第94話 溶け合う境界
深い、深い泥の中に沈んでいるような感覚だった。
けれど、それは冷たく不快な泥ではない。
温かく、粘り気のある重油の海だ。
その深淵の中で、私は巨大な心臓の音を聞いていた。
ドクン……ドクン……。
それは私自身の鼓動であり、同時にアヴェンジャーのエンジンのピストン音でもあった。
私と機体は、無数のケーブルと血管で繋がり、互いの体液を循環させながら、一つの生命体として微睡んでいた。
「……ん……」
意識が浮上する。
重い瞼を開けると、そこは見慣れた天井ではなく、薄暗い整備ドックの鉄骨だった。
私はベッドの上ではなく、アヴェンジャーの脚部にもたれかかるようにして眠っていたらしい。
毛布がかけられているが、体の芯が芯まで冷え切っている……いや、違う。
私の体温が極端に下がり、周囲の気温との差を感じなくなっているのだ。変温動物のように。
「……起きたか、寝坊助」
頭上から声が降ってきた。
見上げると、カイルがアヴェンジャーの胸部装甲の上に座り、ウエスで装甲を磨いているところだった。
キュッ、キュッ……。
彼が装甲を拭うたびに、私の胸のあたりがくすぐったいような、妙な感覚に襲われた。
まるで、直接肌を撫でられているような錯覚。
「……カイル。そこ、もっと優しく拭いて」
「あん? 何言ってんだ寝ぼけて」
「……あ、ううん。なんでもない」
私は慌てて口をつぐんだ。
感覚が共有している。
コクピットに乗っていない時でさえ、私はアヴェンジャーへの接触を「触覚」として感じるようになってしまったらしい。
私は自分の体を確かめるように、左手を目の前にかざした。
照明の光を弾いて、黒い鱗が鈍く輝く。
指先だけでなく、手首から肘にかけて、侵蝕は確実に広がっていた。
皮膚が硬質化し、血管が青ではなく、蛍光色のような紫に浮き出ている。
「……丸二日、寝てたぞ」
カイルがタラップを降りてきて、私の前にしゃがみ込んだ。
彼の手には、缶詰と水筒が握られている。
「何か食え。……とは言っても、お前の口に合うかは分からんがな」
差し出されたのは、桃のシロップ漬けだった。
以前の私なら大好物だったはずの甘味。
口に含むと、ジャリッという砂を噛んだような食感と、腐った水のような味が広がった。
「……不味い」
私は思わず吐き出した。
味覚が完全に書き換えられている。
有機物が受け付けない。
代わりに、カイルが腰に下げているレンチの鉄の匂いが、芳醇なステーキのように鼻腔をくすぐる。
「……そうか。ここまで来たか」
カイルは悲しげな顔もせず、ただ淡々と事実を受け止めた。
そして、自分のレンチを差し出した。
「食うか?」
「……今はいい。お腹はいっぱいだから」
ベヒーモス一隻分のエネルギーは、まだ私の体内で燻っている。
飢餓感がないのが救いだった。
その時、ドックの入り口が開き、ヴァルガスが足早に入ってきた。
その表情は硬い。
再生された左手の義手が、落ち着きなく明滅している。
「お目覚めかな、女王陛下。
……優雅な朝食の邪魔をしてすまんが、状況が動いた」
ヴァルガスが空中に地図を投影する。
自由都市バルデを中心として、赤いラインがぐるりと円を描いていた。
「帝國軍の動きが止まった。
散発的な空爆も、偵察機の侵入もない。
奴らはバルデから半径20キロの地点に防衛線を敷き、完全に沈黙した」
「……撤退したわけじゃなさそうね」
「ああ。『兵糧攻め』だ」
カイルが地図を睨みながら吐き捨てるように言った。
「ベヒーモスをやられて、力押しじゃ分が悪いと悟ったんだろう。
バルデへの物流ルートを完全に遮断し、街ごと干上がらせるつもりだ。
……アヴェンジャーは鉄があれば生きていけるが、街の人間はそうはいかねえ」
食料、水、医薬品。
この不毛の荒野にあるバルデは、外部からの物資搬入がなければ一ヶ月と持たない。
それを知っての包囲網。
じわじわと真綿で首を絞めるような、陰湿だが確実な戦術だ。
「街の連中は動揺している。
このままじゃ、暴動が起きるのも時間の問題だ。
……どうする、陛下? あんたの『力』で、この包囲網を食い破るか?」
ヴァルガスが試すような視線を向けてくる。
私はゆっくりと立ち上がった。
体が軽い。
全身に漲るエネルギーが、破壊を求めて疼いている。
「……簡単なことよ」
私はアヴェンジャーを見上げた。
私の半身。私の胃袋。
この子が「退屈だ」と鼓動を鳴らしているのが聞こえる。
「兵糧攻め? 上等じゃない。
向こうが食料を止めるなら、こっちは向こうを食料にするだけよ」
私は振り返り、獰猛な笑みを浮かべた。
「カイル、準備して。
……『狩り』の時間よ。包囲網ごと、帝國の資源を略奪しに行くわ」
守るための戦いではない。
生存のための捕食。
人としての倫理が欠落したその思考こそが、今の私にとっての「正常」だった。




