第149話 人ならざる晩餐
カチャリ、と乾いた音が食堂に響いた。
広い食堂には、私とカイル、そしてヴァルガスの三人しかいない。
他の兵士たちは、私の周囲に発生する不可視の気圧変動に耐えられず、近寄ることさえ禁じられていた。
「……美味しくないわ」
私が呟くと、向かいに座るヴァルガスが眉をひそめた。
手つかずのビーフシチュー。
かつての私なら、湯気を立てる肉の塊に目を輝かせていただろう。
だが今は、スプーンで掬った肉が、ただの汚泥のように見える。
「味付けの問題じゃないぞ。そいつは今日の特製だ」
「ええ、分かっているわ。……味がしないのよ」
私はスプーンを皿に戻した。
舌に乗せても、味蕾が反応しない。
それどころか、喉が異物として拒絶し、嘔吐感を催す。
私の消化器官はもう、有機物を分解してエネルギーに変える機能を停止しているのかもしれない。
『無理して食うな。今のエルゼには、酸素と水、あとは少量の必須ミネラルがあればいい』
隣でタブレットを操作していたカイルが、淡々と言った。
彼は私の身体データをリアルタイムで監視している。
『ラファエルの心臓が、呼吸するだけで大気中の微量元素を取り込んでる。
お前はもう、光合成をする植物か、あるいは原子炉そのものになったんだ。
……人間と同じ飯を食う必要なんて、最初からない』
「……そう。食費が浮いて助かるわね」
私は自嘲気味に笑い、代わりにコップの水を煽った。
水だけは美味い。
それは喉を潤すためではなく、体内の冷却水として必要だからだ。
「それで、ヴァルガス。
最後の『晩餐』のメニューは決まった?」
私が話題を変えると、ヴァルガスはナプキンで口を拭い、一冊のファイルをテーブルに滑らせた。
表紙には、帝國軍の極秘スタンプ。
そして、最後のナンバーズの名前が記されている。
「……ガブリエル」
私がその名を口にすると、食堂の空気がピリリと震えた。
ミカエル、ウリエル、ラファエル。
三大天使を喰らい尽くした私が、最後に挑むべき相手。
「場所は?」
「北だ。極北の凍結海域」
ヴァルガスが地図を広げる。
指差されたのは、大陸の北端。
一年中、分厚い氷に閉ざされた死の海だ。
「帝國の深海潜行型竜騎兵『ガブリエル』。
奴は空を飛ばない。地も走らない。
深度1万メートルの海底で、世界中の海流と潮汐を監視している『水の管理者』だ」
私は目を細めた。
空の次は、深海。
一番高いところから、一番深いところへ。
極端すぎるけれど、最後の敵にはお似合いのステージだ。
「水、ね……。
今の私には、少し相性が悪そうね」
私は自分の胸に手を当てた。
ウリエルの「火」は水を嫌う。
ラファエルの「風」は水中では意味を成さない。
ミカエルの「重力」だけが頼りだが、深海の水圧は、重力にも匹敵する物理的な暴力だ。
『だが、行かなきゃならんのだろ?』
カイルが私の顔を覗き込む。
その目は、技術者としての好奇心と、共犯者としての覚悟に満ちていた。
『安心しろ。アヴェンジャーの機密性は完璧だ。
宇宙に行けたんだ。深海に行けない道理はねえ』
「ええ。行きましょう」
私は席を立った。
椅子がガタガタと震え、周囲の空気が渦を巻く。
もう、人間の食事は終わりだ。
私は飢えていた。
皿の上の肉ではなく、冷たい海の底で眠る、神の心臓に。
「待っていなさい、ガブリエル。
……その冷たい血を、私が残さず飲み干してあげる」




