#80
先行するマリ、センジュ、アヤメの三名は、上空へ浮かぶ飛行物体まであと少しというところに迫っていた。
木々の隙間を疾駆しながら、センジュが舌を鳴らす。
「おい、来たぞ。やべー数だ」
センジュの目線は上にある。マリとアヤメが揃って見上げると、飛行物体周辺の高空に豆粒のようなものがたくさん見えた。まばゆい太陽に目を細めて凝視する。
「パラシュート降下のようですね」
「え。なに、あれみんな猟幽會だっていうの?」
降下の数は三十を超えている。いつかの日に狼戻館を急襲した人数よりも多い。どうやら猟幽會も現時点での最大戦力を投入するつもりのようだ。
「なぁ……今がチャンスじゃね? 降下中は無防備な奴が大半だろ。マリ、おまえちょっと行って墜としてこいよ」
「は? 無理なんだけど」
「あ? わがまま言ってる場合じゃねえだろ。蛾なんだから飛んでやっつけてこいって言ってんの!」
「だから、あんな高いとこまで飛べないし。物理的に不可能だから無理って言ってるの。わかる?」
走りながら顔を見合わせる二人。不服そうなマリに対して、センジュはぽかんと口を開けている。
「え、いや、だって。じゃ、じゃあさ、おまえどうやってエーイチ助けに行くつもりなの? おまえが飛んで行って、あの飛行船みたいなのに潜入するんじゃねえのかよ?!」
「聞いてないしそんな作戦。だいたいみんな自信満々に出発したんだから、助け出す方法くらい誰か考えてるものでしょ普通」
「普通は唯一飛べるおまえが行くって思うだろ!? ど、どーすんだよこんなノープランで!」
「わたしにばっかり言われても知らないってば! 大丈夫、こういうときはアヤメさんがしっかり考えてくれてるから!」
「えっ」
まさかの予期せぬフリに、思わず素の声がもれ出たアヤメ。振り向く二人の期待に満ちた眼差しに、ここで策がないとは答えられない。
アヤメには負い目があるからだ。アヤメを救うためにエイイチは異空間へ一人残り、石塔ごと猟幽會に連れ去られた。今度は自分が、なんとしても救出しなければならない。
駆けつつ上空をチラ見して、アヤメは考える。敵は差し迫っている。時間がない。この土壇場でマリが頼りにならない事態は想定外だ。しかし責めることはできない。アヤメの頬を汗がつたう。
やがて、踵を踏ん張るとアヤメは急停止した。
マリとセンジュも何事かと足を止め、アヤメに呼びかける。
「ア、アヤメさん?」
ミニスカスタイルにカスタムされたメイド服。アヤメは剥き出しのガーターベルトからナイフを抜いた。ヒュッと回転させ逆手に持ち替え、戦闘の意思を示す。
「お二人は先に。猟幽會は、ここで私が食い止めます」
エイイチ救出の妙案を聞き出したかった二人は、悲壮な決意を宿したアヤメの眼力に押されて言い淀んでしまう。
「そ、それならみんなで――」
「どうか、私に汚名を削ぐ機会をお与えください。エーイチ様のこと、よろしくお願いいたします」
無茶振りをすべて投げ返す荒業だった。
どちらかといえば脳筋寄りの次女と三女が、メイドの駆け引きに敵うわけもなかった。
「……わかった。エーイチくんのことは任せて」
マリとアヤメが互いに頷きを交わす。そんな二人を交互に怪訝と見比べるセンジュ。どうやらマリとは違い、雰囲気に呑まれないだけの理性をセンジュはまだ持ち合わせているらしい。
しかしマリが弾けるように反転すれば、センジュも舌を鳴らしてその背を追いかけるのだった。
常識人な三女の辛いところである。
さて。難局を乗り切ったかのようにも見えるアヤメだが、死線へ身を投じたことに変わりはない。
実際、生存をあきらめている節はあった。
エイイチに救われた命だ。無論、簡単には捨てられない。だが今回ばかりはあまりに無謀。
敵の数が膨大に過ぎる。衰弱した身体は未だにうまく力が入らない。狼戻館の魔力は失われ、ショウブの墓石も手元にはない。
「潮時……というものでしょうか」
アヤメは森の切れ目まで突っ切ると、周囲に高い木々のない原っぱへとあえて身をさらした。太もものガンベルトから鉄釘の棒手裏剣を掴み取り、ありったけを弾丸のごとく空へ投げ放つ。
当たらなくとも、これで存在を認知されたはずだ。囮役としての仕事はひとまず果たした。
青空を漂う落下傘の降下部隊は、思惑通りの軌道修正をみせる。アヤメの元へと大挙して群がってくる。
ナイフを構えるアヤメは、自らも驚くほどに落ち着いていた。
ここまで、よくやったではないか。
人の身で狼戻館に棲み幾十年。異形に触れ、魔性を浴び、磨いた技で猟幽會という異形同等の敵とも渡り合ってきた。半魔に過ぎない身の上で、上等の出来と言えるだろう。
だから潮時だ。
「ただ……」
欲を言わせてもらえるのならば、もう一度エイイチに会いたかった。
争いなど無縁の静かな午後に、陽の差し込むダイニングで紅茶を淹れる。はにかんでカップを傾けるエイイチ。言葉は交わさなくてもいい。きっとすべて伝わってくるのだから。
そんな未来にほんの少しだけ想いを馳せたアヤメは、軽く頭を振ると、笑みと共に甘い夢を頭の片隅へ封じ込める。
あとはせいぜい多くを道連れに――。
ふと、アヤメの傍らでジャリと土を踏む音がした。
「グルルル」
漆黒の豊かな毛並みを風になびかせて、されど勇壮な巨躯は微塵も揺るがず。
空を睨みつけるガンピールが、牙を剥いて不機嫌に喉を鳴らしていた。
「神皮……どうして」
アヤメの目から見ても、ガンピールはエイイチによく懐いていた。猟幽會と敵対すること自体は不思議ではない。
でもなぜ、ここへ来たのだ。マリやセンジュの元でもなく、アヤメのところへ。付け加えるならツキハにしても、アヤメよりはガンピールの信頼を得ているはずだ。
疑問に答えるかのように、ガンピールは険しい顔をアヤメへぐるりと向ける。鼻に深いしわを刻み、悪感情そのままにグワッと大口を開ける。
アヤメは一歩後退しながら、恨まれているのだと直感した。
黒狼とショウブの間に、執着のような何かがあることはアヤメも知っていた。けれどショウブが黒狼を拒んだため、アヤメも決して寄せつけようとしなかった。何年も、何十年もの間、黒狼を無視し続けたのだ。
ガンピールは今にも飛びかからん勢いで、アヤメに向けて低く身を沈める。
言い訳はしない。よもや猟幽會相手ではなく、過去に弟が生贄へと捧げられた神皮に命を奪われるとは。これも業かとアヤメは瞳を閉じる。
「グアアッ!」
直後にガンピールはアヤメへ組みつき、青白い首筋に鋭い牙を突き立てたのだ――。
◇◇◇
パラシュート降下の三十余名を管理するE1は、自らも最後発で飛行船から飛び立った。
極寒の高度ながら装備は薄く、酸素マスクすら必要としないのは、猟幽會が人類とおよそかけ離れた存在であることの証である。
「各自、状況を」
胸もとに固定している小型の通信機が、E1の声を各人員へ届けた。応答によりE1は戦況を把握する。
対象は狼戻館のメイド“ゲートキーパー”。動きに変化はなし。現在“フルード・ロア”と“UNKNOWN”を追って猟幽會の二名が離脱したとのこと。
「直ちにメイドを殲滅ののち、逃げた二名の追撃に加わる」
E1は追加の指示を出した。
これまで館のルールに縛られ煮え湯を飲まされてきたのだ。この絶好の好機を逃すわけにはいかない。長きにわたる狼戻館との死闘もようやく決着がつく。
すでに人員の三分の一が地上に降り立っていた。降下しつつ森を見下ろすE1の通信機が、ザザと雑音を拾う。
『――……こいつ――か様子が――おかし――』
要領を得ない通信はふいに途切れた。
その後も通信機が立て続けに人員の声を届ける。
『――酸の雨が効かな――が――ッ』
『――囲め! 一斉にかかっ――ぃぎ』
『――援護はや――どうな――あああ』
E1は目を見開いて、今一度眼下を見据えた。
何か黒い影が、異様な速度で宙空を跳び回っている。黒い影に取りつかれたパラシュートは、次々と降下する前に墜とされていく。黒い影が落下傘を足場として上昇してくる。
入ってくる通信はすべて断末魔だった。
そう確信したときには、黒い影はE1のすぐ眼前に――。
「あ……」
ガンピールは本当に恨んでいたのだろうか。
積年の呪いで蝕まれた身体は、ツキハによって狼戻館の地下へ保護されてなお、復活まで長い時を要するはずだった。
異形では呪いを打ち破れない。逆恨みの復讐を叶えるためとはいえ、アヤメは自身の“人の血”を黒狼へ与え続けた。
何よりアヤメは、黒狼が初めてまともに触れた人間の姉なのだ。壊れていくショウブを見守ってきた感情と近しい想いがあるのかもしれない。
つまり、ガンピールがアヤメに手を貸さない道理はない。
漆黒の半狼と化したアヤメが、鋭く伸びた五指の爪をE1へ振り下ろす。
その姿はツキハが制作した【豺狼の宴】本編、最終章にて原作主人公と相対するアヤメの立ち絵そのものだった。
すべてのパラシュートが墜ちた後、通信機を介する声はどこにも無くなっていた。
◇◇◇
その頃、マリとセンジュは上空から激しい銃撃の雨を浴びていた。
「だーはっは! 逃げれ逃げれ!」
弾帯を体に巻きつけ、MG34機関銃をトリガーハッピーでぶっ放すのは猟幽會のY氏である。例によって弾速も軌道も強化され、避けるのも容易ではない。
「あのスケベジジイ! 相変わらずねちっこい!」
以前に裸を見られたことを、マリはまだ根に持っているのだろうか。しかし肉体を再構成され、脳にも調整を施されたY氏に対峙した記憶はないのだ。
「マリ、ぼさっとすんな!」
敵意剥き出しのせいか動きの固いマリの背中を、センジュが思いきり蹴っ飛ばした。
「痛ったあああ!?」
無様に顔からヘッドスライディングのように滑り転がるも、マリが立っていた場所に無数の弾痕が深く刻まれる。センジュの指摘通り呆けている暇はない。
なぜなら敵はもう一人いる。
「フルード・ロア。その命、獲ったよ」
傾きはじめた夕日を背に目眩ましとし、さらにY氏の背後から跳び上がったビーチが垂直降下のキックを放つ。
「しま――」
回避も防御のタイミングも逸した。
流星と見紛う一撃がセンジュの顔面を捉える寸前、何者かが横から真一文字にビーチの脇腹を足蹴にした。
弾かれたビーチが距離を取る。男は伸びた片足をゆっくり下ろすと、センジュを背に庇うよう立ちはだかる。
「な、なんで……おまえが」
呟いたセンジュを振り向くことなく、絶苦は白手袋を引いて指先へと馴染ませるのだった。




