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第148話 怪物を見る目



 キィィィィィィィィン……


 成層圏を滑るように飛ぶアヴェンジャーの機内は、奇妙なほど静かだった。

 かつては耳をつんざくような轟音と振動が常だったが、今は違う。

 三つの心臓が、精密時計の歯車のように完璧に噛み合っている。


 ラファエルの「風」が、希薄な大気を強制的に吸入し、極限まで圧縮する。

 ウリエルの「炎」が、その圧縮空気に点火し、爆発的な膨張エネルギーを生む。

 ミカエルの「光」が、生じた推力を重力制御で指向性を持たせ、機体を質量ごと前方へ弾き飛ばす。


 吸気、圧縮、燃焼、排気。

 工業製品エンジンとしての理想的なサイクルが、生物的な生々しさを伴って私の背中で行われている。


『……マッハ3.2。巡航速度でこれかよ』


 カイルが乾いた笑い声を漏らした。

 モニターの地図情報が、早送りのように更新されていく。

 帝國西部からバルデまで、陸路なら数日の距離を、私たちはコーヒー一杯を飲み干す間に踏破しようとしていた。


「速いわね。……世界が狭く感じる」


 私は、眼下に流れる雲海を見下ろした。

 以前のような、体が焼ける感覚はない。

 背中の循環機能が、私の体温すらも一定に保ってくれている。

 だが、それは人間的な恒常性ホメオスタシスではない。

 炉心の冷却水と同じ扱いで、私の血液が管理されているだけだ。


『バルデ上空だ。……減速するぞ、エルゼ。

 今のままで突っ込んだら、衝撃波ソニックブームで街の窓ガラスが全部割れちまう』


「ええ。……静かに降りてあげましょう」


 私はスロットルを緩め、ミカエルの重力ブレーキを作動させた。

 フワッ、と内臓が持ち上がる浮遊感。

 音速の矢となっていた鉄塊が、空中でピタリと静止する。


 ズウゥゥゥン……。


 重低音と共に、アヴェンジャーがバルデの基地広場へと降下を開始した。

 以前のように地面を溶かすことはない。

 排熱はすべて推力として背中から逃がしている。

 その代わり、ラファエルの風が周囲の砂塵を巻き上げ、巨大な竜巻となって機体を包み込んでいた。


 着地。

 音もなく、巨体がアスファルトに触れる。

 風が止むと、そこには異形の王が鎮座していた。


 プシュゥゥゥ……。

 コクピットハッチが開く。

 私は、カイルの手を借りることなく、軽やかにタラップを降りた。

 外の空気は冷たいはずだが、肌には何も感じない。

 私の体表面には、常に薄い空気の膜が張り付き、外界との接触を断絶しているようだった。


「……おい、あれを見ろよ」


「化け物だ……」


 周囲を取り囲む兵士たちの囁き声が聞こえる。

 彼らの目は、英雄を迎えるものではなかった。

 理解不能な災害、あるいは触れてはいけないタブーを見る目。

 恐怖と畏敬、そして嫌悪がないまぜになった視線。


「お帰り、エルゼ。……随分と早かったな」


 ヴァルガスが歩み寄ってくる。

 彼だけは平然を装っていたが、その額には脂汗が滲み、握りしめた拳が微かに震えているのを私は見逃さなかった。

 私の姿が、どう変わったのか。

 ヴァルガスの瞳に映る自分を見て、私は理解した。


 右目は蒼穹の青。

 左目は紅蓮の赤。

 そして、風に乱れる髪は、色素が抜け落ちたように白く透き通り、その毛先だけが微かに青白く発光していた。

 肌からは陶磁器のような亀裂が消え、代わりに血管が青と赤に明滅しながら、脈打つたびに「ヒュゥ……」と風が鳴る音がする。


「……ただいま、ヴァルガス」


 私が口を開くと、その声は以前よりも低く、それでいてどこまでも通る、反響音を含んだものになっていた。


「お土産を持ってきたわ。

 ……もう、燃料ガソリンの心配はいらないわよ」


 私はアヴェンジャーの胸部を親指で指し示した。

 そこでは、新しい心臓が呼吸を続けている。

 空気さえあれば、無限に熱を生み出し、無限に空を飛べる永久機関。


「そうか。そいつは……重畳だな」


 ヴァルガスは視線を逸らし、短く吐き捨てた。

 彼は気づいているのだ。

 燃料代は浮いたかもしれない。

 けれど、その代償として支払った「エルゼという人間」は、もう二度と戻ってこないのだと。


「……カイル。整備班に伝えて。

 この機体には、もう誰も近づけないで」


 カイルが防護服のヘルメットを脱ぎ、乱暴に髪をかきむしった。


『ああ、分かってるよ。

 放射熱、重力異常、それに局所的な真空発生……。

 うかつに触れば、指が飛ぶか、肺が破裂する。

 ……こいつの整備ができるのは、世界で俺一人だけだ』


 カイルは私の隣に立ち、周囲の兵士たちを睨みつけるように見回した。

 それは、「俺だけがこいつの理解者だ」という、歪んだ独占欲と覚悟の宣言にも聞こえた。


 私たちは孤立していく。

 力を手に入れるたびに、人の輪から遠ざかり、高い空へと押し上げられていく。

 でも、それでいい。

 そこには、まだ最後の一人が残っているのだから。


 私は、白くなった髪を風になびかせ、誰もいない空の彼方を睨んだ。

 次は、お前だ。


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