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プロローグ

 硝煙がそこかしこに見える。どこからともなく聞こえてくる悲鳴と泣き声は思わず耳を塞ぎたくなる程だった。だが青年には耳を塞ぐための手をもう持っていない。この手は銃や剣を握るための道具でしかなくなっていた。


 いつからだろう。何かを守る為に決意して手に取った筈の矛が、誰かを守るために奮励して手にした筈の盾が、凄惨な現場で沸き起こる恐怖と悔しさによって震える己を傷つけていったのは。


 『何かを一瞬で消してしまう温かさとは何なのだろうか』

 『何かを一瞬で生んでしまう冷たさとは何なのだろうか』

 『守るために奪うことの正しさとは何なのだろうか』


 そんなことを考え出すと止まらない。胃から口へと吐き出される嫌悪感と体からにじみ出る不快感。そこでやっと怒りを感じて、悲しみを感じて、現実を感じられる。逆に言ってしまえば、そうまでしないと脳髄にまで伝わってくることがなかった感情たちは、今の今まで目の前以外のことを教えてくれることなんてなかった。それはまるで一種の防衛本能でもあり、麻薬で洗脳されているようなトリップ状態でもあった。

 始まりはなんだったのか、終わりがあるのかどうかも分からないそんな現状。ただひとつ、やっと周りを見渡せるようになった青年にも分かることがあるとすれば、それは終わりがくるまで始まりが続くということ。

 この事実に気がついたときにはすべてが遅かった。それを知った所で青年にはもう止まることも止めることも出来なかった。そのときにはすでに自分が何かを奪い、誰かを傷つけることの意味を求めていることに気づいてしまっていたからだ。意味を求めることで今までの自分は正しかったのだと正当性を求めなければ、そうでなければ、自分が今までしていたことが全部返ってきてしまうとそんな気持ちが生まれてしまうのではないかと恐ろしさで発狂してしまいそうだった。……一番恐ろしいのは、他の事には気づかなかったくせにこれだけは嫌でも分かってしまう自分の浅ましさの筈なのに。


 小さな火種だったのだろう。だが例え小さな火種であっても森のような場所に落ちてしまえばあっという間に烈火となって燃え広がるように、襲い掛かる火を消火するには時間が掛かり過ぎると誰にでも察してしまえるほどの業火へと変化していた。

 あれだけ簡単に始まったはずなのに、終わりにすることは難しいと着火した人の心が叫んでいる限りこの地はカラカラに乾いたまま。それも皮肉なことに、乾いた地に燃え広がる人の心とは裏腹に、地面は人が燃え上がった分だけ誰かが零した水で濡れている状況という風刺を効かせている。


 いつの間に汚れてしまったのだろう。それとも最初から汚れていたのだろうか。この戦場の中で随分と赤黒く染まってしまった服を纏った青年はついに武器をだらんと降ろして呆然とその光景を眺めた。剣先が地面に触れて傷を作ってもどれがその傷なのか分からないほどの傷跡たち。

 誰かのように逃げることも、誰かのように泣くことも、誰かのように怒ることも、誰かのように嗤うこともなく、青年はただただ迷子になったかのように立ち尽くした。知り尽くしたはずのこの場所で迷子になれることを喜べばいいのか、誰も迷子にならないことを悲しめばいいのか。誰もが目的地をなくしているはずのこの場所で青年だけが途方に暮れている。

 もうこんなものは要らないと捨てる事すら出来ないこの握られた剣が手から離れてくれない。死にたくないのに、死線に立たなければいけない。殺したくないのに、前を向かなければいけない。大勢の人がいるはずなのに、まるでここには自分一人しかいないみたいだ。考えれば考えるほど、青年の心に出来た傷を隙間風がガタガタと音を鳴らして綻びを広げていく。


 ――くいっ。


「あ、あのっ」


 不意に青年の右袖が引かれてハッとする。

 自分は何をぼうっと突っ立っているんだ。ここは戦場だぞ。己の気持ちなど捨てなければ、ただ守りたいものの事だけを考えなければ、待っているのは死だけだと知っているはずだろう。

 青年は瞬き一つで感情を直ぐに切り替え、引かれた袖を振り払う勢いで剣を構え直した。


「ッ!」

 

 青年の目が見開き、息が詰まった。

 迷いを断ち切ったはずの気持ちが一瞬で揺らいでしまった。


「なんで……なんでここに子供が……」


 剣を振りかざすはずだった高さよりも下。青年が振り向いた先にいたのはこの血生臭い場所には不似合いの少女がこの場所にお似合いなボロボロの服を纏って立っていた。

 ここは戦場となって久しい場所。なのに何故未だに子供が一人で残っているのか。この辺りに残っているのは自分と同じような戦うために武器を持ったものか、亡骸となってしまったものだけのはずだった。とくに子供なんてとっくにどこかへ行ってしまっていたと思っていたのに。


 青年が振りほどいたせいで行く手を失った少女の手が手持ち無沙汰に空中で彷徨い、最終的にお腹辺りの服をぎゅっと両手で掴んで落ち着いた。

 自分がそうであったように少女のその仕草は何かの決意を固める勇気の行動に思えた。

 剣を握りしめる自分と服を握りしめる少女。青年と少女。二人だけの空間は、歪なまま秒針だけが進んでいく。


「あのっ、あのね。みんなどこかいっちゃったの。おにぃちゃん、みんながどこにいったのかしりませんか?」


 何も喋れず、行動にも出来ずに剣を構えたまま呆然と見つめる青年に少女が不安そうな目で見つめてくる。

 こんな惨状とも言える場所で武器を剥き出しにしている人間を前に尋ねてくるなんて警戒心が無さ過ぎるのか、それとも少女に無害だと思われてしまう程情けない表情でもしているのだろうか。


 ……あぁ。この少女が敵だとして、自分はこの少女を傷つけなければいけないのだろうかと青年の中にある責任が揺らぐ。だけど同時に敵は敵なのだと戦場に立つ自分が言ってくる。姿形が少女だからといって命を見逃すのかと、過去の亡霊たちが囁いてくる。お前がやっていることは誰もを平等に幸福をもたらして、誰もを平等に不幸をもたらす。目の前にいる少女は所詮それを具現化しただけでしかないのだと。

 纏わりつく思考とこびり付く錆びて見える剣。いくら綺麗にしようと拭っても、どれだけ年月が経とうとも、きっとどれも鈍らになんてなりやしない。見た記憶だけじゃない。聞こえた音も、手の感触も、浴びた熱さも、匂いも、味わった空気も、勝手に五感が全部覚えている。忘れることは許さないと嫌な記憶ばかりが繰り返し鮮明に憧憬を見せてくる。


「? おにぃちゃん?」


 少女がゆっくりと手を伸ばしてくるのを目だけで追いかける。近づいてきた手が青年の右袖を恐る恐る握りしめてくる。さっき感じた袖を引かれる感覚。だけど今度はさっきと同じようにこの少女の手を青年は振りほどくことが出来なかった。一回、ただの一回だけ青年の手に握られたものを振りかざすだけでいとも簡単に遠ざけることが出来るのに、体が石になってしまったみたいになぜだか視線以外が動いてくれない。

 赤黒く染まった服に少女の小さな手が重なっている。決して綺麗とはいえない手はこの少女が必死で生きてきた証。お互い綺麗じゃないのに、少女だけは綺麗に見えるこのコントラスト。それは眩暈がするほどの罪を伝えてくるようで、青年の心情など知らない少女がとても恐ろしく見えた。


 ……これが答えなのだろう。


 気づかぬうちに震えている手が、まだ自分に心があると揺さぶってくる。


「――なら俺と一緒に探しに行こう」


 少女に掴まれていない手だけで剣を持ち直して、少女に刃が当たらないよう降ろした。握られた袖はそのままに、青年は少女を安心させるために膝をついて目線を合わせる。

 もう間違わない。二度と腕を振り解かないと今度はこの子に誓おう。

 それは青年の手から剣が落ちた瞬間だった。


「ほんとう? おにぃちゃん、いっしょについてきてくれるの?」

「あぁ。絶対に君を一人にしないよ」


 この少女の家族が生きているかは定かではないが、残念ながらこの状況では希望をもつよりも絶望的だと思った方が悲しみは減るのだろう。そしてそれを少女が理解できていなくても青年は知っている。例えその事実がそうだとしても、青年の中に探さないという選択肢はない。だってこの戦場でこの子が今ここで生きているように、どこかに希望は落ちているのかもしれないから。


 青年は少女の顔を見つめる。涙の跡が残った顔。きっとたくさん不安になって泣いたのだろう。微かに残った涙の跡を拭おうと青年は手を伸ばした。だが少女に触れる直前で手が止まり、そして何もせずそのまま手を引っ込めた。

 この汚れた手で綺麗なものを触ってしまっていいのかという迷い。そんな資格なんて自分にあるはずがないのに、都合がいいときだけいい人のように手を差し伸ばす。そんな自分の行為で拭えるはずの汚れがもう二度と落ちなくなってしまうそんな気がした。

 青年は純真な目で見つめてくる少女に見えないところで手を握りしめて織り交じる感情を隠した。


「ぜったい? わたし、ほんとうにひとりじゃない?」


 青年は頷く。

 

「あぁ。一緒だよ」


 いつかは知る現実。その事実を知ったときこの少女は一体どうするのだろうか。家族を想って生きていくのだろうか。それとも家族のところへ行きたいと言うのだろうか。そして真実を知ってしまったとき、この子は自分を凶弾するのだろうか。

 青年は頭を振る。

 どちらにせよ約束したのだ。一人にしないと一緒にいるのだと誓ったのだ。ならば、この子が一緒にいるのが嫌だと思う感情が生まれるまで一人にはさせない。遠くない未来で決別することになろうともこの子が納得がいくまで逃げずに向き合いどんな悪口雑言も受け入れよう。それだけだ。

 例えこれが青年のエゴだとしてもこの少女に生きてほしいと、未来を想ってほしいと思ってしまったからには責任を放り出すことは今の自分にはもう出来ないのだから。

 それがこの子を一人にしてしまった一因である自分に出来る事だと、青年は守らなければと責任を逃れるように知らずのうちにこの少女へ贖いを求めていた。


「よかった!」


 不安気な表情をしていた少女が微笑んでくれるのを見て、青年も忘れていたはずの穏やかな表情が引き出された。


「じゃあいっしょにしんでくれるのね!」

「…………え?」


 ドォオオオンッッッ!!


 ――ひと際大きな爆発音が鳴り響き、一瞬で視界が黒煙に包まれた。

 少女の一言を最後に周辺に聞こえていた人の声が静かになった。

 青年の声は誰にも届くこともなく霧散した。

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