第150話 深淵への潜航
北の果て。
そこは、海と空の境界が曖昧になるほど、白く凍てついた世界だった。
見渡す限りの流氷。
黒い海水が、氷の隙間から不気味に覗いている。
ザザァン……ザザァン……。
波の音だけが響く海岸線に、アヴェンジャーの巨体が立っていた。
背中から排出されるラファエルの余剰熱が、周囲の雪を一瞬で水蒸気に変え、白い霧となって機体を隠している。
「……ここが、最後の場所ね」
私は、オッドアイ(右目の蒼、左目の紅)で、鉛色の海面を見つめた。
空を制した私にとって、この重く湿った海という存在は、生理的な不快感を催させた。
息が詰まるような圧迫感。
深海1万メートル。
そこは宇宙よりも遠く、過酷な「地球の裏側」だ。
『準備はいいか、エルゼ。
……理論上、今の「三位一体」なら、深海でも活動できるはずだ』
カイルの声は、いつになく慎重だった。
彼はモニターに複雑な数式を表示させながら、最終チェックを行っている。
『ミカエルの「重力制御」で、機体にかかる水圧を相殺する。
ウリエルの「熱」で、機体周囲の海水を沸騰させ、蒸気の膜を作る。
ラファエルの「風」で、その気泡を維持し、水中抵抗をゼロにする』
水の中を、空気の衣をまとって突き進む。
それは泳ぐというより、海の中に無理やり「空」を持ち込んで飛ぶようなものだ。
「……相変わらず、無茶苦茶な理論ね」
『天才的と言え。
だが、少しでもバランスが崩れれば、その瞬間に1000気圧の水圧でペシャンコだ。
……缶詰の中身になりたくなきゃ、俺の指示通りに出力を調整しろよ』
「分かったわ。
行きましょう、カイル」
私は操縦桿を前に倒した。
ズズウゥゥン……。
アヴェンジャーが、ゆっくりと黒い海面へと足を踏み入れる。
足首が沈む。膝が沈む。
腰まで水に浸かった瞬間、ウリエルの炉心が唸りを上げた。
ジュボォォォォォォォッ!!!!!
激しい沸騰音が響き、機体の周囲に大量の気泡が発生した。
視界が白く濁る。
しかし、ラファエルの風がその泡を整列させ、機体を包む完全な流線型の「殻」を作り上げた。
「……潜るッ!」
ドッポォォォォォンッ……!!
アヴェンジャーの頭頂部が水没した。
完全潜行。
その瞬間、世界から音が消えた。
空の風切り音も、エンジンの排気音も、すべてが分厚い水の壁に遮断される。
聞こえるのは、ゴウゴウという低い水流の音と、自身の心臓の鼓動だけ。
深度100。
深度500。
深度1000……。
光が届かなくなる。
永遠の夜。
漆黒の闇の中を、私たちは蒼と紅の光跡を残しながら、ただひたすらに底を目指して落ちていく。
『……ソナーに感あり』
カイルが息を潜めて囁いた。
レーダーは効かない。
頼りになるのは音響探知だけだ。
『深度8000。
……そこに「いる」ぞ。
動かない。まるで、海底そのものと同化しているみたいだ』
「待ち伏せ、というわけね」
私は暗視モニターの感度を上げた。
何も見えない。
ただ、底知れぬ殺気が、冷たい海水を通して肌に伝わってくる。
深海潜行型竜騎兵『ガブリエル』。
静寂の支配者。
最後の晩餐の席には、すでにホストが座って待っている。




