマートフォンを操作しながらコンビニのほうへ歩いていく。
珠美が店内へ入ったのを確認してから、私は予備の鍵で部屋へ入った。
室内の匂いは、昨日よりさらに重くなっていた。
リビングは異様に静かだった。寝室にも人はいない。ローテーブルには、開封済みのドラッグストアのレシートが数枚と、空になった栄養補助食品の箱が置かれている。
隼人なら、出所の分からないサプリメントなど絶対に買わない。プロテインでさえ、成分認証のあるメーカーしか使わなかった。
浴室の扉が半分開いていた。
中から、水滴が落ちる音がした。
扉を押し開けると、隼人が浴槽の横に倒れていた。体にはバスタオルが一枚かけられているだけだった。
ひどく痩せていた。目の下は落ちくぼみ、顔色は黄色っぽい。口元には、よだれの跡が残っていた。
「隼人」
彼は目を覚まさなかった。
ただ、指先がかすかに震えた。
洗面台の上には、隼人のスポーツボトルが置かれていた。ジムの周年記念で作られたもので、本体には彼の名前のローマ字の頭文字が入っている。
ボトルの底には、白い粉が沈んでいた。水に溶け切らず、縁に粘るように残っている。
心臓が速く打ち始めた。
私はバッグから旅行用の小さな空きボトルを取り出し、残っていた水と粉の一部を移した。
そのとき、玄関の外から足音が聞こえた。
重く、ゆっくりとした足音が、一歩ずつ近づいてくる。
私は小瓶を服の内側に入れ、スポーツボトルを元の位置へ戻した。
玄関の扉が開いた。
珠美が立っていた。手にはコーラのボトルが二本ある。
私を見た瞬間、彼女の笑みが消えた。
「美緒、どうやって入ったの?」
「離婚手続きで使う書類を取りに来ただけ」
珠美は目を細め、数秒間じっと私を見た。
「取ったら出ていって」
私は寝室へ入り、戸籍関係の資料を探した。
引き出しの中は、ひどく荒れていた。隼人の腕時計とトレーニング記録ノートが押し込まれ、その横に珠美の口紅と菓子の包装が詰め込まれている。
あの記録ノートは、本来なら毎日更新されていた。
けれど最後の記録は、五日前で止まっていた。
リビングを通ったとき、視界の端で珠美がスポーツボトルを手に取るのが見えた。
彼女はポケットから何かを出し、水に加えた。軽く振って混ぜると、そのまま浴室へ向かう。
「隼人、水よ。飲まないと、私の相手もできないでしょ」
隼人は半分だけ目を開け、本能のように口を開いた。
私はそれ以上、そこにいなかった。
部屋を出たあと、都内の民間検査機関へ向かった。
大学時代、薬学部にいた同級生の森田がそこで働いていた。学生のころから、彼はよく研究室で徹夜していた。近況を尋ねるより先に、サンプルの由来と保存状態を確認するタイプの人だった。
私は小瓶を差し出した。
「加急でスクリーニング検査だけでもできる?」
森田は瓶の底の沈殿を見て、表情を険しくした。
「正式な司法鑑定書はうちでは出せない。あくまで初期検査だよ。それは分かってる?」
「分かってる」
三時間後、森田は報告書を持って出てきた。
顔色が悪かった。
「美緒、これ、どこから採った?」
「夫のボトル」
彼は報告書を私の前に置いた。
「高濃度の規制薬物に近い成分が出ている。それに、意識混濁や認知の乱れを起こす可能性のある成分も混じっている。継続的に摂取すれば、幻覚、依存、判断力の低下が出てもおかしくない。ひどい場合は、神経系にダメージが残る」
数値を見つめながら、指先の感覚が少しずつ消えていった。
珠美は、隼人を奪ったのではない。
壊していたのだ。
6.隠しカメラが映した真実
検査報告書を持って、私は藤原先生のところへ戻った。
先生はそれを読み終えると、すぐに表情を変えた。
「これはもう離婚だけの問題ではありません。刑事事件です」
「今すぐ警察に相談できますか」
「できます。民間検査の結果は通報のきっかけにはなります。ただ、正式な証拠には警察や病院での鑑定が必要です。薬物を彼女が投与していると分かるものがあれば、現場の危険性を判断しやすくなります」
私はスマートフォンに残っていたレシートの写真、ボトルの写真、通話録音を先生に見せた。
藤原先生は一つずつ確認し、すべてパソコンに保存してくれた。
「ご自宅に防犯カメラはありますか」
「以前、猫を見るために設置したものがあります」
私はスマートフォンのアプリを開いた。
画面は真っ暗だった。
カメラはいつの間にかオフラインになっていた。
藤原先生は少し沈黙した。
「再度映像を残すなら、ご自身の居住空間内で、必要最低限の範囲にしてください。できるだけ狭い範囲で、重要な行為だけを記録する形が望ましいです。それから、一人で行動しないこと。彼女と正面からぶつからないこと」
そのとき、電話が鳴った。
マンションの管理会社からだった。
「神谷様、下階の住戸から天井の水漏れと異臭について連絡が入っています。今から確認にお戻りいただくことは可能でしょうか」
「すぐ戻ります」
通話を切ると、藤原先生が私を見た。
「今回は管理会社と警備員が一緒にいるなら戻れます。重要な行為が撮れたら、すぐに通報してください。ご自身で止めようとしないで」
私は近くの家電量販店へ行き、充電プラグに見える小型カメラを買った。
パッケージの説明は曖昧だった。店員は、違法な盗撮には使わないようにとだけ注意した。私は頷いたが、気持ちは少しも軽くならなかった。
管理会社の担当者と警備員と一緒に上がるとき、私は帽子とマスクをつけ、人の後ろに立った。
インターホンは長く鳴った。
ようやく珠美が扉を開けた。
「何を調べるんですか。水漏れなんてしてません」
管理人が中を確認しようとし、厳しい声を出した。
「下階ではすでに水が落ちています。浴室と配管の確認が必要です」
珠美は玄関を塞いだ。
「ここは個人の住居です。勝手に入らないでください」
管理人は住戸連絡の記録を見せた。
「所有者のお一人とは連絡が取れています。水漏れは下階住戸と共用部分に影響しますので、ご協力ください」
珠美の視線が管理人の顔から私へ移った。
私が誰なのか判断しようとしている目だった。
私はうつむいたまま、何も言わなかった。
珠美が管理人と浴室のほうで言い争っている間に、私はリビングへ入った。ローテーブルとウォーターサーバーが映る位置のコンセントに、カメラを差し込む。
数秒のことだった。
それでも、心臓の音が部屋じゅうに響いているように感じた。
数分後、私は管理会社の人たちと一緒に部屋を出た。
マンションの下のベンチに座る。
スマートフォンの画面に、室内の映像が映った。
リビングでは、管理人を送り出した珠美が低く悪態をついていた。彼女はローテーブルの前に立ち、ワンピースのポケットから小さな紙包みを取り出す。
白い粉を、隼人のボトルへ注いだ。
「飲んで。最後には、隼人は私の言うことだけ聞くようになるんだから。美緒の何がいいの? 本当に好きなのは、私だけなのに」
珠美は笑った。
ボトルを手に取り、寝室へ向かう。
手のひらに汗がにじんでいた。
録画時間が一分を過ぎたところで、私は通報した。
「通報です。夫が長期間、規制薬物のようなものを飲まされている可能性があります。民間検査の報告書と、現在録画中の映像証拠があります」
電話の向こうの声は落ち着いていた。
住所、階数、現場の人数、危険の有無を確認された。私は指示に従い、安全な場所に留まった。藤原先生の連絡先も送った。
通話を終えて、私はマンションを見上げた。
三十階のどこか一つの窓に、灯りがついている。
そこには、かつて守りたいと思った家があった。
同時に、私が自分の手で暴かなければならない真実もあった。
7.彼女はそれを愛だと言った
警察はすぐに来た。
最初に制服警察官が二人到着し、そのあと刑事と救急隊員が続いた。
私が彼らを部屋まで案内したとき、廊下にコップの割れる音が響いた。
「警察です。開けてください」
室内で何かが倒れる音がした。
扉が開けられた瞬間、珠美は隼人の上に覆いかぶさるようにしていた。ボトルを彼の口元へ無理やり押しつけている。
隼人は必死に顔をそらし、水が服にこぼれていた。
「飲まない……飲みたくない……」
珠美は警察を見て、全身を硬直させた。
「何ですか。ここは友達の家です。私は彼の面倒を見ていただけです」
警察官はすぐに珠美を制止した。
現場からは、使い切られていない薬物らしき粉末も見つかった。救急隊員が隼人のそばに屈み、意識、脈拍、瞳孔反応を確認する。
隼人の腕は力なく垂れ、唇は白かった。
呼吸をすることさえ、誰かに思い出させてもらわなければならないように見えた。
警察官が証拠品袋を取り出した。
「大沢珠美さん、傷害および薬物関連法違反の疑いがあります。署まで同行してください」
「薬じゃない! サプリよ! 私は隼人を愛してるだけなの!」
珠美は暴れた。
視線が警察官を越え、ベッドのそばの隼人に向かう。
「隼人、何か言ってよ! 私はあなたのためにやったの!」
隼人はベッドの端で小さくなっていた。
焦点の合わない目が、ゆっくりと私を見つける。
その瞬間、ようやく目の前の人間が誰なのか分かったようだった。
「美緒……来て……くれたんだ……」
私は駆け寄らなかった。
抱きしめもしなかった。
ただ、玄関のそばに立ったまま、彼がまだ生きていることを確認した。
珠美が連行されたあと、警察は映像、検査報告書、現場の物証を確認した。
リビングにあったボトル、紙包み、プロテインの容器、ゴミ袋は、それぞれ証拠品として封じられた。警察署で事情聴取を受けることになり、藤原先生も駆けつけてくれた。
先生は私に、事実だけを話すよう念を押した。
誰かの気持ちや意図について、勝手に推測して答えないこと。
隼人は病院へ搬送され、薬物検査と治療を受けることになった。
その後の捜査で、珠美はかなり前から隼人に執着していたことが分かった。
私たちの結婚を見て、SNSで共有していた日常を見て、嫉妬は少しずつ歪んだ執着に変わっていった。彼女は私たちの投稿をほとんどすべて保存していた。私が載せた朝のランニング写真、弁当の写真、記念日の写真まで、日付順に分類していたという。
珠美は違法なルートで規制薬物を入手していた。
最初は隼人のパーソナルトレーニングを申し込み、彼が目を離した隙に水へ混ぜたらしい。そのときの量は少なく、短時間ぼんやりする程度だった。隼人は睡眠不足だと思い、ジム側も連続レッスンの疲れだと判断していた。
その後、珠美は我が家へ遊びに来たとき、プロテインに薬物を混ぜた。
最初はごく少量だった。精神がぼんやりする程度だったという。けれど彼女は少しずつ量を増やし、隼人の認知を乱していった。
嫌悪を依存だと錯覚させ、抵抗を服従へ押し潰すように。
私が浴室の光景を見たとき、隼人はすでに自分をうまく制御できない状態に追い込まれていた。
医師は言った。
あと数日遅ければ、神経系に不可逆的な障害が残っていた可能性もある、と。
私は病院の廊下に座り、窓の外の東京の夜景を見ていた。
スマートフォンには、会社のグループチャットが次々と表示されている。いつ戻れるのかと尋ねる人、顧客資料を送ってくる人。
そこには、普通の生活があった。
私はその文字を見つめながら、自分だけがとても遠い場所にいるような気がした。
藤原先生が隣に座り、紙コップの温かい水を置いてくれた。
「ここからが長くなります。刑事事件、治療、離婚の問題。どれも、すぐには終わりません」
私は水を見た。
手を伸ばすことはできなかった。
勝ったという感覚はなかった。
ただ、冷たかった。
8.助けたけれど、もう愛せない
隼人は長く入院した。
胃洗浄、点滴、薬物の代謝を促す治療、精神科での診察、カウンセリング。一つ終わると、また次の処置が待っていた。
主治医の説明は慎重だった。
薬物の影響で多くの行動は説明できる。けれど、説明できることと、傷が消えることは別だ。
意識がはっきりしてから、隼人は最初にトイレへ駆け込んだ。立っていられなくなるほど吐いた。
自分がしたことを受け入れられなかった。医師や警察が、薬物の影響下で起きたことだと説明しても、隼人は自分を許せなかった。
看護師が水を持ってくると、彼は長い間コップを見つめた。最後には、未開封のペットボトルに替えてほしいと頼んだ。
シャワーを浴びるときは、浴室の扉を少し開けておかなければならなかった。中に水が張られていないことを、何度も確認していた。
退院後、隼人は家の浴槽を壊した。
珠美が触れたものをすべて捨てた。口腔ケアを一通り受け、それでも毎日何度も歯を磨いた。歯茎から血が出ても、やめられなかった。
ジムは、彼のレッスンを一時的に停止した。会員には健康上の理由で休養すると説明した。
パーソナルトレーナーとして、隼人自身が一番よく分かっていたのだ。精神状態と身体状態が崩れている人間が、他人のトレーニングを指導すべきではないことを。
ある夜、隼人は私の前で膝をついた。
「美緒、ごめん」
痩せた顔を見ながら、胸の奥に重いものが沈んだ。
彼が被害者だということは分かっている。
それでも私は、浴室で見た光景を忘れられなかった。あのとき隼人が私へ向けた嫌悪の目を忘れられなかった。心に突き刺さった言葉を、なかったことにはできなかった。
数か月後、珠美の判決が出た。
彼女は傷害罪、規制薬物の所持および使用などで実刑判決を受けた。隼人の治療費と精神的損害に対する賠償も命じられた。
法廷で珠美は泣き叫んだ。
自分はただ愛していただけだ、と。
けれど、そんな所有欲を愛と呼ぶ人は誰もいなかった。
判決前、私は一度だけ拘置所へ面会に行った。
ガラス越しの珠美は、拘置所の服を着ていた。目だけが冷たく濁っている。
「美緒、あなたの勝ちね」
私は何も言わなかった。
「でも隼人は、一生私を忘れない。水を飲むたび、お風呂に入るたび、私のことを思い出すんだから」
私は受話器を持ち上げた。
「珠美、あなたは誰かを愛したことなんてない。ただ、人のものを奪える自分を証明したかっただけ」
珠美の笑みが固まった。
「あなたは隼人を壊した。そして、自分自身も壊した。これからの時間で、ゆっくり考えればいい」
私は受話器を置き、席を立った。
一年後、隼人の体は少しずつ回復した。
ジムの仕事にも戻った。ただし、以前のように厳しく体脂肪率や自律を口にすることはなくなった。
レッスンの内容も変わった。
昔の隼人なら、会員に食べたものを一口単位で記録させていた。今はまず、眠れているか、体重の数字に追い詰められていないかを尋ねるようになった。
彼はようやく理解したのだ。
身体管理は、人を支配するための言葉ではない。
私たちの生活は、表面上は落ち着きを取り戻した。
私は丸の内の会社に戻り、週末には千葉の実家へ顔を出した。隼人は決められた日に病院へ通い、帰宅後は自然に距離を保った。
彼はもう私の水には触れなかった。
私が浴室にいるとき、扉の近くに来ることもなかった。
周囲の人は、私たちが大きな災難を乗り越えたのだと思っていた。
けれど私だけは知っていた。
私は彼を深い水の中から引き上げた。
でも、もう同じ岸へ戻ることはできない。
結婚記念日の夜、隼人は食卓に料理を並べた。
それは以前の彼が好んだ極端な低脂質食ではなかった。焼き魚、味噌汁、かぼちゃの煮物、それから私の好きな玉子焼き。
ごく普通の家庭料理だった。
隼人は魚を一切れ私の茶碗にのせ、恐る恐るこちらを見た。
「美緒、見捨てないでくれてありがとう」
私は箸を置いた。
「隼人、離婚しよう」
彼の手が宙で止まった。
「どうして。珠美はもう判決を受けた。俺たちは、やり直せていたんじゃないのか」
「助けたのは、あなたがかつて私の家族だったから。でも、もうあなたの妻には戻れない」
隼人は長く黙っていた。
部屋には、時計の針の音だけが響いている。
私はこの一年、ずっと胸の奥に押し込めていた言葉を出した。
「あれはあなたの意思ではなかった。分かってる。でも、私の中ではもう傷になっている。あなたが近づくたびに、あの記憶が戻ってくる」
隼人はうつむいた。
声がかすれていた。
「分かった。美緒、マンションも預金も、君に残す。償いじゃない。ただ、俺にできる最後のことだ」
私は断らなかった。
その後の手続きは、思っていたより静かに進んだ。
藤原先生が財産資料を整理し、マンションのローン、共同預金、車の名義、慰謝料に関する事項を確認してくれた。隼人は何も争わなかった。
最後に署名したときだけ、彼は私を一度見た。
何かを言いたそうにして、それでもペンのキャップを戻した。
離婚届を出した日、区役所の前はまぶしいほど晴れていた。
ベビーカーを押して通り過ぎる人がいた。婚姻届を手にして写真を撮っている人もいた。
人生の始まりと終わりは、同じ建物の中で静かに順番を待っている。
隼人は日陰に立ち、小さく手を振った。
私は一度だけ振り返った。
この人は、かつて私の愛した人だった。
その後、私の悪夢になった。
最後には、私が救い出した見知らぬ人になった。
私は前を向いて歩き出した。
その先には、新しい生活がある。
歪んだ友情も、修復できない結婚もない。
そこにいるのは、私だけだった。




