第166話 亡霊たちの泥濘
ピシッ、メキメキメキ……ッ!!
帝都の空で、悍ましい音が連鎖していた。
私が砕いた仮面の亀裂から、黄金の装甲全体へヒビが広がっていく。
神の似姿は崩壊しつつあった。
だが、それは「破壊」ではなかった。内側から湧き出すおぞましい質量が、外殻を内側から食い破っていたのだ。
『アアアアアア……痛イ、クルシイ……ッ!』
『ナンデ、私タチダケガ……!』
『タスケテ……熱イ、暗イよォ……ッ!』
砕け散った黄金の隙間から溢れ出したのは、底なしのタールのように黒く、粘り気のある「泥」だった。
いや、泥ではない。
重力に逆らって宙を蠢くその黒い流体には、無数の「顔」が浮かび上がっては消えていた。
老若男女、数え切れないほどの人間の顔が、苦悶に歪み、絶叫を上げている。
「……ッ、悪趣味にも程があるわね」
私はアヴェンジャーを後退させ、空中で距離を取った。
黒鉄の竜となった機体のセンサーが、けたたましい警告音を鳴らしている。
『おいおいおい、冗談キツイぜ……!』
コクピットにカイルの引きつった声が響く。
『熱源反応じゃねえ。魔素の濃度が異常だ!
あいつ、あの泥を全部「魂」で構成してやがる!
帝國が今まで『原初の竜』の実験に使い潰してきた、何万人、何百万人っていう犠牲者の怨念そのものだ!』
「それが、皇帝の正体ってわけね」
私はオッドアイを細め、膨張し続ける黒い肉塊を睨んだ。
もはや人型でもない。
宮殿の半分を覆い尽くすほどの巨大なヘドロの化け物。
その中心で、皇帝――カール・フォン・ギルベルトだった声が、幾重にも重なって響き渡る。
『我々ハ、帝國ダ。我々ハ、礎ダ。
星ヲ統ベル神ニナルタメニハ、数多ノ血肉ガ必要ダッタ。
エルゼ……完成サレタ器ヨ。
オ前モ我々ノ一部トナリ、永遠ノ玉座ヲ共有シヨウゾ……!』
「お断りよ。
そんなむさ苦しいゴミ溜めの中で永遠を過ごす趣味はないわ」
私はスロットルを押し込み、アヴェンジャーの重力翼をはためかせた。
装甲を捨て、剥き出しのフレームとなった黒竜が、空気を切り裂いて突進する。
『愚カナ……!
神ノ理ヲ破ッタトテ、コノ果テナキ絶望ノ海ハ、枯ラセハシナイッ!』
ゴボァッ!!
黒い泥の海から、巨大な触手が何十本も生え出し、私を目掛けて殺到してきた。
大気を腐らせるような呪いの奔流。
「カイル! 避けるわよ!」
『おうッ! 出力全開、振り落とされるなよ!』
アヴェンジャーが空中で身をよじる。
戦車や人型兵器では不可能な、関節の限界を無視した獣の機動。
迫り来る触手の群れを、紙一重ですり抜け、長い尾で弾き飛ばす。
だが。
ジュワァァァァッ!!
「ぐっ……!?」
掠った。
アヴェンジャーの左脚フレームに、ほんの少し泥が跳ねただけ。
それなのに、神経接続を通じて、強烈な「幻痛」が私の脳髄に直接叩き込まれた。
(――痛い! 熱い! 助けて! 死にたくない!)
一瞬で数千人分の断末魔が、私の頭の中で再生される。
物理的なダメージではない。精神への直接攻撃だ。
『ガハッ……!? エルゼ、精神汚染がキツい!
システムが同調しようとしてやがる……!』
カイルの声も苦痛に歪んでいる。
泥の触手は、機体を破壊するのではなく、私たちを「取り込もう」としているのだ。
『ソウダ……抗ウナ。
オ前モ、沢山ノ命ヲ奪ッテキタデアロウ?
ナラバ、コチラ側ダ。我々ト共ニ、罪ヲ抱エテ泥ヲ啜レ……』
皇帝の呪詛が、私の鼓膜を舐めるように響く。
視界が黒く塗り潰されそうになる。
このまま意識を手放せば、楽になるかもしれない。
泥の中に溶けて、個人の痛みも悲しみも消えて……。
(……ふざけないで)
私は、奥歯が砕けるほど強く噛み締めた。
痛い? 苦しい?
そんなもの、ずっと前から知っている。
故郷を焼かれた日も、仲間を殺した日も、泥水を啜って生き延びた日も。
私はずっと、地獄の中で息をしてきた。
「……一緒にしないでよ」
私は血を吐き捨て、虚ろになりかけたオッドアイを見開いた。
「貴方たちが無念なのは分かるわ。
帝國に利用されて、すり潰されて……可哀想だと思う。
でもね」
私は操縦桿を強く握り、アヴェンジャーの炉心を強制的に明滅させた。
ドクンッ、ドクンッ!!
4つの心臓が、私の怒りに呼応して莫大な熱を生み出す。
「私はもう、妹を取り戻したの。
あの子が待つ家に、帰らなきゃいけない。
……だから、あんたたちの過去に、私の明日を道連れにさせたりしないッ!!」
バチチチチッ!!
アヴェンジャーの黒いフレームから、高圧のプラズマが吹き荒れた。
幻痛を、本物の「熱」で焼き払う。
『……へっ。そうこなくちゃな!』
カイルの声から、迷いが消えた。
私の精神が研ぎ澄まされたことで、システムが完全に私の支配下に戻る。
『過去の亡霊どもに構ってる暇はねえ!
一気に中枢までぶち抜くぞ、エルゼ!』
「ええ! 全部、灰にしてあげる!」
私はアヴェンジャーの顎を大きく開いた。
ウリエルの「熱」と、ガブリエルの「水」を極限まで圧縮し、超高圧の蒸気爆発を起こす。
それをラファエルの「風」で推進力に変え、ミカエルの「重力」で機体全体を一つの弾丸としてコーティングする。
ブレスを吐くのではない。
アヴェンジャーという「竜」そのものを、浄化の炎と化すのだ。
『コード・ドラグーン……臨界突破!!』
ゴオォォォォォォォォォォッ!!!!!
音が消え、世界が白く染まった。
アヴェンジャーは一筋の流星となり、皇帝を形作る巨大な泥の津波へと真正面から突っ込んだ。
『ギャアアアアアアアアアアッ!?』
泥の顔たちが、炎に触れた端から蒸発し、悲鳴を上げて消滅していく。
触手が絡みつこうとしても、機体を覆うプラズマの刃がすべてを焼き斬る。
止まらない。
私たちはもう、何者にも縛られない。
「そこだァァァッ!!」
泥の海の中心。
分厚い亡霊の壁の奥深くに、ただ一つ、脈打つ醜い肉塊が見えた。
『原初の竜』の心臓であり、皇帝の本体。
私は竜の爪を突き出し、一直線にそこへ迫った。
復讐の刃が、今、すべての元凶へ届こうとしていた。




