#83
しわくちゃの紙を広げると、ラムネ瓶の簡素なイラストが描かれていた。
「あ」
ソーダ味のキャンディの包み紙が、男の手を離れて風に飛ばされていく。
べつに惜しくはない。どこで食べたのかも覚えていないし、どうせ中身は空だった。唯一の持ち物があのようなゴミで、男は落胆すら覚える。
うっそうと生い茂る森は月明かりも届かず、歩くのさえ困難だ。渇きと飢えを我慢しながらひたすら足を動かした男は、ようやく建物を発見する。
鉄錆た門から、真っ直ぐに伸びるアプローチ。進む先には巨大な洋館が鎮座していた。膝を震わせた男は、思わず悲鳴が漏れそうになる口もとを両手で必死に押さえつける。
「うそ……だろ。こ、ここって、まさか」
三階建てのゴシックな館は、まるで周囲一帯のあらゆる光源を吸収したかのように、闇の中で妖しげな輝きを放つ。
おそるおそる近づいた男は、アンティーク調の特徴的な玄関灯や、獅子を象るドアノッカーを確認して疑惑をさらに深めていく。
「……ヤバいって……間違いない」
後ずさり、再び洋館との距離を離す男。何度見直そうとも、館の全体像は男が忘れもしない外観と一致していた。
ついに男は確信へと至る。この洋館は男がかつてプレイした、あの――。
【豺狼の宴】というホラーゲームの舞台だと。
洋館に棲む四名の異形はそれぞれ超常の力を持ち、迷い込んだ主人公へと容赦なく牙を剥く。当然ゲームオーバーとなるわけだが、問題はその死亡エンドの数である。
異形に直接害される他にも、凶悪なトラップが用意されていたり、うっかり開けてはならない扉を開けたり、うっかり呟いてしまったり等。選択を一つミスっただけで理不尽なBAD ENDへ直行するのだ。
売上も振るわず、ニッチな層以外が話題にあげることもなく。ホラーゲームの歴史に名を刻めず消えていった怪作。
そもそもホラーなどあまり好まない男だからこそ、余計に凄惨な【豺狼の宴】の内容が記憶にこびりついている。妙なちんちくりんの薦めでプレイしたような気はするのだが、プレイ当時の背景は相反して思い出せないでいた。
「訪ねてみるしか、ないか」
足もともおぼつかない夜の山道を、闇雲に歩き回るのは得策ではない。空腹もひどく、このままでは野垂れ死んで動植物の養分となるのがせいぜいだろう。人知れない山中に遭難した時点で、選択の余地はなかった。
男は玄関扉の前へ立つと、ドアノッカーを四回叩く。
……いる。扉の向こうで、何者かが蠢く気配を感じる。
はたして鬼か蛇か。ゆっくりと扉は開き、給仕服のシルエットが見えると男に緊張が走った。
ゲーム【豺狼の宴】で最初に主人公を出迎えることになるのは、冷徹な殺戮マシンこと館のメイド――。
「はぁ~い。“アヤセ”で~す。お帰りなさいませ、ご主人様~ん」
現れたメイドは、男の目前で無駄にぴょこぴょこ飛び跳ねながら名乗った。ジャンプするたびに片目を隠す黒髪が跳ね、メイド服では抑えきれない豊満な胸が縦に揺れる。
「…………」
面食らって声も出せない男に、黒髪の巨乳メイドは追い打ちをかける。
「遅いご到着で心配しましたよ~。あなたが“先生”ですよね~? さ、とりあえず中へどうぞ~」
無理に抑揚をつけて喋っている風だが、メイドはずっと真顔である。おかしい。口調もさることながら、メイドの名前と容姿に関しても男は戸惑いを覚える。
「あの……アヤメさん、ですよね?」
「アヤセですぅ~」
メイドはまたコミカルにぴょんぴょんジャンプした。強調するためか、自らの下乳を両手で支えるようにしながら跳ねていた。
男の一番の疑問点もここなのだ。【豺狼の宴】のメイドは容姿こそ優れているが、決してアピールできるほど胸の大きさはない。むしろ肉体の線の細さと相まって非常に薄い。となると、この館はホラーゲームの舞台とは別物なのだろうか。
顎に手をあて考え込む男の目前で、メイドの片方の乳が下へとずり落ちる。
「あ」
テーン……テン、テン、と。
弾んで転がっていくゴムボールを、男とメイドは二人して目で追った。
「アヤメさんですよね?」
「そうですが、何か」
メイドは観念したらしく、無表情で給仕服の中に手を突っ込むと、もう一つのゴムボールを引き抜いて投げ捨てた。
肉感とは真逆の痩身、陰鬱な立ち姿。やはり【豺狼の宴】の最凶メイド、アヤメその人で間違いはなかったのだ。ゲームとはやや人格が異なって見えるが、色仕掛けで罠に嵌めようとする辺り、現実の方が質が悪い。
男は恐怖に駆られ、慌てて踵を返す。
「どこへ行こうと言うのです」
「ひぃ!」
アヤメにがっちり掴まれてしまった腕を振り回すも、男の力では抗えないようだ。
「ちょっと俺っ、急用思い出しちゃって!」
「大丈夫です。ここは、あなたが思うような館ではありません」
「え……?」
アヤメはすぐに男の腕を解放した。男も意外に思ったのか、一応は話を聞く姿勢をみせる。
さて、ここまでの二人のやり取り。実は盗み聞きしている“耳”があった。
一匹の蛾が館の外壁にへばりつき、男とアヤメの会話を宿主へ送信している。
待雪マリは、ダイニングルームにて同席するセンジュと顔を見合わせたのち、優雅にティーカップを傾ける待雪ツキハへと視線を移す。
「お姉ちゃん。アヤメさん早々に自白しちゃったけど、どうするの?」
「だからあたしは反対したろ、演技なんか無茶だってさ。マジどーすんだよ?」
苦言を呈するマリに、センジュも乗っかった。
しかし当のツキハは涼しい顔で平焼きのフォカッチャを千切り、口へ放り込む。
「名乗ってしまったのなら、仕方ないわ。わたくし達も名を騙るのは止めましょう。違和感を増大させてしまいかねないから」
再び紅茶で喉を湿らせたツキハは、ナプキンで口を拭うとはっきり断言する。
「でも計画に支障はない。それぞれ得手不得手はあって当然ですもの。みんなでカバーして支え合うのが家族でしょう?」
アヤメの醜態の一部始終を見ておいて、よく支障はないなどと言えたものだ。単にツキハは自身のミスを認めたくないだけではと、マリもセンジュも疑いの眼差しをやめなかった。
「……今一度、状況の整理をする必要がありそうね。あれからどれくらい経ったのかしら」
まるで“ダメな愚妹達ね”と言わんばかりにツキハは息を吐く。
「霊道の結界が破れたことによって、ようやくクロユリ先生との連絡が可能となった。クロユリ先生の情報提供と、最終決戦に立ち合ったマリの報告。二人の証言を照らし合わせると、記憶を失った“あの方”はこの館をホラーゲームの世界だと思い込む可能性が高い」
覚えているだろうか。男の旅立ちの際、クロユリはたしかに印の施されたキャンディの包み紙を“二枚”手渡していた。
アダルトゲーム【洋館住んで和姦しよ♪和洋セックちゅ♡】と、ホラーゲーム【豺狼の宴】のプレイ記憶を想起させる包み紙。
一枚はアダルトゲームの記憶を呼び起こしたのち早々に失われたが、男はもう一枚を冒頭からずっとポケットに忍ばせていた。
「解像度を高めるために、あなた達にもプレイしてもらったわね?」
ツキハに問われ、複雑な表情で頷くマリとセンジュ。
そう。計画遂行にあたり、住人の全員が【豺狼の宴】と【洋館住んで和姦しよ♪和洋セックちゅ♡】をルートの一つも余すことなく完クリさせられたのだ。
「お姉ちゃんがゲーム作ってるとか、全然知らなかった。でも、なんで最初の章がわたしなの? すぐ死んじゃうし、なんか雑魚みたいでイヤなんだけど」
「ホラーの方はともかく、もう一つの方は……その。と、とくにあんた自分のルートをさ、よくあんな乱れたストーリーに――」
「今、ここでゲームの内容を語ることが必要かしら? 必要ないわよね? あるなら理由を述べなさい」
言葉は穏やかだが、ツキハは獲物を仕留める捕食者の瞳をしていた。目がガン開きだった。
二人の妹が素直に謝ったので、満足気に微笑むツキハ。
「……さ。そろそろあの方がダイニングに来る頃ね。わたくし達も準備しましょう。いいこと?」
なんとしても“かつての男”を取り戻すため、盛大に欺かなければならないのだ。
「この館はホラーゲームなどではなく――アダルトゲームの舞台なのだと、あの方に“勘違い”させるのよ」
◇◇◇
正面玄関の扉を開いたアヤメは、中へ男を促しながらたずねる。
「……お名前をうかがっても?」
「あ、はい。俺はエイイチって言います」
名を確認し、アヤメはしばらくの間、目を閉じていた。やがて薄く開眼すると、感慨深そうに名を繰り返す。
「……エイイチ様。承りました。狼戻館へようこそ。あなたのお帰りを、心よりお待ちしておりました」
思わず見惚れるほどの、アヤメの笑顔。微かに潤むかのような瞳は、どこか胸を打つものがある。
だがここで気を許してしまっては命が獲られると、エイイチは口を真一文字に結んで警戒を強めるのだった。




