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最強の父は剣を抜かない—娘の「おかえり」を守るために料理をする—

作者: 星渡リン

 夕暮れの風は、パンの匂いを運んでくる。

 辺境の小さな町ハルツにある食堂――看板には、少し不恰好な文字でこう書かれていた。


【カエリ飯亭】


 扉の鈴が鳴るたびに、店の奥の厨房から湯気がふわりとこぼれる。

 その湯気の中に、いつも同じ男がいる。


 カイ。

 太い腕、肩に刻まれた古傷、そして腰にある――古びた剣。


 剣は鞘に収まったまま、抜かれたことがない。


 ……いや、正確には「抜かなくなって、三年が過ぎた」。


 今日もカイは、鍋をかき混ぜていた。

 塩ひとつまみ、香草をふたつ、干し肉の旨味を落として、最後に……小さな銀のスプーンで、ほんの少しの蜜。


 蜜は「帰還蜂」の巣から採れる。

 希少なうえ、甘いだけではない。口にした者の心に、帰り道の輪郭を刻むと言われている。


 カイの料理は、うまい。

 それだけじゃない。


 「ここで飯を食ったやつは、なぜか無事に帰る」


 旅人が言い、衛兵が頷き、薬師が溜息をつく。

 誰もが半分冗談、半分本気でそう言った。


 カイはそれに返事をしない。

 ただ、包丁を研ぐ音だけが、規則正しく厨房を満たす。


 その音が、ふっと止まった。


 外の足音。軽い。跳ねる。――小さな、走る足。


 カイは鍋の火を少し弱めた。湯気が「ちょうどよく」立つように。

 そして、扉の方を見ないまま言う。


 「……遅かったな」


 鈴が鳴り、扉が開き、寒い空気が舞い込む。


 「ただいまっ!」


 声は明るくて、少し息が切れている。

 リナ――拾った娘。養子。カイの娘。


 髪は乱れて、頬が赤い。背中の小さな荷袋が揺れていた。


 「今日ね! 聞いて! すごいことがあったの!」


 返事も待たずに、リナはカウンターに肘をついて身を乗り出す。


 「ミレラおばさんのとこの猫がね、魚をくわえて逃げて、それで――」


 カイは木の皿を一枚、手元に置いてやる。そこに焼きたてのパンを割ってのせた。

 リナの話は止まらない。猫のこと、学校のこと、友だちのこと。転んだこと、笑われたこと、泣きそうになったこと。


 カイは相槌を打たない。

 でも、聞き漏らさない。


 「……笑われたのか」


 リナがむっとする。


 「だって、わたし、結び目できなくて……」


 カイは布巾を渡した。


 「なら、明日からは結び目じゃなくて、留め金を使え。……それと、転びそうなときは荷袋を先に下ろせ。大事なものが傷む」


 「それ、学校で言ったら怒られる」


 「怒られたら、俺が謝りに行く」


 リナが目を丸くして、それから笑った。


 「お父さん、ぜったい変」


 「変でいい。おまえが帰ってくるなら」


 その言葉は、いつも通りの声だった。

 でもリナは、なぜか少しだけ黙って、パンをちぎって口に運んだ。


 カイは鍋の蓋を開ける。香りが満ちる。

 湯気は柔らかく、あたたかい。


 「今日は、帰還のシチューだ」


 「わあ!」


 リナの顔がぱっと明るくなる。

 カイはその表情を見て、胸の奥で小さな何かがほどけるのを感じた。


 ――戦場では、こんなふうに笑う顔を守れなかった。


 だから、誓った。

 剣は抜かない。

 代わりに、この湯気を守る。


 皿に注いだシチューは、淡い金色のスープに具がころころと浮かび、香草が踊っていた。

 リナがスプーンを入れた、そのとき。


 扉の鈴が鳴った。


 今度の足音は重い。

 冷たい金属の匂いが、店に入り込む。


 「……ここが『カエリ飯亭』か」


 男が三人。

 灰色の外套、帝国の紋章。腰に剣。目は乾いている。


 先頭の男が、ゆっくり店内を見回した。

 カウンターの向こうのカイに視線を止め、次に――リナを見た。


 リナの手が、ぴたりと止まる。

 スプーンが皿の縁に触れて、かすかな音を立てた。


 男は微笑んだ。笑っていない目で。


 「カイ。……英雄殿。生きていたか」


 カイは鍋の火を消した。

 それだけの動作なのに、店の空気が変わる。


 カイは、男の名を知っていた。


 「ザドル」


 ザドルは肩をすくめた。


 「俺の名を覚えているとは光栄だ。……帝国が探していた。英雄の剣が必要だとな」


 「必要ない」


 即答だった。


 ザドルの口元が少し歪む。


 「必要かどうかは帝国が決める。国境に霧が出た。帰ってこられない霧だ。……お前の剣なら切れる」


 「俺の剣は切らない」


 ザドルがため息をつく。


 「まだ誓いだの何だの、言っているのか。……お前は英雄だろう。戦場に戻れ」


 カイは視線を動かさず、静かに言った。


 「ここは戦場じゃない」


 ザドルは、リナへ目を向けた。

 名を呼ぶように、ゆっくり。


 「……その子は?」


 リナの背が強張る。

 カイは答えた。


 「娘だ」


 「血は?」


 「関係ない」


 ザドルが笑う。


 「なるほど。英雄が子ども遊びとは。……だが、事情は変わった」


 ザドルが指を鳴らす。

 外套の男が小さな袋を床に置いた。袋の口がわずかに開き、そこから――黒い霧のようなものが、蛇のように這い出す。


 店の隅の灯りが、ちかちかと揺れた。


 「帰還阻害の霧の欠片だ。これが国境で増えている。……持ち込めば町も同じになる」


 リナが息をのむ。


 「……やめて」


 「やめるさ。英雄が従えばな」


 ザドルは手を差し出した。


 「剣を抜け。戦場へ戻れ。そうすれば、この町もこの子も――無事に帰れる」


 その瞬間、リナが震える声で言った。


 「お父さん……」


 カイは、リナを見なかった。

 見たら、誓いが揺らぐ気がしたからだ。


 カイは、腰の剣に手を置かない。

 代わりに、棚の上の香草籠を取った。


 「……ザドル」


 「なんだ?」


 「座れ」


 ザドルが眉をひそめる。


 「は?」


 「座って、飯を食え」


 店に沈黙が落ちた。

 ザドルの部下が剣に手をかける。リナが口を押さえる。


 ザドルは一歩近づき、低い声で言った。


 「……ふざけるな。こちらは脅している」


 カイは、火の消えた鍋に再び火を入れた。

 静かに。確実に。

 いつもの手つきで。


 「脅しは戦場の作法だ。ここでは違う」


 ザドルは、苛立ちを抑えきれず、袋の霧へ指を向けた。

 霧が膨らみ、蛇がとぐろを巻くように宙へ立ち上がる。


 リナが叫びかけた、そのとき。


 カイは、鍋の蓋を開けた。


 湯気が、ひとつの「波」になって広がった。


 香草の匂い。甘い蜜の匂い。煮込んだ肉の匂い。

 それはただの匂いじゃない。

 帰り道を思い出させる匂いだ。


 黒い霧が、ふっとよろめいた。

 蛇の形が崩れ、宙で揺れる。


 ザドルが、目を見開いた。


 「……これは……」


 「帰還のシチューだ」


 カイは器をひとつ、ザドルの前に置いた。

 あたたかい湯気が立ち上る。淡い金色。


 「食え」


 「毒か?」


 「毒なら俺が先に飲む」


 カイはスプーンを取り、ひと口飲んだ。

 その所作は、見せつけではない。自然だった。


 ザドルの喉が動く。

 目が、器とカイの間を往復する。


 部下が言った。


 「隊長、危険です」


 ザドルは部下を制し、器を引き寄せた。

 そして、スプーンを口へ運ぶ。


 ひと口。


 ――ザドルの肩が、わずかに震えた。


 ふた口。


 目が、どこか遠いところを見る。

 まるで、暗い扉を開けたみたいに。


 「……母さんの……」


 ザドルの唇から、かすれた声が漏れた。


 誰も、次の言葉を待っていないのに。

 勝手に、こぼれる。


 「……母さんのスープの匂いだ。……戦争が始まる前、俺は……」


 ザドルの表情が歪む。怒りではない。痛みだ。


 「俺は、帰るって言った。すぐ帰るって……」


 黒い霧が、床に落ちた。

 とぐろを巻く力を失って、ただの「冷たい煙」みたいに散っていく。


 カイは言う。


 「帰りたいんだろう」


 ザドルは唇を噛んだ。

 目の奥に、押し込めたものが揺れる。


 「……帰る場所なんて、もう……」


 「ある」


 カイは、リナの方を見た。

 リナは震えながらも、まっすぐこちらを見ている。


 カイは、器をもう一つ、リナの前に置いた。

 小さな手がスプーンを握り直す。


 「リナ」


 「……うん」


 「ここが、おまえの帰る場所だ」


 リナは、泣きそうな顔でうなずいた。


 その瞬間、扉の外で、遠くから「ざわめき」が聞こえた。

 店の外、路地の向こう――町の端から、黒い霧が押し寄せているのが見えた。


 国境の霧が、欠片ではない本体になって。

 町へ、伸びてきている。


 ザドルが立ち上がる。


 「……来たか」


 部下が剣を抜こうとする。

 ザドルも腰へ手を伸ばす。


 でも、カイは首を振った。


 「抜くな」


 「カイ、霧は斬らなきゃ止まらない!」


 「止める」


 カイは、厨房の棚から大きな鍋を引きずり出した。

 水を張る。香草を放り込む。塩。蜜。粉。

 手つきが速い。迷いがない。戦場で磨かれた「段取り」だ。


 「リナ、パンを切れ。厚めに」


 「……うん!」


 リナの手が震える。でも、包丁を握り直し、パンを切る。

 カイはその横で、鍋の中に火を入れる。


 湯気が立つ。

 店中が香りで満ちる。


 ザドルが、信じられないものを見るように言った。


 「……料理で、霧を止めるのか?」


 カイは答えた。


 「霧は『帰れない』って思い込みを食って膨らむ。だから――帰れる匂いで満たす」


 扉が、がたん、と揺れた。

 外から冷気が押し込み、黒い霧が隙間から入り込もうとする。


 カイは鍋の蓋を開け、湯気を“外へ”向けて放った。


 湯気は、灯りのように広がった。

 霧がそれに触れるたび、薄くなる。弱くなる。

 まるで、迷子が道標を見つけたみたいに。


 「町の人を呼べ!」


 カイの声が響く。

 ザドルの部下が駆け出す。

 ほどなく、店の外がざわつき、町の人々が集まり始めた。


 パン屋、薬師、衛兵、旅人。

 いつもここで飯を食っている人々だ。


 「カイ! 霧が……!」


 「鍋を持て。湯気を回せ」


 「え、鍋!?」


 「話はあとだ!」


 カイの指示は簡潔で、なぜか皆が従った。

 鍋が運ばれ、湯気が渡され、店の外へ広がっていく。


 香りが町へ流れる。

 それは「帰り道の匂い」だ。


 リナも、パンの籠を抱えて外へ出た。

 通りの角で、震える子どもにパンを渡す。


 「食べて。だいじょうぶ。ここ、帰れるから」


 子どもが涙をこぼしながら頷く。

 霧が薄れ、灯りが戻っていく。


 ザドルは、呆然とその光景を見ていた。

 英雄の剣ではなく、町の食卓が、町を守っている。


 カイはザドルの前に立ち、静かに言った。


 「おまえも、手伝え」


 「……」


 ザドルの喉が動く。

 その目に、迷いと――羨ましさが浮かぶ。


 「……俺は、帝国の命令で……」


 「命令は腹を満たさない」


 カイは、器をひとつ差し出した。

 ザドルはそれを受け取り、湯気を吸い込むように息を吐いた。


 「……くそ」


 そう言って、ザドルは鍋を持ち上げた。

 部下も、町の人々も、驚いた顔をする。


 ザドルは低い声で言った。


 「……俺にも、帰りたい場所があった。……今は、思い出せないだけだ」


 「なら、思い出せ」


 カイは、火を見ながら言う。


 「帰る場所は、作れる」


 黒い霧は、湯気の輪の中でほどけていった。

 冷たい蛇は、ただの煙になり、夜空へ溶けた。


 ――町が、守られた。


 その後の静けさは、戦いの後の静けさと違った。

 誰も倒れていない。誰も泣き叫んでいない。

 ただ、腹が鳴る音だけが、あちこちで聞こえた。


 「……おい、腹が減ったぞ!」


 誰かが笑い、みんなが笑った。


 カイは肩の力を抜き、鍋をかき混ぜた。

 湯気がふわりと立ち上る。


 リナは店の扉の前で立ち止まり、深呼吸した。

 そして、いつもより少しだけ丁寧に言った。


 「……ただいま」


 カイの手が止まる。

 ほんの一瞬、世界が静かになる。


 カイはリナの頭に手を置いた。

 戦場で鍛えた手は硬いのに、触れ方は驚くほど優しい。


 「おかえり」


 その言葉は、剣より強かった。


 リナが笑う。

 カイも、笑った。


 ザドルはそれを見て、目を伏せた。

 そして、小さく呟いた。


 「……俺も、いつか……」


 カイは聞こえないふりをして、器をひとつ増やした。

 湯気の向こうで、夜が更けていく。


 剣は、鞘の中のまま。

 でも、町は守られている。


 食卓が、砦だった。

 「おかえり」が、魔法だった。


 そして明日も、きっと鈴が鳴る。

 カイはその音のために、火を起こし、鍋をかき混ぜるのだ。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


もし、リナの「ただいま」とカイの「おかえり」の場面で、少しでも胸が温かくなったなら、ブックマークや評価いただけると、とても励みになります。


最後に――今日、ちゃんと帰ってきた人へ。

おかえりなさい。

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