アヌビスの天秤と、真実のプリン 〜うちの姉ちゃんは古代文明を実践したい〜
これは俺が古代ローマに似た異世界へと転生するよりずっと前、姉と過ごした思い出の一幕―――――
※
四月の放課後。新学期特有の少し浮き足立った空気が落ち着き始めた頃。
俺、川背匠は、リビングのテーブルで頭を抱えていた。
目の前には、広げっぱなしの理科の教科書と、真っ白なプリント。
「……てこの原理。支点、力点、作用点……天秤が釣り合う条件……?」
小学六年生になって最初の壁。
それが『てこの原理』と『上皿天秤』だった。
教科書には『重さ×支点からの距離=重さ×支点からの距離』なんていう公式が書いてあるけれど、文字の羅列を見ているだけで頭が痛くなってくる。
「どっちに分銅を乗せるんだっけ? 利き手と逆? それとも利き手?」
ルールがごちゃごちゃになり、俺はシャーペンを投げ出した。思考停止。糖分が必要だ。
「休憩だ休憩。冷蔵庫に『極上焼きプリン』があったはず」
昨日、楽しみにとっておいた、とろけるようなカスタードの塊。今の俺を救えるのはアイツしかいない。
意気揚々とキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けた俺は、その場で凍りついた。
―――あるはずのプリンがない。
黄金の輝きが鎮座しているはずのスペースは空っぽで、代わりに一枚のメモが置かれていた。
『罪深き魂よ。甘き果実を欲すれば、審判の間へ来るがよい』
画用紙の切れ端には、筆ペンで書かれた仰々しい文字と、象形文字のような下手ウマなイラスト(たぶん犬と羽?)が添えられている。
この家で、こんな手の込んだ真似をする人間は一人しかいない。
俺はため息をつくと、理科のプリントを放り出し「審判の間」―――姉ちゃんの気配がする隣の和室へと向かった。
◇
ふすまを開けた瞬間、独特の香りが鼻をついた。
線香のようだがもっとスパイシーな、アロマの匂い。
遮光カーテンが完全に閉め切られ、昼間だというのに薄暗い部屋の中央に、それはいた。
「ようこそ、死者の広間(マアトの法廷)へ」
姉の真綾だ。
だが、いつものジャージ姿ではない。
白いシーツを巧みに体に巻きつけ、古代エジプトの『カラシリス』のような優雅なドレス風に着こなしている。
二の腕や肩が露出していて、姉とはいえ目のやり場に少し困った。
首元にはジャラジャラとした金色のネックレス。目元はアイライナーでくっきりと縁取られ、切れ長の瞳が怪しく輝いている。
そして何より―――
「姉ちゃん……その耳、どうしたの?」
姉ちゃんの頭には、黒くてフワフワした『犬耳』のカチューシャが乗っかっていた。
「黙りなさい。私は冥界の神、アヌビス。これはネット通販で取り寄せた本格仕様よ」
真綾姉ちゃんが犬耳をピクリと動かして(どういう仕組みなんだ?)ニヤリと微笑んだ。
正直、悔しいけれど似合っている。
俺が少々オタクなせいで、犬耳という属性があまりに刺さりすぎた。
犬耳がマッチしていて、不覚にも姉ちゃんがドキッとするくらい可愛いく見えてしまった。
「ここは『マアトの法廷』。お前の理科の成績が悪いという罪を、この天秤で量らせてもらうわ!」
「なんで俺の成績のこと知ってんだよ!」
「ふん、お前のカバンから漂う『未回答プリントの波動』など、神の目にはお見通しよ」
姉ちゃんはバサリとシーツの裾を翻すと、部屋の奥を指差した。
そこには、図鑑を何冊も積み上げて作った「土台」の上に、長い物干し竿を乗せた、部屋いっぱいの巨大な天秤装置が鎮座していた。
「いい、匠。上皿天秤の仕組みを理解するには、まず『てこ』の本質を身体で知る必要があるの」
姉ちゃんは物干し竿の左端に、ビニール袋に入った瑞々しい『大粒のイチゴ』をぶら下げた。
「これはお前の心臓。罪の重さを象徴するものよ」
そして反対側、右端のフックにも、スーパーのビニール袋に入った『ドッグフード一粒』をぶら下げる。
「これは真実の羽。ダチョウの羽の代わりに、きなこのカリカリで代用するわ」
「バランス悪くない? イチゴとドッグフードじゃ、釣り合いとれないよ!」
俺がツッコミを入れた瞬間、足元のクッションがモゾモゾと動いた。
ミニチュアダックスのきなこだ。
首には『アメミット(魂を喰らう怪物)』と書かれた段ボールの札が下げられている。
「グルル……(イチゴの匂いがする……)」
きなこは短い足をテコテコと動かし、イチゴの下へ移動すると、期待に満ちた目で「バウッ!」と短く吠えた。
ミニチュアダックス特有の、胴長短足ボディが、獲物を狙って低い姿勢をとっている。
「このままだと、アメミット(きなこ)に心臓を喰われ、おやつのプリンも没収よ!」
「イチゴを喰われるのも、プリン没収も困る!」
「なら釣り合わせなさい! 重い心臓と、軽い羽を! てこの原理を使って!」
◇
「てこの原理……?」
俺は巨大な天秤を見上げた。
左側には重そうな大粒イチゴ。右側には軽いドッグフード。
当然、イチゴの重みで竿は左に大きく傾いている。
きなこが後ろ足だけで立ち上がり、プルプルと腹筋を震わせながら、ぶら下がったイチゴに鼻先を近づけようとしていた。
「きゅぅ〜ん……(あとちょっとなのに)」
「急ぎなさい、匠。アメミットの我慢も限界よ」
姉ちゃんが、アヌビスの杖(突っ張り棒)で床をトンと突く。
「えっと、釣り合わせるには……重さを変えられないなら、場所を変えるのか?」
俺は恐る恐る、右側のドッグフード(羽)の袋に手を伸ばした。支点(真ん中)に近い位置にある袋を、外側へとずらしていく。
「支点から遠ざければ、力は大きくなる……ここか?」
ズリズリと袋を端へ移動させる。竿がギギギと音を立てて揺れた。
少しだけイチゴが持ち上がったが、まだ足りない。
「甘い! 迷いがあるわ!」
突然、背後から姉ちゃんの気配が近づいてきた。
香水のようないい匂いが、ふわりと俺を包み込む。
「もっと大胆に。モーメントを感じなさい」
姉ちゃんが俺の背後から覆いかぶさるようにして、俺の右手ごとドッグフードの袋を握った。
近い。
背中に、シーツ越しに姉ちゃん(犬耳付き)の柔らかい感触が当たるか当たらないかの距離。
その近さが何だかくすぐったく感じて、俺は思わず肩をすくめた。
「ねえ、姉ちゃん、近いって……」
「静粛に。これは神託よ」
姉ちゃんは真剣だ。
俺の小言なんて気にもとめない。
「ここよ。このポイント」
姉ちゃんが俺の手を誘導し、ドッグフードを竿のギリギリ一番端っこまで移動させた。
「ガレノスの医学書によれば、脈拍の上昇は集中力の欠如を示唆するわね……匠、顔が赤いわよ?」
姉ちゃんが覗き込んでくる。
至近距離にあるアヌビスのメイクと、長いまつ毛。そして無防備な鎖骨(と、犬耳)。
俺は慌てて視線を逸らし、竿の先を見た。
「う、うるさいな! ほら、釣り合った!」
俺の声に反応するように、物干し竿がゆっくりと水平になった。
支点からの距離を最大まで取った軽いドッグフードが、重いイチゴと完全な均衡を保ったのだ。
「できた……! 釣り合ったぞ!」
「ふふん、やるじゃない。軽い羽でも、距離を稼げば重い心臓と釣り合う。これがてこの魔法であり、物理法則の美しさよ」
姉ちゃんが満足そうに頷き、俺から離れた。
背中の温もりが消えて、俺はホッと息を吐いた。
その時だった。
「ワンッ!」
バランスが取れて安定したイチゴに、下で待ち構えていたきなこが、ここぞとばかりに飛びついた。
ベロリ。
ピンク色の舌が、真っ赤なイチゴの表面を舐める。
「わーーっ! アメミットがフライングした!」
「こらきなこ! 儀式の最中よ! まだ食べちゃダメ!」
姉ちゃんが慌ててきなこを抱き上げる。
きなこは「解せぬ」といった顔で、ダックス特有の長い胴体をビローンと伸ばして脱力し、恨めしそうにイチゴを見つめていた。
アヌビス神の威厳が崩壊し、ただの犬好きな姉ちゃんに戻った瞬間だった。
◇
翌日の理科の時間。
理科室では、昨日俺が苦戦していた『上皿天秤』を使った実験が行われていた。
「じゃあ次、川背くん。この分銅を使って、消しゴムの重さを量ってみて」
先生に指名され、俺は実験台の前に立った。
クラスメイトの視線が集まる。いつもなら緊張するところだが、今日は違った。
昨日の物干し竿の感覚が、右手に残っていたからだ。
(……上皿天秤は、支点が真ん中にある。つまり距離は一定だ)
目の前の天秤を見る。
脳裏に、黒い犬耳をつけた姉ちゃんの姿と、揺れるイチゴが浮かぶ。左の皿はイチゴ(量りたいもの)。右の皿は羽(分銅)。
俺は迷わず左の皿に消しゴムを置いた。ガチャン、と皿が下がる。
そして、ピンセットで分銅を右に乗せていく。
(まだ傾いている。心臓が重い……なら、羽を足す!)
「右に傾いたら、軽い分銅に変える……」
俺の手つきには迷いがなかった。
竿の傾きを見ただけで、「あとどれくらいの重さが必要か」が感覚的にわかるのだ。
あの巨大な物干し竿でのダイナミックな実験に比べれば、小さな天秤の動きなんてスローモーションに見える。
針がピタリと中央で止まる。
「……12グラムです」
「おお、速いな川背。手順も完璧だ」
先生に褒められ、俺は小さくガッツポーズをした。
ありがとうアヌビス神。ありがとうアメミット。
そして、あのちょっとドキドキした密着指導も、無駄じゃなかったみたいだ。
◇
帰宅後。
俺は「大変よくできました」の赤いハンコがついたプリントを、リビングのテーブルに置いた。
「姉ちゃん、見て。実験、完璧だったよ」
ソファでくつろいでいた姉ちゃんは、プリントを手に取ると、口元をニヤリと緩めた。
今の姉ちゃんはメイクを落とし、ジャージ姿に戻っている。でも、なぜか頭にはまだあの犬耳カチューシャが乗っていた。
「当然よ。冥界の試練を乗り越えた者が、現世の天秤ごときで躓くはずがないわ」
彼女は冷蔵庫から、約束の『極上焼きプリン』を取り出し、俺に渡した。
「審判の結果、無罪放免。楽園の味を楽しんでいいわよ」
「やった! いただきます!」
俺はスプーンでプリンをすくい、口へと運ぶ。
とろりとした甘さが口いっぱいに広がる。苦労の末に勝ち取った甘さは格別だった。
プリンを食べながら、ふと思い出して尋ねる。
「あ、昨日のイチゴは?」
「きなこが舐めちゃったから、洗ってイチゴジャムにしたわ。加熱すれば安心だしね」
「……俺の心臓、煮込まれちゃったんだ」
「ふふ、熱いハートになったじゃない。よかったわね」
姉ちゃんが頭の犬耳をピコピコと動かして笑う。
俺がじっとその耳を見ていると、姉ちゃんは急に視線に気づいたのか、顔を少し赤くしてプイッと横を向いた。
「な、なによ。まだ着けてるのが変だって言うの?」
「いや……似合ってるよ。可愛いと思う」
「っ!?」
姉ちゃんが驚いて何度も瞬きをしたのが分かった。彼女は視線を泳がせ、手元にあった本で顔半分を隠す。
「……バ、バカじゃないの。これはただの実験用装備で……古代の精神との同調率を高めるための……」
早口で何かブツブツと言い訳をしている。
足元では、きなこが「次は本物の肉をよこせ」という顔で俺の足の甲に顎を乗せ、上目遣いで「クゥ〜ン」と鳴いていた。
俺はジャムになった自分の心臓と、照れ隠しに必死なコスプレ好きの姉に苦笑しながら、平和な夕暮れを過ごすのだった。
本作をお読みいただきありがとうございます。
お楽しみ頂けましたら★★★★★評価お願いいたします。
【お知らせ】
2月06日(金)から2月22(日)までの17日間、17時30分に毎日投稿します。
スケジュール
06金曜:武器物語25話
07土曜:うちの姉ちゃん〜コンビニ編
08日曜:うちの姉ちゃん〜テコの原理編
09月曜:武器物語26話
10火曜:うちの姉ちゃん〜洗濯編
11水曜:武器物語27話
12木曜:うちの姉ちゃん
13金曜:武器物語28話
14土曜:うちの姉ちゃん〜バレンタイン編
15日曜:うちの姉ちゃん〜ローマのプリン編
16月曜:武器物語29話
17火曜:うちの姉ちゃん〜雪玉編
18水曜:武器物語30話
19木曜:うちの姉ちゃん〜『蜻蛉切』編
20金曜:武器物語31話
21土曜:うちの姉ちゃん〜猫の日前日譚
22日曜:武器物語・特別短編
ぜひ、お付き合いのほど、よろしくお願いいたします。
【匠の「その後」の物語はこちら!】
本作で匠たくみが学んだ「無駄すぎる知識」が、異世界で最強の武器になる――!?
匠が古代ローマ風異世界に剣闘士として転生し、姉ちゃんの知識で成り上がる本編、『転生式異世界武器物語』も好評連載中です!
本編では実在した武器の“武器解説”、絵師様による“挿絵”付きの豪華な長編となっています。
ぜひ合わせてチェックしてみてください!
『転生式異世界武器物語』
https://ncode.syosetu.com/n3948lb/
※こちらのイラストにはAIを使用して製作しております。




