アベル
昼時のフードコートにいる。
目にも鮮やかなオレンジ色の床とイス。家族連れの客を中心に賑わっている。妙にバタ臭いマスコットキャラクターのイラストが描かれた壁紙が目を引く……。
私は、ひとり、席に座って、何を飲み食いするでもなくぼーっとしていた。
そんな私にスマホを向ける男が、はす向かいの席に座っていた。
気にしすぎだろうか。最初はそう思った。けれども男は不自然に腕を伸ばし、ずっとこちらにスマホを向けている。ついには立ち上がり、テーブルに身を乗り出してまでそれをやっていた。
なんだろう。さすがに不快だ。
私は男のもとに近づいた。
変な人だったら困るし、刺激しないよう、あくまで普通の態度で声をかけた。
「なにか用ですか」
「ん? なんのこと?」
ああ、そうくるのか……。
いや、本当にこちらの勘違いだったのかも。
私は謝って立ち去ることにした。
けれども、
「あ、ちょっと待って」
そう言って、呼び止められた。
男は向かいの席に座るよう手で示した。面倒くさかったけど、やっぱり変な人だったら困るので、とりあえず言うことに従った。
「僕はアベル。よろしく」
外国の名前。たしかによく見たら顔立ちも外国の人だ。
パーマのかかった金髪。そばかす顔が、私に向かってにこりとほほ笑んだ。
悪い人ではないかもしれない。でもこちらは名乗る気にはなれなかった。
アベルは大学生だった。オレンジジュースを飲みながら、ノートとテキストを広げて勉強しているらしかった。あまり真面目にやってるようには見えないけども。
アベルはどうでもいい雑談を振ってくるばかり。なんで呼び止めたのか、そもそもスマホを向けてきたのはなんだったのか、一向にわからない。
彼は嘘つきな人間だろうな。そんな気がする。
開かれたテキスト。最近のテキストは、アニメや漫画、有名な動画配信者についても触れられている。重要な歴史の一つとして。ひと昔前では考えられなかったことだ。
たまたま開かれたページに乗っていた動画配信者の写真を、私は指さした。
「この人知ってる?」
「知ってるよ! というかその人、実は僕なんだよね」
本当に同一人物であるかのように、べらべらと語り出す。冗談ではなく、どうやら本気で言っているらしい。
なんとなくこうなることはわかっていた。だからあえて聞いたのだ。まさに考えなしの嘘つきという感じだった。
結局この日、私は謎の大学生アベルの、彼の喋りたいことを延々と聞かされた。
けれども、つまらなかったかといえば嘘になる。聞き入るというほどではないけれど、それなりには楽しかったのである。
どんな間違いか、私たちは連絡先を交換した。
そして数度のやり取りを交わしたのち、また外で会うことになった。なってしまった、という感じだ。この展開はあまりにも予想していなくて。
曇り空。私は、橋の上に立つ。ここがアベルとの待ち合わせ場所だった。
彼はまだ来ない。遠くの、温泉街の廃墟群をぼんやり眺めて、はたして本当にこれでよかったのだろうかと考えた。
アベルから、スマホにメッセージが届いた。
『やあ。今日は僕、昔の日本にあった、吉原について勉強していたんだ……』
画像もいろいろくっついている。どっかのサイトの引用、参考書のスクショ。
歴史について勉強するのはおおいに結構だ。吉原について知ろうという姿勢は素晴らしい。
でも急にこれを送られても、なんというか、一体どう返事をしたらいいものか。
それっぽい返信を書いては消して、書いては消してを繰り返す。
倦怠感が襲う。
私は彼を待っているんだけど、彼はここに来るんだろうか。来よう、という意思があまりに希薄に感じられて、今日という日がたいして楽しくないだろうことを、もうすでに察しはじめている。
橋の上でどれくらい待っているんだっけ?
そもそも最初からおかしな人だったのだ。おかしいと思ったら案外楽しくやり取りできる人だ、そう思って第一印象がごまかされてしまったけど。
私の指は、いまだ、文章を書いては消してを繰り返す。
帰ってしまおうか迷う。すっぱり縁を切るべきか判断がつかないでいる。
なぜ迷う必要があるんだろう。絶対、絶対、ろくなことにはならないのに。