#82
そこは広い範囲にわたって草花が渦を巻くように萎れ、山肌があらわになった円形の領域。飛行物体の直下にあたる場所は所謂ミステリーサークルが形成されていた。
「はぁ、はぁ、全力疾走しっ放しでさすがに疲れたな。船は真上だ、見えるか?」
「見える。けどなんか、少しずつ高度があがってる気がする。急いでセンジュ。エーイチくんがどっか行っちゃう」
「急いでって、やっぱり人任せかよ!」
吠えるセンジュに目もくれず、マリは夜空へまっすぐ射抜くような視線を向けている。流れてくる厚い雲が、間もなく月も船も隠してしまいそうだ。
マリの態度に腹は立つが、このままでは飛行物体を見失う可能性もある。それにこうなることをある程度予測していたセンジュも、打つ手を考えなかったわけではない。
「単純な手だけど時間がねーからさ! おまえ一人で飛んでこい!」
センジュの体が大量の発汗をはじめる。いや汗ではない。髪も、皮膚も、肉も骨もどろどろと溶け落ちていく。“フルード”の二つ名が示す通り完全な液体と化したセンジュは、真っ赤なレール状の細長い川を夜空へと伸ばした。
まるで月への架け橋。その全長は三百メートルにも及んだ。血河は絶えず激しく流動している。先端から滝のごとく溢れ落ちた血液は、地上を伝って始発点へと戻る循環型だ。
ドドドドと轟音を発して空へ昇る血の河川を、マリは丸くした目を這わせて見上げる。
「ウォータースライダー?」
「発射台だよ! これで勢いつけりゃ船まで飛べんだろ!」
「すごい、流しそうめんみたい。ていうか、どこに口があるのこれ? どうやって喋ってるの? ねえ?」
「どうでもいいだろそんなこと!? 早く乗れよ馬鹿!」
「靴下が汚れそう……」
「おま……っマジでこれっ! めちゃくちゃ体力使うからっ、早くしろって……!」
渋々とマリはスカートの裾をつまみ、片足をあげる。発射台に足を乗せる寸前、フッと笑みをこぼした。
「やるじゃん、センジュ。さすが、わたしの妹だね」
「はいはい! しっかりエーイチ連れて戻ってこいよ! お姉ちゃんッ!!」
水流へと足裏が触れた途端、マリの視界は一気に地上を離れる。瞬く間に森は眼下に消え、風圧で崩れそうになる体勢をなんとか保持する。
ウォータースライダーとは言い得て妙な表現で、感覚としては同じアトラクションに類するジェットコースターに近い。しかも安全性など欠片も配慮がない世界最速。
「――あはははは!」
遊園地で遊んだ経験がないマリは、それは楽しそうに笑っていた。
上手にライドし、六十度もの急角度を誇る血のレール上を滑走する。十分に加速したところで終点が訪れ、マリは大空へと飛び発った。
重力に逆らい夜空を切り裂く弾丸。翅は斜め下へわずかに広げ、紙飛行機のようなシルエットでマリは上昇する。実際はそんなかわいらしい表現に収まるものではなく、音速戦闘機に迫る速度を叩き出している。
マリは確信した。飛行物体どころか、月までだって飛べると。
船へ近づけば近づくほど、なぜか力が増していく感覚があった。
発生したベイパーコーンが周囲の雲に溶け、空気の圧縮により身体は高温となる。防護に纏う鱗粉が燃え盛る。黄金に輝くマリは、異形ながら神々しさすら備えた一塊の星となる。
イレヴンも把握しきれなかった異形、待雪マリとはいったい何者なのだろうか。
ゲーム【豺狼の宴】に登場するマリは、ヒツジに負い目を感じている。しかしそれは物語の都合からツキハに脚色された存在に過ぎない。猟幽會のみならず、実のところ姉を騙るツキハでさえマリの起源を理解しているとは言い難かった。
本人も同様で、マリは自身の誕生にさほど興味を持っていないのだ。
覚えているのは一つだけ。真っ暗な闇の中、パタパタと飛び回る蝶を見上げていた。
綺麗だな、とマリは思った。
蝶を捕まえたかったわけじゃない。ただ欲しくて、自分も同じようにしてみたくて、あるのかもわからない手を伸ばした。
もぞもぞと思い通りにいかないもどかしさが、余計に渇望をもたらした。視界の一羽の蝶のみを追い続けた。
欲しかったものは美しい羽か、自由か――。
気づけばマリは、現在の姿でそこにいた。
もう蝶を追うこともない。すでに越したものに興味はない。
狼戻館の他の住人のような、重い過去や悲しい生い立ちもない。
だからこそマリの振る舞いは純粋だった。小細工を弄さない暴力も、傲慢な欲求もすべて純然たる美学に基づくもので、マリだけが持つ特権だった。
宿命などという枷がないからこそ、誰よりも高く飛べるのだ。
「エーイチくん。いま助けてあげる」
わがままな少女の特別な願いが、叶わないはずがない。
雲を突き抜けた。広大な夜空へ飛び出したマリは、銀色の船底を見据えるとありったけを込めて拳を握る。
◇◇◇
「――天使だと? 気でも触れおったか、貴様」
イレヴンが鼻で笑うも、うつむくエイイチは微動だにしない。生意気な口もいよいよ利けなくなったのだと結論づけ、イレヴンはアイナへと視線を移す。
「さあ、次は予定通り貴様だI7。立派な戦士に生まれ変わらせてやろうぞ」
「や、やだ。こないでよ! うちは、伊賀の末裔……甲賀になんて、ぜったい……」
植えつけられた人格に過ぎないとわかっていても、アイナは“設定”の生い立ちにすがる。たとえ真実であろうと、はいそうですかと受け入れられないものがあるのだ。
「そうか。それほど嫌ならば、仕方ない」
「え?」
「軟弱な者は、月にはいらぬ。貴様は記憶と言わず、人格ごと抜き取ってしまおう」
触手化したイレヴンの腕が、アイナの眼前でうごめく。これから尊厳を犯されると知ったアイナの恐怖は、いかほどのものか。
「やめ……――」
か細い抵抗も許されず、触手はエイイチの時と同様にアイナの頭を覆い尽くす。
「なに、案ずるなI7。我の肉体もそろそろ代え時。脱け殻となった貴様の体に我が精神を移植し、有効活用してやる」
スキンヘッドの大男が語る、無慈悲な性転換宣言にもエイイチは反応しない。生気の抜けた目で事の成り行きを見守るだけだ。エロゲーにちなんだ知識も、記憶と共にやはり失われてしまったのだ。
「A1の記憶で霊道とやらの場所は判明した。我らはこれよりあちら側を侵略し、地球を徹底的に蹂躙する」
もはや猟幽會の侵攻を、イレヴンを阻むものは何もない。幽世と同じく、現世に住む人間も残らず駆逐されるのだろう。
「アポロ計画……太陽の神、アポロンの名を冠したコード。ならば女体を得る我も、地球の神話になぞらえてこう名を代えようか」
イレヴンは、感情豊かに歯を剥き出して笑う。
「我こそは月の女神――“アルテミス”!」
イレヴンが神を名乗るのと、ほぼ同時だった。
大気圏突入の圧縮と超高温にも余裕で耐える船の床が、小山のように丸く盛り上がった。オレンジに変色して捻じ曲がり、金属の床が飴細工同然の脆さでミチミチと異音を発する。
「な……」
直後に船底は砕け、天井まで衝撃が突き抜ける。
緩慢に面を上げるエイイチと、背後を振り向いた姿勢で固まるイレヴン。両者の間には、宙空で静止する少女。
融解して消し飛んだ床には風穴が空いていた。背に色鮮やかな翅を広げた少女の周囲は、赤く焦げ落ちるたくさんの鱗粉がキラキラと瞬いている。
「ほら、やっぱり……天使だ」
呟いたエイイチを、マリは怪訝に見つめる。
マリですら知らなかった自身の本質に、もっとも迫った唯一の男。それにしては、なんという呆けた顔だろうか。
「エーイチくん。わたしのこと、わかる?」
「ごめん。わからない」
エーイチの返答を聞いても、とくにショックを受けた風もなくマリは辺りを見渡した。
敵はスキンヘッドの男と、かつて狼戻館で対峙した忍者女。男の片腕は気持ち悪く枝分かれしており、どういうわけか忍者女に巻きついて縛り上げている。
仲間割れだろうか。こんなシチュエーション、エイイチにとって垂涎であるに違いない。それなのに、まるで興味を示さない態度がマリは不可解だった。
「どこまで、覚えていないの?」
「ぜんぶ。何もかも。ここがどこかも、君や彼らが誰かも知らない」
「ふぅん。そっか、わかった」
気の抜けた会話を繰り広げる二人を、イレヴンが睨めつける。アイナは捕縛したままで、もう片方の手をマリへかざした。
「どうやってここまで来たかは知らぬが、飛んで火に入る――とはこういうときに使うのであろうな。フハハ! 月の神の御前であるぞ。墜ちよ、異形!」
可視化された太い鎖が幾重にも、マリへがんじがらめに絡みつく。この瞬間からマリの身体は、地上の数十倍もの重力を受ける。呼吸がままならないどころか、自重で内臓はおろか肉体すら瞬時に潰れるほどの圧力。
わざわざ可視化させて見せたのは、より絶望を感じさせるためでしかない。エイイチが断じた通り興奮しているのか。記憶を取り込んでからのイレヴンは、あきらかにサディストへ変貌している。
想像を絶する重力に縛られたマリは。
「べつにいいよ、気にしなくて。すぐにわたしが、思い出させてあげる」
マリは涼しい顔をしてエイイチとの対話を続けた。イレヴンの戯言も、重い鎖も意に介さない。この場でマリが気にかける者など、エイイチを置いて他にいない。
「というわけで、エーイチくん。いい? やっちゃっても」
「いいよ。思い切りやってくれ」
エイイチの記憶はなくとも、たったこれだけの言葉で二人は通じていた。マリの根っこをエイイチが見抜いたように、マリにしてもエイイチをよく理解している。
曰く、二人とも本質は同じなのだ。
エロゲーに人生を捧げる兵だろうと、少女漫画に感化されるパワータイプだろうと。出自が月でも、闇より生まれし異形でも関係ない。
障害も他者も気にすることなく、我欲を突き進む。高みを目指し、常に羽ばたく上昇志向。
マリの肚はずっと前に決まっている。
エイイチこそ、隣へ立つにふさわしい。そうでなくては、ただ異常なだけの男を自らの右腕だなどと言いやしない。
「な、なぜだ! なぜ貴様ごときが、これで墜ちぬかッ!」
マリを後押しするものは、もう一つあった。
封じ込められていたエイイチを、石塔ごと船へ持ち込んだ経緯がある。石塔はショウブの墓石だ。狼戻館先代当主を運び入れたことに等しい。
互いに相容れなかった異形同士でも、狼戻館という場で繋がっていたのだ。船へ近づくにつれ、マリの力が増していた理由も石塔との共鳴にある。死後も強まる呪いや念について、イレヴンはもっと学ぶべきだった。
「肉塊へ成り果ていッ!!」
重力の負荷を数百倍にまで引き上げるイレヴン。
マリを厳重に縛る鎖が、粉々に弾け飛んだ。
異形の少女は聖女のような微笑をたたえ、背に薄翅を展開する。
地上の不幸も、底に溜まる怨念も、全部を飛び越えるための翼。見る者を圧倒し、頂点に君臨する。
「今夜はもっと、月がみたい」
口にした願いを叶えるべく、放つフィニッシュブローは決まった。全力で放つ結果船がどうなろうと、エイイチは無事だとマリには確信があった。
そして、マリが無造作に拳を突き上げた刹那――まばゆい閃光が船内を染め上げる。
すぐさま空振により発生した音と、衝撃の波が隙間なく走る。爆弾さながらに船の壁という壁を破壊し、外壁をも突き破る。
もしこの光景を船外から、それこそ神の視点で眺める者がいたとすれば。
宇宙船から月まで届かんとする、彗星のような青い光線に度肝を抜かれたことだろう。大気を揺らす衝撃波は円形にどこまでも遠く拡がり、眼下を埋め尽くす森の果てにて、幽世を隔てた結界まで打ち砕いた。
船の天井に穴が空く――だとか、そのような生易しい被害ではなかったのだ。マリがこれを披露するのはアイナ戦に続いて二度目だが、威力が比較にならない。
宇宙船は真っ二つに折れ、爆発炎上した。
全員が船外へと投げ出された。エイイチも宙を舞う。放心のイレヴンは、触手をアイナの頭に繋げたままで高空に身をさらす羽目となった。
冷たい夜空を自在に飛び、マリは急ぐ。大量の瓦礫が邪魔だが、すでに複眼が落ちるエイイチの姿を捉えている。
「――エーイチくん!」
めいっぱいに手を伸ばすマリ。
落下しつつ、エイイチもたしかにマリを見た。あとはその手を掴めばハッピーエンド。すべて丸く収まる。記憶くらい、元通りの生活をしていけばどうとでもなる。
なのにエイイチは、マリの手を掴まなかったのだ。
「ば――――」
身を捻るエイイチが、代わりに握ったのはイレヴンの触手だった。力を振り絞ってアイナに張りついた触手を引き剥がし、脱力したかのように万有引力へと身を任せる。
「バカアアアアァァァァ――ッ!」
炎を纏う大量の瓦礫に阻まれ、エイイチの姿がマリの視界から消えた。
折れた宇宙船の船首が、黒煙を噴き上げながら木々の高さまで高度を下げていく。
やがて接地した鉄塊は樹木を薙ぎ倒して横滑りし、鉄門扉を破砕すると狼戻館に激突する。
船首の火はすぐに燃え移り、異形の住む館は赤々と炎に包まれた。
エイイチはただ一人、暗がりを落ちていく。
背景で燃える館は、奇しくもゲーム【豺狼の宴】の最終盤と同じ展開を迎えたのだ。
救いの手を振り払った男には、相応の末路かもしれない。
ハッピーエンドには程遠い。だがホラーゲームのエンディングとしては、ここでエンドロールを流すのが正解なのだろう。
ハーレムの夢は潰えた。けれどヒロインは全員が生存した。エイイチの物語がここで終わっても、猟幽會を退けた狼戻館の住人達には未来が残っている。エイイチも満足するのではないか。
むしろ“上出来な結末だった”――と。
違う。
そんなはずがない。
死と隣り合わせ、デッドエンド満載の限りなくホラーな日常を過ごしながらエイイチは、エロゲーであることを疑わなかった。
萌ゲーアワードを獲るほどのゲームが元になっているのだと。
エロゲーに精通したエイイチなら、したり顔できっとこう言うに決まっている。
“――エンドロール? ちがうちがう、ここで流れるのは第二オープニング! はじめて聴く二番の歌詞に深く共感するような、とびきりエモいやつな!”




