第28話 地を這う獣
洞の入り口から雪崩れ込んできたのは、腐臭と殺意の塊だった。
「伏せろッ!」
カイルの絶叫と共に、鼓膜を劈く爆音が狭い空間を揺らした。
彼が懐から抜いて発砲したのは、護身用の大口径リボルバーだ。
マズルフラッシュが暗闇を一瞬だけ真昼のように照らし出し、迫りくる異形の姿を浮かび上がらせた。
巨大な蜘蛛だ。
大人の背丈ほどもある巨体。複眼は濁った緑色に発光し、顎からは粘液を垂らしている。
『汚染獣』。
地上の有毒ガスと魔素によって変異した、成れの果て。
ドォォン! ドォォン!
カイルが立て続けに撃つ。
弾丸は蜘蛛の頭部に吸い込まれ、硬い外殻を砕いた。緑色の体液が飛び散る。
だが、止まらない。
一匹目が倒れた隙間から、二匹目、三匹目が這い出てくる。カチカチと牙を鳴らす音は、まるで私たちの骨を砕く音の予行演習のようだ。
「くそっ、キリがねえ……!」
カイルが舌打ちして弾倉を交換しようとする。
だが、手が震えている。出血と疲労で限界が近いのだ。
その隙を、汚染獣は見逃さなかった。
先頭の一匹が、バネ仕掛けのように跳躍し、カイルの喉元へと牙を剥く。
「カイル!」
思考する暇はなかった。
私はカイルを突き飛ばし、自ら前に躍り出た。
ナイフ? 間に合わない。
私にあるのは、この醜い右腕だけ。
私は反射的に右腕を掲げ、迫りくる牙を受け止めた。
ガィィィィンッ!
肉が裂ける音ではなく、硬質な金属音が響いた。
強烈な衝撃が肩に走る。けれど、痛みはない。
見れば、蜘蛛の鋭利な牙は、私の右腕を覆う黒い鱗に阻まれ、表面を滑っただけだった。
「……え?」
驚いたのは私だけではない。蜘蛛もまた、獲物の硬さに動きを止めた。
その一瞬の静止が、勝敗を分けた。
「……消えなさいッ!」
私は左手のナイフを逆手に持ち、無防備になった蜘蛛の複眼へと突き立てた。
ズブリ、と嫌な感触。
断末魔の悲鳴を上げて暴れる巨体を、私は右腕一本でねじ伏せ、そのまま地面へと叩きつけた。
異常な腕力だった。
魔導アクチュエータを内蔵した重機のように、生物としての限界を超えた力。
これが、ファフニールに侵食された結果なのか。
「はぁ、はぁ……ッ」
残りの蜘蛛たちが、仲間の死骸と、私の右腕から放たれる「上位捕食者」の気配に恐れをなしたのか、じりじりと後退していく。
やがて、それらは闇の奥へと逃げ去っていった。
訪れる静寂。
私は血振るいをしてナイフを収め、へたり込んだ。
カイルが呆然と私を見上げている。
「……すげえな。竜の鱗ってのは、伊達じゃねえらしい」
「……皮肉ね。人間を辞めた証が、役に立つなんて」
私は自分の右腕を見た。
汚染獣の牙を受け止めた鱗には、傷一つついていない。
吐き気がするほど頑丈で、頼もしい、呪いの腕。
◇
やがて、夜が明けた。
森の瘴気が薄まり、木漏れ日が差し込む頃、私たちは洞を出た。
満身創痍。けれど、生きて朝を迎えた。
私たちは足を引きずりながら、機体の墜落現場へと戻った。
そこにあるのは絶望的な光景だ。
翼をもがれた『蒼き竜』と、半壊した『黒竜ファフニール』。
どちらも、単独では二度と空を飛べない鉄屑。
カイルが悔しげに機体の残骸を蹴った。
「ここまでかよ。……足もねえ、翼もねえ。これじゃリズを助けるどころか、森を出ることもできねえぞ」
諦めの色が濃いカイルの言葉。
だが、私は二つの残骸を見比べながら、奇妙な高揚感を覚えていた。
頭の中で、技術局で叩き込まれた知識と、この極限状況が生んだ狂気的な発想が結びついていく。
「……飛べるわよ、カイル」
私はファフニールのまだ生きている魔導炉に触れた。
熱い。まるで、まだ戦えると言わんばかりに脈打っている。
「ニコイチにするの」
「あ?」
「聞こえなかった? 共食い整備よ。二つの機体の生きているパーツを接ぎ合わせて、一機の竜を作るの」
私はカイルを振り返り、ニヤリと笑ってみせた。
「帝國の最新鋭魔導炉に、レジスタンスの機動力。……最高のキメラができると思わない?」




