第十一話:言葉ではない『対話』(前編)
翌日の放課後。
オレと陽菜は、決戦の地――図書館へと向かう渡り廊下を歩いていた。
「いいか、陽菜。今日から作戦を変更する。オレたちは、ミオに一切話しかけない」
「はぁ!? 話しかけないで、どうやって仲良くなるんだよ! 昨日、あれだけ無視されたのに!」
陽菜が、案の定、素っ頓狂な声を上げる。
「だからだよ。言葉が通じない相手には、言葉以外の方法で話しかけるんだ。具体的には――あいつの『知的好奇心』と『完璧主義』を、これでもかと刺激してやる」
オレは、昨日立てた作戦の全容を、悪巧みを共有する共犯者のように、声を潜めて彼女に説明した。
「……つまり、ボクの役目は、先生の隣で、ひたすら相槌を打つ、サクラ役ってことかよ!」
「そうだ。だが、ただのサクラじゃねえぞ。『へー!』『すごい!』『でも、それってどういうこと?』って、絶妙に頭の悪い質問を投げかけ、オレの解説を引き出す、重要なポジションだ。できるか?」
「なんだよそれ、馬鹿にしてんのか! ボクだって、やるときはやるんだからな!」
陽菜は、ぷんすかと怒りながらも、
どこか楽しそうだった。
まるで、秘密基地でスパイごっこでもする子供のように、その瞳は期待に輝いている。
やれやれ、こいつにとっては、この絶体絶命のサバイバルも、まだ「遊び」の延長線上にあるらしい。
まあ、今はそれでいい。
図書館の奥、昨日と同じ場所に、ミオはいた。
まるで、昨日から一歩も動いていないかのように、同じ姿勢で、同じように分厚い魔導書を読みふけっている。
その周囲だけ、空気が違う。時間が違う。
彼女は、自分の周りに、誰にも侵すことのできない結界を張っているかのようだった。
オレと陽菜は、打ち合わせ通り、彼女の席から、少しだけ離れたテーブルに陣取った。
ここなら、オレたちの会話が、嫌でも彼女の耳に入るはずだ。
「よし、始めるぞ」
「おう!」
オレたちは、わざとらしく一冊の難解な魔導書を広げた。
『古代魔法における、マナ粒子の相転移に関する一考察』。
前世で言えば、量子力学の専門書を読むようなもんだ。
オレは、ミオに聞こえるか聞こえないか、絶妙な声量で、独り言を始めた。
せさ
「なるほどな、陽菜。この古代魔法の理論構造は面白いが、著者の解釈は根本的に間違っているな。このマナの流れは、明らかにこっちの経路を辿るべきだ。そうしないと、エネルギーの損失率が……」
オレは、その解説の中に、わざと、初歩的だが致命的な「間違い」を一つだけ混ぜ込んだ。
『感情はバグだ』と断じるほどの、完璧主義でプライドの高いミオならば、その間違いを、訂正せずにはいられないはず
だ。
それが、彼女の鉄壁をこじ開ける、最初の突破口になる。
「へー! さすが先生、物知りだなー!」
陽菜も、打ち合わせ通り、少し棒読み気味に相槌を打つ。
なかなかどうして、大根役者だが、今はそれでいい。
オレたちは、固唾をのんでミオの反応を窺う。
彼女の指が、ぴくり、と止まった。
……食いついたか?
だが、ミオは、ぴくりとも動かない。
数秒後、彼女の指は、また何事もなかったかのように、本の文字をなぞり始めた。
「……ダメか」
オレは、もう一度、今度は少しだけ声を張り上げて、間違った解説を繰り返した。
「だから、この数式は、どう考えてもおかしい。正しくは、こうだろ」
その時だった。
ミオは、本から顔を上げることなく、ただ、はぁ……と、感情が一切こもっていない、まるでタイヤから空気がゆっくりと抜けていくような、小さな、小さなため息を一つだけついた。
その音を聞いた瞬間、オレは背筋が凍るのを悟った。
(クソ、しくじった……!)
あれは、呆れたとか、疲れたとか、そういう感情の漏れじゃない。
四十年の社会人経験が、あの音の意味を瞬時に翻訳する。あれは、議論にすら値しない相手に対し、最小限の労力で「お前は論外だ」と知らしめる、最も冷たく、最も知的な拒絶の意思表示だ。
『あなたの間違いは、私が訂正してやる価値すらないほど、初歩的で、愚かである』
彼女は、言葉を使わず、ため息一つで、オレの作戦を完璧に粉砕してみせたのだ。
隣で、陽菜が「ぜ、全然ダメだったじゃんか!」と小声でオレを責める。
うるせえ、わかってる。
オレは、静かに本を閉じると、陽菜の首根っこを掴んで、すごすごと図書館から退散した。
背後で、ミオがどんな顔をしていたかなんて、見る気にもなれなかった。
完璧な、敗北だった。
図書館の外に出ると、陽菜がオレを問い詰めてきた。
「どうすんだよ、先生! 全然ダメだったじゃんか!」
「……ああ、完全に読み誤った。プライドの高い完璧主義者には、半端な知識の披露は逆効果だったな」
オレは、自らのアプローチの失敗を素直に認めた。
四十年の経験則ですら、あの『論理の怪物』には通用しなかった。
落ち込む陽菜とは対照的に、オレの口元には、いつの間にか笑みが浮かんでいた。
ああ、そうだ。こうでなくちゃ、面白くない。
「だが、これでいい。あいつの『鉄壁』の硬さがよくわかった」
「よくないよ! これからどうするんだよ!」
オレは、悪びれる様子もなく、ニヤリと口角を上げた。
「陽菜。明日からは、もっと悪趣味で、面倒くさい手を使うぞ」
オレの不敵な笑みに、陽菜は「また何か企んでる……」と、少しだけ引いたような顔をしながらも、その瞳の奥には、どこか楽しそうな、そして期待に満ちた光を宿していた。




