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第36話 逃亡者たちの空



 雲海を突き抜け、私たちは成層圏に近い高度まで上昇していた。

 ここまで上がれば、帝國軍の追手も容易には手出しできない。

 彼らの竜は、これほど薄い酸素濃度では長く飛べないからだ。

 だが、この『アヴェンジャー』は違う。ファフニールの心臓は、大気中のわずかなマナさえあれば、無尽蔵に推力を生み出し続ける。


「……撒いたか」


 カイルが大きく息を吐き出す音が、インカム越しに聞こえた。

 機体の振動が少し落ち着く。

 彼はスロットルを巡航速度まで落とし、荒い操縦で軋んだ機体を労るように水平飛行へと移行させた。


「おい、エルゼ。姫さんは無事か? 今のGじゃ、普通は気絶してるぞ」


 カイルの言葉に、私はハッとして視線を落とした。

 私の膝の上。

 コンソールと私の体の間に挟まるようにして、リズが小さく縮こまっている。

 白い拘束衣は薄汚れ、細い肩は小刻みに震えていた。


「……リズ? 聞こえる?」


 私は動かない右腕で、恐る恐る彼女の背中を撫でた。

 硬い鱗の感触が彼女を傷つけないか怖かったが、今はそんなことを言っていられない。


「……ん、ぅ……」


 リズがゆっくりと顔を上げた。

 顔色は青白いが、瞳にはしっかりとした光が宿っていた。

 彼女は私の腕を――異形の右腕を、両手でギュッと握り返してきた。


「お姉ちゃん、ここ……空?」

「ええ、そうよ。帝國の空よりも、ずっと高い場所」


 私が答えると、リズはコクピットのキャノピー(風防)越しに広がる景色を見つめた。

 どこまでも続く、深い蒼色プルシアンブルーの世界。

 太陽が眩しく、雲が遥か下で白い絨毯のように輝いている。

 病室の窓からしか空を知らなかった彼女にとって、それは異界の光景だっただろう。


「きれい……。お姉ちゃんは、いつもこんな景色を見てたんだね」

「そうね。……怖くない?」

「ううん。お姉ちゃんと一緒だもん。……それに、あったかい」


 リズが、背もたれ越しに伝わる魔導炉の熱と、私の体温に身を委ねる。

 その無邪気な信頼が、今の私には何よりも痛く、そして愛おしかった。


 ズキリ。

 不意に、脳の奥で血管が軋む音がした。

 

「……っ、う」


 私が小さく呻くと、視界がノイズのように乱れた。

 限界が近い。

 先ほどの「強制蘇生」で、私の神経回路はボロボロだ。

 鼻の奥から、また生温かいものが垂れてくる。


「エルゼ! 大丈夫か!」

「平気よ……ちょっと、頭がクラクラするだけ」


 私は強がって見せたが、カイルにはバレていただろう。

 機体の制御系システムが不安定に揺らいでいるのが、操縦桿を通じて伝わっているはずだ。


「無理すんな。……とりあえず、ほとぼりが冷めるまで身を隠すぞ。このまま飛び続けてたら、お前の脳ミソが焼き切れちまう」

「隠れるって、どこへ? 帝國中に手配書が回るわよ」

「灯台下暗し、ってな。……俺たちの『墓場』に戻る」


 カイルが機首をゆっくりと旋回させる。

 指し示す先は、あの死の森――私たちが墜落し、そして生まれ変わった場所だ。

 あそこなら、瘴気と磁気嵐の影響で帝國軍の索敵も届きにくい。


「……分かったわ。ナビゲートする」


 私は痛む頭を振って意識をクリアにし、再び神経接続の同調率を上げた。

 リズを守るためには、まだ倒れるわけにはいかない。


 ゴオオオオオ……。

 風切り音が響く中、アヴェンジャーは孤独な逃避行を続ける。

 帝國の英雄から、世界を敵に回した大罪人へ。

 けれど、膝の上の重みを感じながら、私はかつてないほどの充足感を覚えていた。


(歌わなくていい。……誰かのために戦わなくていい)


 今の私は、ただの姉だ。

 それだけで、この呪われた右腕も、焼き切れるような頭痛も、全て耐えられる気がした。


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