第十七話:聖域のトラウマ、最初の処方箋
旧校舎の三階、廊下の突き当たり。『第三魔法薬学準備室』。
プレートの文字も掠れてやがる。
ホコリと、なんだかよく分からん乾燥した草の匂いが混じって、ここだけ時間が止まってるみたいだった。
俺たちは、その忘れられた部屋で、息を殺して待ち伏せだ。
狩りかよ。
「……本当に来るかな…?」
隣で陽菜が落ち着きなくソワソワしてる。
ったく、これだからガキは。
「来ます」
ミオは相変わらず冷静だな。
古い薬学の本なんかに夢中になってるくせに、耳だけは廊下に全集中してるのが分かる。
「彼女の行動原理は、現在『恐怖』と『プライド』で構成されています。我々の仕掛けは、その両方を同時に刺激した。来ないという選択肢は、論理的にありえません」
「……だそうだ」
まあ、こいつの言うことは大体当たる。
俺は窓枠に腰かけ、腕を組み、ただ静かに扉を見つめていた。
罠にかかった獲物がノコノコやってくるのを待つ。気分は良くねえが、仕事だ。
やがて、廊下の向こうから、一つの、やけに頼りない足音が、ゆっくりと近づいてきた。陽菜が息をのむ。
ギィ、と。錆び付いた音が耳障りだ。
扉が開いて、一条院凛が立っていた。
光っちまった目だな。
怯えた小動物みたいに、キョロキョロと室内を見回してる。
誰もいないことを確認すると、おぼつかない足取りで、部屋の奥にある古い資料棚へ向かった。
ずいぶんと、小さく見える背中だ。
あいつが資料を探し始めた、そのタイミングで。
俺は物陰から、静かに姿を現した。
「随分と顔色が悪いな。幽霊でも探してるのか?」
凛の体が、ビクッと跳ねて硬直する。
ゆっくりと振り返った顔は、屈辱と恐怖で歪んでやがった。
最悪のタイミングで、最悪の姿を見られたってわけか。
必死に、昔の『氷の女帝』とかいう、ふざけた仮面を被ろうとしてるのが見え見えだ。
ヤマアラシみたいに、全身で威嚇してきやがる。
「……あなたダレよ。わたしに、何の用なの? 人の探し物に、口を挟まないでくれる?」
お嬢様口調じゃねえな。追い詰められた奴特有の、尖った声だ。
その痛々しいまでの強がりに、予想通り、陽菜が飛び出した。
「一条院さん! 私たち、あなたの力になりたくて……!」
やめとけ、それは逆効果だ、と喉まで出かかったが、遅かった。
案の定、凛のプライドと限界寸前の心が、爆発した。
「力になりたい? 笑わせないで。あなたみたいなのが、一番ムカつくのよ! 何も知らないくせに、同情したような顔で近づいてこないで!」
こいつは、陽菜たちを追い払おうと、震える手で、小さな衝撃波みてえな魔法を放とうとしやがった。
「そこを、どきなさい!」
だが、その瞬間だ。
魔法を使おうとした、その行為自体が、三週間前の記憶の蓋をこじ開けやがった。
脳裏でフラッシュバックでも起きたんだろう。
体がガクガクと震えだし、魔力の流れが完全にイカれちまった。
「あ……ぁ……っ!」
その場にうずくまり、頭を抱え、ヒューヒューと苦しそうな息をし始めた。過呼吸だ。
「凛さん!?」
陽菜が慌てて駆け寄ろうとする。
「待って。交感神経系の過負荷です。下手に刺激すれば、さらに悪化します」
ミオが、冷静に、だが険しい顔で陽菜を止める。
俺は、ただ黙って、その光景を見ていた。
AIのデータじゃ、ここまでは分からねえ。こいつの『呪い』は、想像以上に重症だ。
やがて、数分が経ち、凛のパニックが少しだけマシになった。荒い息を繰り返すそいつに、俺は片手で陽菜を制しながら、静かに近づいた。
「騒ぐな。触るな。スペースを空けろ」
できるだけ感情を排した、冷たい声で言ったつもりだが、隣でパニックになりかけていた陽菜の肩から、少しだけ力が抜けるのが分かった。不思議なもんだな。
凛に駆け寄るでもなく、ただ、彼女の呼吸が落ち着くのを、腕を組んで待つ。
やがて、凛が顔を上げた。涙で濡れた瞳。
俺は、同情なんざ一切見せずに、ただ淡々と、医者が診断結果を告げるみたいに、事実だけを言った。
「見たところ、お前の問題は、魔法の技術じゃない。ただの、心の風邪だ。それも、かなりこじらせた、な」
俺は、凛に一枚のメモを差し出した。
たった一行だけ、書きつけてある。
『明日から毎日、この部屋に来い。そして、何もしないで、一時間、ただ座って帰れ。魔法の使用は、一切禁止する』
凛は、その意味不明な指示に、弱々しくも、反抗的な目を向けてきた。
「……ふざけないで。わたしは……病気なんかじゃ……! あんたなんかに、わたしの何がわかるっていうのよ!」
「別に? 何もわからねえよ」
俺は肩をすくめて、全く悪びれずに答えた。
「だが、一つだけわかる。お前は、どうせ明日も、あの練習場で一人で泣いてる。違うか?」
そして、とどめだ。最高の皮肉を込めて、言い放ってやった。
「まあ、来るか来ないかは、お前が決めろ。どうせ、来ないだろうがな。お前みたいな、プライドだけ高くて、クソみたいにネガティブな奴は」
侮辱とも取れる言葉。だが、こいつの本質はこれだ。
どんな優しい言葉より、こいつの心には、こういう歪んだ言葉の方が届くはずだ。
俺は、それだけ言うと、陽菜とミオを促し、うずくまる凛を一人残して、部屋を後にした。
扉が閉まる直前、凛が、そのメモを、
「……なによ、それ……!」
と、悔しさに震える声で呟きながらも、強く、強く握りしめているのが、視界の端に見えた。




