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#19

 ベッドから落ちた衝撃で目覚めるエイイチ。打った頭をさすりながら見上げると、マリの冷徹な瞳と視線が交わる。もっと正確に言えば目は冷たいものの、マリの頬にはわずかな朱が差している。


「俺さ……たしか夢の中で苺に歯を立てたら――」

「黙って。エーイチくんは寝相が悪いから落ちたの。わかった?」


 マリは不自然に片腕で胸の辺りを隠していた。服も昨日から着替えていないようで、ミニスカートの生足をもじもじと擦り合わせている。朝だし尿意でもあるのだろうとエイイチは察する。


「そんな大きい苺じゃなかったんだよ。小ぶりで硬い芯もあってさ、だから飴玉みたいに舌で転がしてたんだけど、絶妙に逃げるものだからつい歯で」

「ねぇ。黙ってって言ったの、聞こえなかった? 着替えるからあっち向いてて」


 そんな夢物語は聞きたくないとばかりに斬って捨てられたエイイチ。昨夜はマリの胸に抱かれて幸福の中で安眠したはずなのに、どうして朝からこんな険悪な雰囲気になるのだろうか。

 寝起きの回らない頭で考えつつも、エイイチは床にあぐらをかいたまま素直に後ろを向いた。衣擦れの音に耳をそばだてる。


「痛たっ」

「ど、どうしたのマリちゃん!?」


 心配したエイイチが振り返る。マリは背を向けて立っていたのだが、何やらニットの上衣をぺろんと捲って見下ろしていた。背中の白い素肌がエイイチの目に眩しい。


「は……歯型」

「歯型がどうしたって?」

「……なんでもない。エーイチくん……許さないから」

「なんで!?」


 取りつく島もなかった。やはりマリは不機嫌極まりない様子だ。エイイチを睨みつけて再び後ろを向かせたあとは、着替えを済ませると無言で長い髪に櫛をいれていた。


 早朝からマンネリ化したカップルのようなムードを醸し出す二人。エイイチが無意味な咳払いなどで時間を持て余していると、会話のきっかけを探す彼女さながらマリは「あ」とわざとらしい声をあげた。


「ボイラー室の被害、見に行こうよ」

「あ、ああ、うん。マリちゃん昨夜寝てたかと思ってたけど、俺の報告聞いてたんだね」

「寝てたよ? 寝てたってわたしはそういう話を聞き逃さない」

「おう、そ、そうか。すごいな」


 もはや本当にマリが眠っていたのか、あるいは狸寝入りだったのかエイイチに判別はつかない。狸寝入りをしていたのならベッドへと引き込んだ行為が意図的だったことになるのだが、そこまでエイイチは考えが至らない。ギクシャクとマリの機嫌ばかり伺っているせいだ。

 マリはマリで、エイイチの“すごい”という発言を真に受けて機嫌よくドヤ顔を披露しているのだからこちらも大概だった。


 なんにせよいつもの通り、エイイチが先に部屋を出ることとなる。昨日から腹が減って仕方なかったが、どうせ今日も朝食は用意されていないだろうと半ばあきらめてボイラー室へ向かう。




「ふぅん。……ひどいね」


 例によって先にボイラー室へ到着していたマリは腕組みをして、穴だらけの配管や亀裂が走った壁、見通しが良くなりすぎて太陽まで覗ける天井などを眺めていた。


「いや本当に。なんでこんなことになったんだか」


 エイイチが隣に並んで頭をかくも、マリは半分目を閉じた気怠げな顔でしら(・・)を切り通す腹づもりである。

 ボイラー室の惨状は言うまでもなくマリのせいだ。遠距離戦主体だったY氏との相性はあれど、考えなしに派手に飛び回ったのだから弁解の余地もない。


「せっかくエーイチくんが、がんばってナワバリにしてくれたのに。わたし許せないよ」


 ヒートアップしたエイイチが非常に面倒臭い男であることはマリも理解し始めているので、どうやらなるべく怒られないよう無意識に悪事を隠す傾向が出てきたようだ。

 そもそも生理的な満足感を得る以外に入浴の必要がない狼戻館住人と違い、ボイラー損壊による被害を一番に受けるのがエイイチである。来たるべきアダルトシーンに備えて毎夜下半身のケアを欠かさないエイイチは、たとえ水しか出なくとも健気にバスルームへと通い続けることだろう。


「まあ、でもこうなったらしょうがないよな。近くの設備会社とか、ボイラーのメーカーさんに電話しよう。……それよりマリちゃん、腹減らない? よかったら、その――」

「ご飯? アヤメさんに言えば、待ってきてくれると思うけど」

「そうじゃなくってさ。俺……マリちゃんの手料理が食べたいんだ!」


 エイイチにしては青春真っ盛りな台詞を吐き、思春期の男子中高生のように顔まで赤くしていた。ド直球な下ネタに抵抗はなくとも、ピュアな視点で物事を言うと途端に恥ずかしくなる乙女の如き男だった。


 一世一代の覚悟で願いを口にしたエイイチを、だがマリは視界の端でジトリと捉えるのみである。


「……わたし、料理とか出来ないし」

「簡単なのでいいんだよ、鍋とかさ! マリちゃんと一緒にまともな食事してないし、駄目かな」


 拒否されることも織り込み済みのエイイチは、なおもマリに食い下がった。なぜそうまで手料理など食べたいのか男心がわからないながら、気を使われ妥協案まで出されてはマリも思うところがある。


「お鍋くらい、別に。卵焼きとかだって、本当は出来るし」

「いいね、いいね。じゃあ決まりで! 今夜は鍋パーティにしよう!」


 鍋ごときでこれほど喜びをあらわにするのなら、エイイチに恩を売っておくのも悪くはないとマリは考える。いずれ来たる宴を完遂するにはヒツジとの信頼関係が欠かせないのだ。


 と、背後に気配を感じて勢いよく振り返るマリ。エイイチもそんなマリに釣られて緩慢に後ろを向いた。


「おや。これは想像以上にひどい有り様ですね」


 来訪者の素性がアヤメだと割れてもマリは警戒を解いてはいない。一方でエイイチは「でしょ〜?」などと他人事のようにアヤメへ笑いかける。しかし笑顔も束の間。普段通り喜怒哀楽に乏しいアヤメを見つめるエイイチは、竿役の寝取り男に胸を弄ばれていた姿を思い出してしまう。


「エーイチ様、いかがなさいましたか? 私の顔に何か」

「アヤメさんこそ大丈夫だったんですか? 昨日、えっと、猟友会のおっさんに色々されたんじゃ」


 アヤメは両手を前に組んで背筋をピンと伸ばした姿勢のまま、片眉を上げて横目にエイイチを見る。


「……見てらしたのですか、猟幽會との接触を。しかしご心配には及びません。あの場で互いに手を出すことはルールに抵触します」

「ルール? ああ、たしかにあの場所じゃあ……ですね」


 界隈については詳しくないエイイチだが、おそらく寝取りにも色々あるのだろう。エイイチは途中で離脱してしまったし、男がビデオカメラなどを回している様子もなかった。つまり寝取られ対象であるエイイチが観測出来ない状況ならば寝取りも成立しない、とそういうことなのだ。


「エーイチ様は実にお見事でした。また一つ高みに登られたご様子」

「俺なんてまだまだです、取り乱しちゃったし。でもあんな男相手に、アヤメさんに抜かせるわけにはいかないんで」

「ふ……言いますね。ではあなた相手に抜ける日を楽しみにしておきましょう」

「望むところです。その日に備えてピカピカに磨いておきますよ」


 相も変わらず何一つ噛み合っていないのだが、わかり合ったかのように笑みを交わす二人がマリは気に入らない。あえてエイイチとアヤメの間に身を割り込ませる。


「……ところでアヤメさん。ここへ何をしに来たの?」

「被害状況の確認です、マリ様。諸々の業者へ私から連絡しておきましょう」

「そう。ありがとう」

「修繕費はマリ様のお小遣いから精算させていただきます」


 クールを気取っていたマリの表情があきらかに強張った。ボイラー室は現在マリのナワバリとなっているため、狼戻館の慣習に基づけば当然の帰結である。引きこもりにとっては手痛すぎる出費だった。

 マリの目が虚ろなことをいち早く察知し、エイイチが声をあげる。


「そんな、マリちゃんだけに背負わせるのは可哀想ですよ! 俺も半分払いますから!」

「……エーイチくん、お金もってるの?」

「仕事の給金から引いてください! アヤメさん!」


 庭いじりしかしていない身の上で、よもや給金を貰う予定でいたとは驚きである。だがアヤメ他狼戻館の面々からすると、マリに付きっきりで家庭教師を全うしていると見えなくもない。


「……わかりました。ツキハ様にそうお伝えしておきましょう。それにしても――」


 互いを庇うように並び立つエイイチとマリへ、アヤメは順に視線を送る。


「短い期間でよく絆を強固にされましたね。現在もっとも宴の主催に相応しいのはあなたでしょう、マリ様」


 獲ったばかりのナワバリが機能不全に陥り、修繕費の捻出も苦しい。けれどたしかにアヤメの言う通り、それを補って余りある“エイイチ”という存在をマリは得たのだ。猟幽會の凶悪な封印を二度も破った実績はそれだけの価値がある。

 マリは握り拳をギュッと、自身の胸へと押し当てた。


「苦しいのですか。それでよいのです。ヒツジと共に宴へ臨むとは、そうでなくてはなりません」

「……そんなこと、アヤメさんに言われなくてもわかってる」


 歯型の残る突起がブラジャーに擦れて痛痒いだけだったのだが、マリが言い出せるわけもなくアヤメの漂わせる雰囲気に乗っておいた。こんなやり取りを繰り返す内にエイイチとアヤメのすれ違いが加速していった事実など、マリは知る由もない。


「では、私は失礼致します。エーイチ様、カセットコンロや鍋は準備しておきますので、のちほど受け取りにいらしてください」


 去っていくアヤメに、エイイチは心からの礼を述べた。今日は過去一で良い日になりそうだと、リクエストする具材などあれこれ口にするエイイチ。


「定番はちゃんこ鍋だと思うんだよな。豆乳もいいし、モツ鍋なんてのもありか? キムチ鍋で汗を流すのもまた――」

「お鍋もいいけど、まずは仕事をこなして」

「え? 仕事って……」


 庭いじりのことを言っているのだろうか。とエイイチが答えを仰ぐも、背を見せたままマリは決して振り返りはしない。


「今日の分、まだ洗ってないでしょ」

「あ、パンツ? でもマリちゃんさっき着替えたばっかりだし、そのときもパンツ脱いでなかったよね。履いてなかったんじゃないの?」

「いい。もう飽きたからまた着替える。エーイチくんはパンツ洗ってきて」

「……いいけどさ」


 どうにも腑に落ちないマリの態度だったが、わがままは今に始まったことじゃないなとエイイチも思い直した。それにパンツ洗いの仕事は嫌いではない。


「エーイチくん」

「はいはい。なに?」

「ついでだからブラも洗って」

「…………」


 狼戻館滞在五日目。

 微かな苛立ちが感じ取れるマリの言動に、嫉妬心や独占欲といった感情が混じり始めていることにエイイチはまだ気づいていなかった。


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