第97話 異形の朝
目が覚めた時、最初に感じたのは「寒さ」だった。
整備ドックの硬い床の上。毛布を3枚重ねているのに、体の芯が冷え切っている。
昨夜の高熱が嘘のように引いていたが、代わりに私の体温は、爬虫類のように外気温と同調してしまっていた。
「……ん」
体を起こそうとして、手をつく。
ガリッ、と不快な音が響いた。
左手だ。
黒い甲殻に覆われたその手は、コンクリートの床に爪痕を深く刻み込んでいた。
「……夢じゃ、なかった」
私は左手を目の前にかざした。
朝の光を浴びて、黒曜石のように艶めく五指。
美しい。
けれど、自分の頬に触れても、皮膚の感触がない。
あるのは、硬い物質が触れているという無機質なデータだけ。
人間の手の温もりも、柔らかさも、もう二度とこの手では感じられないのだ。
「……おはよう、エルゼ」
カイルがマグカップを二つ持ってやってきた。
彼の目は充血している。一睡もしていないのだろう。
「コーヒーだ。……飲むか?」
「ええ。ありがとう」
私は右手で受け取ろうとしたが、ふと気まぐれを起こして、左手を伸ばした。
カイルが一瞬、ビクリと体を強張らせるのが分かった。
それでも彼は逃げずに、私の異形の手へとカップを差し出す。
カチャリ。
カップの取っ手に指をかける。
その瞬間だった。
パリンッ!
「あ……」
乾いた音がして、陶器のカップが粉々に砕け散った。
熱いコーヒーが床にぶちまけられる。
力の加減が利かない。
「持つ」という意思が、この左手を通すと「握り潰す」という出力に変換されてしまう。
「っ……わりぃ。俺が手を離すのが早かった」
「ううん、違うわ。……私が壊したの」
私は飛び散った破片を拾おうとした。
だが、鋭利な爪は小さな陶器の欠片を摘むことすらできず、カチカチと虚しく床を叩くだけだ。
「……不便ね」
私は溜息をつき、諦めて立ち上がった。
足元で、コーヒーの黒い液体が広がっていく。
それはまるで、私が人間社会からこぼれ落ちていく様を見ているようだった。
その時、ドックの外から歓声が聞こえてきた。
『女王陛下万歳!』『鉄の女神に感謝を!』
スリットから外を覗くと、昨日私たちが持ち帰った物資の配給が行われていた。
人々は口々に私を称え、アヴェンジャーの足元に花やガラクタを供えている。
「……皮肉なもんだな」
カイルが床を拭きながら苦笑する。
「お前が人間を辞めていくほど、人間たちが熱狂する。
あいつらにとっちゃ、お前のその手も『奇跡の証』なんだとよ」
「奇跡、か……」
私は左手を握りしめた。
掌の中で、空気が圧縮されて爆ぜる音がした。
「いいえ、これは呪いよ。
……でも、今の私にはこの呪いが必要なの」
私はドックの奥、静かに鎮座するアヴェンジャーを見上げた。
あの子が呼んでいる。
こんな脆いカップじゃなくて、もっと硬く、強いものを握り潰したいと。
「行くわよ、カイル。
……帝國がこのまま黙ってるはずがないもの」




