#90
マリが捜索のために放った蛾と入れ替わるようにして、エイイチは狼戻館に遅い帰宅を果たした。
「どこで、なにしてたの!? いま何時だと思ってるの!」
館の玄関にて、怒気を振り撒くマリ。
エイイチは片手を立てて謝りつつも、顔をへらへらさせる。
「まあまあ、そんな怒んないでよマリちゃん。ほんと悪かったって。あそうだ、お土産もあるよ」
まるで酔っ払って帰ったのち、嫁の機嫌を取る亭主のようである。寿司折でも渡しそうな勢いだったが、実際にエイイチがお土産と称してマリへ渡したのは本だった。
「……なに。これ」
「なんかめずらしいでしょ、それ。友達が出来たんだけどさ、“好きなもの持ってっていいよ”って言うから貰ってきた。マリちゃん復学するなら漫画以外も読んだ方がいいんじゃないかな~って」
大きなお世話だ。と思いつつマリがペラペラとページを捲ってみると、どうやら文字は日本語ではなく洋書のようだ。こんなものマリが読めるわけもない。
装丁は頑丈でかなり凝った装飾が施されており、手触りから高級感は伝わる。エイイチの言う通りめずらしい書物なのかもしれない。だがそれはそれとして。
「友達? というか――エイイチくん“女”の匂いがする」
エイイチの首もとに寄せた鼻を、マリはスンスンと鳴らした。
「いや、だからまあ、友達」
「くさい。イヤな匂い。……ん?」
女の影は腹立たしく思うし、匂いの背景はマリたち異形が本質的に嫌うもので満ちている。しかし、微かな同族にも似た気配を感じる。たとえるなら光と闇、神と魔が同居するかのごとき違和をエイイチの残り香に覚えたのだ。
「今日は歩き通しで疲れたから、メシより先に風呂へ入ろうかな! あ~明日は筋肉痛かなこりゃ。湯船でマッサージとかしてくれたら気持ちいいだろうな~!」
一緒に風呂へ入るという約束を果たせと、あわよくばマッサージまでしてもらうつもりでエイイチは発言したのだろう。露骨にチラチラ目線を送るも、背を向けるマリは完全にシャットアウトの構えだ。
明確な帰宅時間は設けなかったものの、不義理を働いた配下に褒美はない。
「わたし、もう入ったから。お風呂行くなら、ついでに未洗濯のパンツも洗っといて。シルクだから手洗いで、丁寧に」
艶やかな光沢のあるパンツをエイイチへ押しつけると、マリはエントランスホールの階段を上がっていってしまった。
指を通してパンツを広げ、まじまじと見つめるエイイチ。ものすごい既視感に襲われるのはなぜなのか。
「……ま。いいか」
べつに悪い気はしない。そもそもどうしてマリはパンツを持ち歩いていたのか、自分で洗濯するつもりだったのだろうか。もしや今ノーパンなのでは? などと考えを巡らせていたエイイチは、ふいに物音が聞こえてパンツをポケットに仕舞う。出所を探ると、どうやらツキハの書斎のようだ。
『――考えなしの行動が、どういう結果を生むかわかって? ……あなた、さっきからわたくしの話を聞いてるの?!』
どん! と室内の机か何かを激しく叩く音に、エイイチの肩が跳ねた。中を覗かなくとも、ツキハの怒りが扉から漏れ出ている。
『お待ちなさい! まだ話は終わって――』
『ツキハ様。時間も遅いことですし、もうその辺りで……』
なだめる声はアヤメのものだろう。ややあって扉が開き、外へ出てきたのは澄まし顔のマリだった。
「な……!?」
マリはついさっきエントランスの階段を上がっていったはずだ。一階の書斎から出てくるのは物理的におかしい。
口を半開きで固まるエイイチに気づくと、マリは通り過ぎざま、事も無げに片手を軽く振ってみせる。
「あ。ひさしぶり、元気だった?」
「い、いやいや玄関で会ったばかりだろ!? ていうか、マリちゃん自分の部屋に戻ったはずじゃ」
「マリに言っておいて。リン酸多めの高級な有機肥料、忘れないでって」
マリからマリへと伝言を頼まれた。伝言の内容もエイイチには意味不明だったが、マリは部屋に戻るでもなくサンルームの方へ歩いていく。裏庭へ向かうようだ。
行き先を追いかけ、廊下の窓にへばりつくエイイチ。裏庭を歩くマリの姿をたしかに捉えたはずが、しばらく眺めている内にその背は夜の闇へ紛れて消えてしまった。
どれだけ目を凝らしても、庭の中央にはエイイチの背丈と同じくらいの樹木が在るだけだ。
「なんだあれ……生き霊? それともドッペルゲンガーとかいう」
まぎれもない心霊体験。間違いなくここは【豺狼の宴】のホラー世界。だがここでエイイチはふと気づく。
怖くないのだ、不思議と。パンツのときにも感じた、言い様のない既視感が恐怖心を和らげている。振り返れば、デジャヴは館を訪れて様々な場面で発生している。
なぜ。という疑問はあれど、現段階ではいくら考えても解答は得られそうにない。
「うぅん……。とりあえずパンツ洗って、今日は寝るか。疲れてんだろうな」
疲労も確実にある。エイイチは目尻をこすりながら、今度こそバスルームへ向かうのだった。
◇◇◇
翌日。干していたマリのパンツを回収するため、エイイチは裏庭へ向かう。途中、エントランスホールで段ボールを抱えるアヤメと遭遇する。
「おはようございます、アヤメさん。その荷物なんですか?」
「エイイチ様、おはようございます。マリ様宛のお荷物です。復学に向けて色々お取り寄せしていらしたので、これもその一つかと」
「へえ、重そうですね。俺が運びますよ」
「いえ、お気遣いなさらず」
「マリちゃんにはどのみちパンツ返さなきゃなんで。ついでに持っていきますから、そこ置いといてください。ちょっとパンツ取ってくるんで!」
「は……。……パンツ?」
庭でパンツを回収したエイイチはすぐ踵を返し、アヤメから段ボールを受け取った。かなりの重量があり、少し面食らう。
「けっこう腰にくる……! いったい何を頼んだんだろ」
「それでは申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします」
アヤメと別れ、エイイチはまっすぐマリの部屋へ。段ボールを床に置いてノックすると、直後にはマリが顔を出す。エイイチはひとまず洗い立てのシルクを差し出した。
「はい。マリちゃん、パンツ」
「ん」
「ちゃんと汚れ、綺麗に落としといたから」
「汚れなんかない!」
地団駄を踏むマリに対し、エイイチは悪びれもせず床の段ボールを指さす。
「あと、なんか荷物届いてたよ」
「そう。じゃあ、中へ運んで」
小間使いのごとき扱いである。しかしそんなマリの態度にも慣れた様子で、エイイチは言われた通りに荷物を部屋へ運び入れた。どうして腹が立たないのかここでも不思議に思う。前世は奴隷だったのかもしれない。
「荷物開封して、本棚に並べて」
「はいはい。本棚?」
ガムテープをべりべり剥がせば、中身は大量の本だった。シリーズものなのか同じタイトルが二十数冊も詰め込まれている。
「また漫画……」
「ちがう! わたしだって、字だけの本も読めるんだから」
けれど表紙のイラストは二次元のかわいらしいキャラクターであり、エイイチが手に取るとどうやらライトノベルのようだ。
「えーと、なになに? “公開処刑された極悪令嬢、現代日本で愛を知りスクールカーストの頂点へ君臨する”……」
「ひさしぶりの学校だからね。いまの高校がどんななのか、わたしも少しは学んでおくべきでしょ」
エイイチは沈黙した。マリは学ぶべき箇所をいろいろと間違えている気がしてならない。だがエイイチも学校というものに詳しくないので、何も意見ができないのだ。
それはそれとしてこの令嬢、高飛車そうなところがマリそっくりである。
既刊二十を超える人気ラノベシリーズを本棚に並べつつ、エイイチはマリへたずねてみる。
「そういえば昨日の夜、書斎からマリちゃんそっくりな女の子が出てきたんだけど。あれどういうカラクリ?」
「ふぅん。ちゃんとその子、お姉ちゃんに怒られてた?」
「そりゃもう。ツキハさん、すごい剣幕だったよ」
かつて狼戻館に混乱をもたらしたドッペルゲンガー。源となる樹木“希望の樹”がある程度の力を取り戻したことにより、ドッペルも復活を果たしているのだ。あろうことかマリはドッペルと取り引きを交わし、自身の身代わりとして活用しているわけだが。
「あれってマリちゃんの生き霊かなんかだろ? つまり、やっぱりここはホラーゲームの世界ってわけだ」
言い逃れはできないぞ、と。エイイチは鋭い視線をマリへ向ける。
マリは短く息を吐くと、テーブルの上に置かれていた本を取って、ベッドにどかりと尻を落とした。弾むスプリング。マリはソックスを履いた足を、エイイチの目前で左右に振る。
「エイイチくんはさ、盛大な勘違いをしてる」
「勘違い? 俺が?」
「そ。たしかにあれは、霊的な存在かもしれない。でもだからといって、ここがホラーゲームの世界とイコールにはならない」
「よ、ようするに……?」
「この世にはあるんだよ、昔から。幽霊、妖怪、超常現象……UFО。ホラーゲームじゃなくたって、普通の人が気づいてないだけで」
「いやUFОはさすがに無い無い!」
馬鹿にしたような笑みで否定するエイイチを、睨みつけるマリ。UFОに関してこの男にだけは突っ込まれたくなかった。
「たとえば、この本だってそう」
気を取り直して、マリは手にした本を開く。ラノベではなく、昨夜エイイチからお土産にもらった洋書と思しきものだ。
「これ、呪物だよ」
「え!? 呪物って……呪いのあれ?」
「それ以外に何があるの。だれに貰ったか知らないけど、そいつとは関わらないで。エイイチくん、死ぬよ」
「死ぬって、そんな、まさか、はは」
ビビり散らかすエイイチだが、狼戻館の住人はそれぞれ好んで呪物をコレクションしている。マリが断言するのなら、本は呪物で間違いない。
「わたしは呪いに耐性があるからいいけど、エイイチくんなんかが見ちゃったら大変だよ? これ。たぶん、ほんの数ページ開いただけで――」
エイイチに優位が取れて嬉しいのだろう。マリは足を組み、ドヤ顔でページを捲った。
ボタ。ボタ。ボタタ。……と。雫が唐突に降り落ちてきたかと思えば、本も太ももも一緒くたに赤く濡らしていく。
「マ、マリちゃん!?」
「あえ?」
マリの鼻から、尋常ではない量の鮮血が噴き出していた。




