#67
「必要なのは自然回帰だと思うんだよ、ゴテゴテした近未来SFなんかじゃなくて。もっと本能に忠実に生きるべきだ。動物みたいに原始的なさ」
「ふぅん。まあ、同意かな。生物の根源――すなわち闘争本能。わたしはいずれ、暴力ですべてを手中に収めし者。めずらしくエーイチくんと意見が合ったね」
「…………」
清々しいほどただの脳筋だった。病弱だからこそ力に傾倒するのかもしれない。どちらにせよエイイチは相談する相手を間違えた。
「で、話ってそのこと?」
ファサ、と効果音が付きそうな勢いで黒髪をかきあげたマリは、ティーカップを口に傾ける。
直後、気取ったお嬢様の頭にタライがドカンと落下した。
「あのさ、ツキハさんから聞いたんだけど……ショウブって人のこと。先代の当主なんでしょ? 何でもいいから、マリちゃんの知ってること教えてくれないかな」
あらためて相談内容を打ち明けたエイイチは、マリに倣ってティーカップを口に運び、乾いた唇を湿らせる。
芳醇な香りが鼻腔を抜けたのち、やはり頭をガツンとタライに打たれる。
だがエイイチのシリアスな真顔は崩れなかった。
「わたしは先代の奴ら嫌いだったし。あんまり関わらなかったから。アヤメさんに聞いた方が早いんじゃない? わたしやお姉ちゃんが住む、ずっと前から館にいるんだしさ」
「えっ、アヤメさんの方が先輩だったの!?」
「それはそうでしょ。はじめて会ったときには、あの人もうメイドだったよ。あの頃はメイドといっても、先代の専属って感じだったけど」
「実の弟の、専属メイド……」
紅茶を落とした胃に、エイイチはゴクリと生唾を追加で送り込んだ。
なんとうらやましい響きだろう。姉をメイドとして仕わせるなど、背徳感満載の日々を想像するだけでエイイチはどうにかなりそうだった。
ちなみにやり取りの間も二人はゴクゴクと紅茶を楽しみ、一定のリズムで降ってくるタライを甘んじて頭に受ける。気づいたのだ。音こそ派手だがあまり痛くはないな、と。
「いいからちょっとは片付けろよ!」
さりとて落ちた金ダライは大きさも相まって非常に邪魔であり、センジュは二人を非難しながらもタライを部屋の隅へと引きずり集積していく。
ガンピールは床に伏せて興味なさそうにあくびをしていたが、タライがゴン、ガン、ドンと落ちる音に耳だけはピクンと反応する。
「ふむ……」
紅茶を提供した張本人、絶苦は眉間にしわを寄せて天井を凝視していた。無機物のタライが生成される瞬間を視界はなぜか捉えられず、気づいたときにはエイイチとマリの頭にタライが落下している。
狼戻館とは、かくも不可思議な魔性の館なのだ。館と敵対する猟幽會に属する絶苦もよく知るところである。
しかし、と絶苦は思う。
想定外を引き起こす魔性は魔性だが、はたしてこのようなベクトルだったか? もっと陰惨で呪われた――……いささか方向性が違いすぎてはいまいか、と。
「あ、すんませーん。茶菓子もらってもいいですか?」
マリに顎で催促され、席を立ったエイイチが申し訳なさそうに皿を引き寄せる。丸皿には絶苦があり合わせの材料で作ったチャンククッキーが乗っていた。
館全体が意思を持つかのように、これまでとは違う何かに変化している最中であることは絶苦も肌で感じている。
だが、この男。
狼戻館にあるまじき緩さを生み、それを伝染させ魔を遠ざける。気を抜けば絶苦をも取り込みかねない空気を、もしあえて作り出しているのだとしたら。館を操る何者かよりも、やはりこの男こそが――。
「失礼いたします」
和やかなティータイムを一変させる低音に、全員の目が扉を向いた。
「ア、アヤメさん」
俯きがちに佇むメイドの眼光に、エイイチも息をのむ。今しがたアヤメにまつわる過去を聞き出していたことへの、バツの悪さもあるのだろう。
「敵の施しを受けて、みなさまずいぶんとリラックスされているご様子ですね」
皿に乗ったチャンククッキーが瞬時に燃え上がり、消し炭と消える。エイイチのカップに残る紅茶も蒸発する。
アヤメに気を取られていたエイイチ以外、全員がその様を目撃した。
「わ、わたしはアヤメさんの紅茶が一番だって証明するために、比較して飲んでただけだから」
このままでは自分の紅茶も露と消えてしまうに違いないと察したマリは、下手な言い訳をかましながら残る紅茶をひと息に飲み干す。
お嬢様にあるまじき意地汚さを発揮するマリへ、再び制裁は下る。
頭上に迫る脅威を感じつつも、たいしたダメージは無いと高を括るマリへ直撃した金ダライは、これまで落ちた物の三倍を優に超える大きさだった。
「ふぎゃっ!?」
ドカンッ! とタライの重みに耐えきれず首が折れ、テーブルに顔面をしたたかに打ちつけるマリ。
「マリちゃん!?」
突っ伏したまま動かなくなったマリを、エイイチとセンジュが青い顔で見守る。
さしものガンピールも身を起こして、床でグワングワン揺れる大ダライを何事かと眺めている。
「猟幽會の絶苦――でしたね。ここは血と呪い、魑魅魍魎が跋扈する狼戻館。命を賭して戦いにきたのでなければ今すぐご退館を。場違いです」
メイドが主人に手を上げるという、狼戻館の歴史上でも類をみない由々しき事態。この場で血が流れかねない事件だったが、アヤメは平然と絶苦を見据えていた。
先代の頃から館に住まうアヤメには、マリも頭が上がらないのだろうか。もしくは館と同化しつつあるアヤメの増大した力を恐れているのか。
おそらくそれだけではない。絶苦の尻目には、ムスッとして俯くマリの頭を撫でる、エイイチの姿が映っている。
やはりこの男の存在が大きいのだ。アヤメがいかに館を禍々しく歪めようと、“陰惨な方向”へ転がることを阻止する雰囲気をエイイチは備えている。
「血と呪いの館、ですか」
絶苦の視線に気づいたアヤメが振り返る。
完全に眠気が飛んだらしいガンピールがエイイチにのしかかり、鼻先で牙を剥いてガウガウやっている。もちろん本気で噛む様子はなく、現にマウントを取られながらもエイイチはきゃっきゃと喜んでいる。
センジュはヘッドフォンを装着してソファに足を伸ばし、楽な姿勢で編み物に取り組んでいる。ちなみに製作しているのは毛並みの白い十六代目ヒーちゃんである。白髪になぞらえて、エイイチにプレゼントする予定のもの。
マリだけはまだ不機嫌そうに椅子へ座り、黙って髪の毛先などを弄っている。
まごうことなき、狼戻館の現在の日常がそこにあった。
「…………。あれは何かの間違いです。さあ、今すぐご退館を」
「空気が読めず、場違いに浮いているのはあなたの方ではないですかな」
「黙りなさい。出ていかないと言うのであれば――」
「はて。狼戻館はルールに厳格なはずでは? 破った覚えは無いのですがね」
アヤメは給仕服のスカートを持ち上げ、ガーターベルトに留めてあるナイフを抜く。
「ルールは私です――」
「っ!?」
鋭い踏み込みからなる一突きを、絶苦は自身の腹へ切っ先が届く寸前のところで手首ごと抑えた。
だが押し込んでくるアヤメの力は驚異的だ。
「……ぐぅ……っ!」
ちなみにナイフを抜く行為はあまりの早業であり手の動きは見えず、後ろにいるエイイチからはふわりと捲れたスカートのみ捉えられていた。
きっと“客へと無差別にパンツを見せつけるメイド”という、アヤメの悪い癖が久々に出たのだと頭を抱えたに違いない。
エイイチはすぐに後ろからアヤメに飛びつき、羽交い締めとする。
「な、なにやってんだよアヤメさん! みんながいる前で!」
「お離しくださいエーイチ様。この男は敵なのですよ」
「そんな手癖はいいかげん治さないと! いや治さなくてもいいけど、せめて俺相手のときだけにしてください!」
「な。自分ならば私の相手ができると? 近頃は思い上がりもいささか甚だしいですね……!」
絶苦の腕に隠れて、エイイチからは角度的にナイフが見えていないのだ。
二人が噛み合わない言い合いを繰り広げる中、さすがに周囲も平穏ではいられなかった。
アヤメはナワバリを持たず、他の住人と立場が異なるとはいえ狼戻館のルールには縛られる。非戦区域で戦闘行為に及べば凄惨なペナルティを課せられるはずなのだ。
だからマリやセンジュは展開に驚愕するのみで、手の出しようがなかったのである。
無理もない。これもまた狼戻館の長い歴史で初めてのことなのだから。
「なるほど。館の力を取り込んでいるのは貴様か、メイド。……表の石塔が“核”か。帰還ポイントとしても利用しているのだったな」
「っ!」
アヤメが勢いよくエイイチを振り向いた。その形相に多少怯えつつもエイイチはぽかんと口を開けている。
「やはりな」
普段の冷静さがアヤメにあれば、このようなブラフに引っかかりはしなかっただろう。
舌打ちしたアヤメはエイイチを振り払い、絶苦から離れた。歯噛みして、呟く。
「エーイチ様に近づく素振りを見せながら、本当の狙いはそれだったのですね。いいでしょう。何人連れてこようと、私が殲滅します」
アヤメの顔に回路が走り、全身が青緑に発光する。呼応するようにラウンジの室内も淡く輝き、居合わせる面々が左右を見渡す。
ゲーミングアヤメの再誕だった。
誰もが言葉を失くす中、アヤメの眼前の空間に裂け目が出現する。躊躇なく飛び込むアヤメの腕を、ただ一人エイイチだけが掴んだ。
「だめだアヤメさんそっちに行っちゃいけない! そんなこと誰も望んじゃいないんだ!!」
裂け目の奥へと、エイイチの視界が黒く染まっていく。絶苦の低い声が背を追ってくる。
「間もなくだ。館も、貴様の放蕩の旅も間もなく終わりを迎える。心しておくがいい、A1よ」
エイイチが狼戻館に滞在し二十四日目。
変化する狼戻館と共に、エイイチを取り巻く物語もまた同様に急転する。
◇◇◇
「ぅ……ん」
エイイチとアヤメは、同時に気がついた。気を失っていたのか、辺りに視線を巡らせればどうやら狼戻館の廊下のようだ。
「……なぜ、館に? 私はたしかに、外へ……」
身を起こしたアヤメにゲーミングの輝きはなく、いつものメイド姿だった。ゲーミングな光を引き継いだかのごとく、廊下の床や天井が発光している。
「これは……?」
見通す限りの青い光は廊下にとどまらず、ゲーミングというよりもむしろ封印部屋のそれである。
「あれ、奥に誰かいますよ」
エイイチが指先へと目を向けて、アヤメは硬直した。アヤメの片目が髪に隠れていようと、見間違うはずがない。
「そんな、まさか……どうして、あの子が」
アヤメの震えは声にも伝わっていた。
二人の視線の先には子供が立っている。髪は長いが男の子のようだ。
狼戻館全体が“封印の青”に包まれた状況で、幼い待雪ショウブが薄暗い瞳でじっと二人を見つめていた。




