夏に旅する(再投稿)
梅雨明けしてないのが嘘のように、晴れて暑い日が続いていた。
私は午後の明るいうちから風呂に入っていた。今夜、夜行バスに乗るためだ。
居間には広げたスーツケース。着替えが無造作に放り込んである。どれも洗いざらしでくたびれていた。
それからPCと携帯の充電器、コンタクト液と容器、洗面用具と化粧道具。足りないものは買えばいい。最近はいたるところにあるコンビニで、大抵のものは揃うはずだ。
大阪駅の高速バスターミナルから新宿行きのバスに乗る。とりあえず、東京に1泊しよう。旅の日数と行先ははっきり決めていない。思えば、こんな不確かな旅を今までにしたことがなかった。
それをする気になったのは、アルバイトや派遣の仕事を転々とする生活が嫌になったからだ。いくら仕事を頑張ろうとしたところでできる仕事はたかがしれている。正社員の理不尽な指示にも従わなければならない。お金のためだと思えば、ある期間は我慢できるが3か月もすれば疲れ果ててしまう。
一応、夢は作家になること。関西の大学を5年前に出たが、できるだけ書く時間が欲しくて、就職しなかった。
この夏で28歳になる。結婚する気なら、“婚活”に力を入れなければならない年齢だろうが、私はこれまで結婚願望というものをもったことがなかった。たとえ好きな相手がいたとしても、何故一緒に暮らすことで幸せになれるのだろう。幼い頃から理解できなかった。それより、自分で努力して認められて、裕福になった方がよほどいい。それも作家を目指した理由のはずだった。
しかし時が経つにつれてだんだんとわかってきた。
夢を追いかけて就職しないなんて本当の才能がある者だけだ。ありとあらゆる小説の公募に落ち、昔あったはずの自信はだんだんと砕け散っていった。
そんなときにネットで目にしたのが、宿泊のサブスクだった。
月に4万円で提携しているホテルに泊まり放題できます。多拠点をしてみませんか?こんなうたい文句に胸が高鳴った。
世の中変わったもんだ。こんな商売が成り立つのか? いくらPCひとつで、好きな場所で仕事をする人がいると聞いていたけど、こんな商売が成り立つほどフリーで仕事をする人は多いのだろうか?もしかしたらレテワークをする人もまだ多いのかもしれない。
まぁ、いい。最悪詐欺でも、入会金はいらないし、損害が4万円ならギリギリ諦められる値段だと思った。
こんな真夏に旅でもないのだが、観光目的ではないので不都合はない。冷房の効いたバスや電車から見える夏空や、知らない土地で、夏草の匂いを嗅ぎながらちょっと涼しくなった時間に夜道を散歩するだけでもいい。
どこでもいい。この部屋でないところへ行きたかった。
昨日までの精神状態は最悪だった。朝起きてすぐにやってくるあせりと閉塞感。これが続けばな間違いなく死ぬ気がした。生と死を分けるハードルはすぐそこにあった。
旅に出よう。それもできるだけ長い旅に。
貯金は生活をできるだけ切り詰めて貯めたお金、50万円しかない。当分無職なのにこれを使うべきではないのかもしれない。でもここにいたら死ぬ。間違いなく死ぬ。死ぬよりは貯金が減った方がマシだと思った。
観葉植物を台所の日の当たらないところに移動し、たっぷりと水を与えた。
連絡するところはどこもない。光熱費や家賃は銀行引き落としだ。
旅の荷物は完璧ではない気もするけど、よく頭がまわらなかった。持っていく服や下着の枚数が頭で数えることができなかった。最悪、携帯とお金があればどうにかなる。こう自分に言い聞かせた。
ぬるい湯の中で考える。
辞めたばかりのアルバイト先のこと、お金のこと、書きたくても書けない小説のこと、そして推しているイケメン俳優、高梨まことのことなどだ。学生時代は誰かのファンになったことなどなかったのに、フリーターになってから常に誰かを推していなければいられなくなった。そうでなければ頭の中がネガティブな感情で満たされてしまいそうだ。
一日の中で何かを考えている時間が多い。
朝起きて布団の中で、起きてコーヒーを飲みながら、または道を歩きながら、そしてお風呂の中で、とりとめもないことを考える。
しかし、全部発展性のないことだ。過去は変えられないし、イケメン俳優と話す機会なんて一生ない。小説はたぶん才能と根性がない。
最後のアルバイトを辞めてから小さな不幸が続いた。PCの調子が悪くなったり、お皿を割ったり、コンビニの店員の態度が悪かったり、
たまにやって来る不幸の波。しかし、幸福の波なんて来たためしがないのが不思議だ。
世の中の誰からも必要とされていない。友達もいない。
お金があれば生きていける。
最低限、1日の食費が千円あれば生きていける。しかし、その千円すら稼ごうとするのが面倒になってしまった。
風呂から上がり、バスタオルと下着、それまで来ていたTシャツとスエットパンツを洗濯機でまわした。旅から帰った頃には乾いているはずだ。
大学の寮から移り住んだ1Kのアパート。就職しないことで実家からは勘当同然になった。築30年は経っている鉄筋の建物は、柱や窓枠のペンキが剥がれ落ちていた。1階のせいか虫も多い。しかし月三万円の家賃は私が払えるギリギリの金額だ。今はその3万円も大きな負担だ。
部屋の中を一通り見渡す。ここ数日掃除する気力もなく散らかっているけれど、、もし私が旅先で死んでもこの程度なら許されるだろう。
日が落ちた頃に家を出た。ここ数日家に閉じこもっていたせいで体力が落ちたのか荷物がやけに重たく感じる。
若い女性が古くて大きなスーツケースを引いているのは珍しいのか、街中でも電車の中でも人目をひいた。
「あんな古くて大きなスーツケースでどこにいくのかしら。しかも一人きりで」まわりの視線はそんなふうに言っているかのようだった。
電車の窓から見える街並みはすっぽりと夜の闇に包まれていた。電車の乗客もまばらだ。電車が進むにつれ、これまでの生活のおりがそぎ落とされていくような気がした。
大阪駅に着いた。改札を出て数分歩けば高速バス乗り場があるはずだ。
しかし、途中でどちらの方向に行けばよいかがわからなくなってしまった。途中まで看板が案内してくれたのに、ぷっつりと案内がなくなってしまったのだ。
以前、確かに横を通り過ぎたことがある。でもこんな肝心なときに・・・。スマホの地図アプリの案内に従って進むがどうしても辿り着けない。少し進んでは引き返し、また別の方向へ進む。とうとう人気のない地下街に来てしまった。
店が閉店して薄暗くなったショッピング街は人影がなかった。
運よく、警備員の制服を着た男性を見つけホッとする。バスターミナルの場所を聞くことにした。警備員は背が高く、まだ20歳そこそこに見えた。どう見ても大学生がアルバイトでやっている感じだ。
「高速バス乗り場はどこでしょうか」
男性の顔をさらに覗き込んでみる。私はあっと声をあげそうになった。
今、私の脳内の8割を占める高梨まことにそっくりだったからだ。私の目はこれまでの人生で一番大きく見開かれていたはずだ。
しかし警備員はそんな私の驚いた雰囲気には関知せず
「どこの会社のバスですか」
とクールに返すだけだった。顔がよくて、人から好意をもたれるのに慣れているのかもしれない。
「JRのバスターミナルの場所がわからなくて・・・」
「それなら、そこのエスカレータを上って少し進んで下りて・・・」と説明してくれる。よかった親切な人で。なぜか高梨まことが親切な人であるかのように私は嬉しかった。
それにしてもバスターミナルは地下のはず。どうして下りてきたエスカレータをまた上らなくてはならないのか。私は怪訝そうな顔をしたらしい。警備の男のコは途中まで案内してくれた。
「そこを降りたらすぐですから」
「ありがとう。助かったわ」
私は嬉しさでいっぱいだったが平静を装ってお礼を言った。そして再度、今度は余裕をもってその男のコの顔をじっくり見た。
それにしても高梨まことと瓜二つだ。しかし、本人であるはずがない。彼は今、若手の中でもトップクラスの俳優だ。こんなところでアルバイトをしているわけがない。
警備の男のコは「それじゃ、気をつけて」と言って去って行った。
他人の空似というやつね、と私は自分を納得させることにした。
バスターミナルがわかりづらくて焦ったけど、結局、バスの発車時間まで1時間以上あった。アパートにいても仕方ないので早めに出たのだ。
どこへ行くにも時間ギリギリの私にしては珍しいことだった。ま、ギリギリに着てあせるよりは格段によい。
コンビニでおにぎりとビールを買い、トイレで歯を磨く。そして待合室で発車時間になるのを待つことにした。
現実から逃げる自分を考えてみる。
遊びもせずにアルバイトと書くことだけして5年。しかし、どの公募にもひっかからない。
一方、高梨まことは5年でトップスターだ。最初は脇役だった。でも5年で映画の主役を演じるまでとなり数々の賞も取った。ジャンルこそ違うけれど、どんな努力をしたら彼のように一流になれるのだろう。
幼い頃から私ができるのは文章を書くことだけだった。
様々な文を書く場面で褒められ、高校生のときは小さな賞をもらい旅行がプレゼントされた。作家になるしかないと思った。
ところがどうだ?デビューできないばかりか、極貧生活に疲れ、書くことへの情熱さえ失われようとしていた。
いいよな、高梨まことは。たった5年で年収200万から1億円以上か。芸能人と比べるなんてダサイ気がした。でも同じ人間だ。どこかわりきれない気がした。
次に警備のバイトをしていた男のコのことを考える。それにしてもよく似ていた。顔の作りはほぼ一緒だ。ただ、オーラがまるでなかった。理系の大学生で、アルバイトで小遣い程度稼いでいる雰囲気のどこにでもいる若者だ。人はいいけど、大物にはなれないタイプ。
似ている人っているからな。私も、駅やスーパーで知り合いに似ていると思って声をかけようとしたことが何度かある。次の瞬間に別人だと悟り、声をかけなかったことを安堵したものだ。
まことに似た人に会せてくれたのは神様の小さなプレゼントなのだろうか?
そんなとりとめもないことを考えているうちに、バスの発車時間が迫り、同じく東京へ向かう人たちが案内の掲示板の下に列を作り出した。
席は指定だったから、ゆっくりと列の一番後ろにつこうとした。
なんで?再び私は驚いた。
さっきの警備のアルバイトをしていた男のコが並んでいるではないか。私が道を尋ねたのはつい1時間前のことだ。
大き目の黒いリュックを肩にかけ、赤いチェックのシャツにジーンズという格好で並んでいる。警備員の帽子を取った彼の髪は明るい茶色だ。私服になるとさっきより幼く見えた。
アルバイトをすぐ終えてここに来たとしたらあり得ない話しではない。
偶然の出会いに喜ぶほど、私の心は健全ではなかった。
どうせ幸せな発展なんかするはずがない。私が、過去から学んだ教訓だ。たとえ、結婚願望のない作家志望の女でも男友達がいらないなんてことはもちろんなかった。
バスは2階建てで、乗客は2階に6、7人いるだけだった。男女半々で50代くらいのおじさんが2人。あとはみな20代に見えた。
ネットで指定した席は、運転手とは別の列の前から2番目。その斜め後ろにその男のコは座っている。バスの後方を見渡すそぶりを装い彼の方を見る。耳にヘッドホンを入れて、何かの雑誌を読んでいた。バスに乗る前に挨拶もなければ、私の顔を覚えているという表情もなかった。
当然私の方は猛烈に気になっていた。道を尋ねた男のコが好きな俳優にそっくりで、そのコが同じ夜行バスに乗り合わせたのだから当然だ。
東京に何をしに行くのだろう。
こちらで大学に通いながらアルバイトをしているのだったら、友人に会いに行くか就活かライブといったところだろう。スーツは持っていなさそうなので、就活ではなさそうだ。
いやいや。彼が何をしに東京に行こうと私に関係ない。ただ、今一番推しの、好きな俳優に似ていて、道を教えてくれただけじゃないか。しかし、彼にこれほど親近感をもつのはどうしてなのだろう。
と思いつつ、バスで移動するための準備をする。予想通り、バスの車中は冷房が効きすぎて寒いくだいだった。スーツケースから取り出しておいたパーカーを羽織り、バスタオルを膝に置いた。
シートベルトをしてくださいとか、防犯ブザーの位置とか、丁寧な運転手の説明の後、時間通りにバスは出発した。
私はほっとした。とりあえずしばらくは、これまでの生活から逃れられる気がした。お金の不安や仕事のないことの不安やスーパーのパートで使い物にならなかったことの落ち込みなどでいっぱいだった毎日からだ。友達もいい仕事もなかったけれど、私の住んでいた部屋と街には私をがんじがらめにしていた何かがあった。
夜中近いというのに金曜のせいか道は混んでいた。街中でバスはノロノロと進み、信号で止まり、やっと高速に乗った。
走りがスムーズになる。携帯とヘッドホンを繋ぎ、先週の木原まことのラジオを聴くことにする。同じ番組を聴くのは2回目だった。
イケメン俳優には似つかわしくない言いたい放題のトークが流れる。人の悪口やちょっとエッチな話は、聴いているこちらが心配になるほどだ。
そんな世間の反応も気にしないところも彼が好きな理由だった。笑いたいところでは、まわりの目を気にしてぐっとこらえる。聴いているうちに。ウトウトしてきた。夜行バスなんか眠れないもの、とあきらめていたのに。
何度目に目が覚めたとき、何気なく窓のカーテンを開けて外を見た。
外は一面の星空だった。こんな星空は子供の時、実家の庭で見た以来だ。星は今にも手が届きそうなほど明るい光を放ち、近くにあった。
バスの上の方、横、下の方。
え?下の方?あり得ない。高速道路は大抵、横に防音壁がついている。真横とか下の方に星なんか見えるわけはない。まさかとは思うけど、このバスは星空の中を飛んでいる?
夢だ。夢に違いない。
いくら現実逃避したいからって宇宙になんかに行きたいわけではなかった。
私の生きたい場所は、自分を少しでも認めてくれる場所だ。そこに友人がいれば、それ以上望みはない。断じて宇宙の旅などではなかった。
しかし、さらに悪いことに前方に赤い大きなガスの塊が見えたかと思うと、あっという間に私たちのバスはその中に吸い込まれ、超高速でどこかへ飛ばされていく。
死ぬんだな。
部屋をものすごく汚いままでなくてよかった。これから死ぬと思った瞬間に、そんなことを思った。
ああ、これでもう仕事を探さなくていいし、貯金が減るのを気にしなくていい。突然過去の嫌な記憶を思い出して暗い気持ちになることもない。
菩薩様にでも抱かれているようないい気持ちだった。あまりいい人生じゃなかったけど、こんな安らかな気持ちで死ねるなんて幸せだ。
バスの両脇をものすごい勢いで白い気流かガスのようなものが流れて行く。しかし不思議とバスは揺れもしなければ何の衝撃も感じない。
車内を見渡すと、みんな寝入っているのか静まりかえっていた。こんな危険な状態なのに乗客のみんなは夢の中なのだ。
みんなを起こすべきなのか?でも起こしたところでどうなるものではない。運転手の様子を伺う。驚いたことに運転手は気絶をしているようで、体の力が抜けたようにシートにもたれかかっていた。
覚悟を決めた。意外に落ち着いた気分だった。
急に目の前が真っ暗になり、そして記憶が途切れた。
お腹と頬に石畳の暖かさを感じ、意識が戻っているのがわかった。
頭が痛くてしばらく目を開ける気にならない。耳の横で多くの人が行きかう足音と、カランカランと大きな車輪が回る音が聞こえる。それから、ドーナツの甘い匂いがする。
ここはどこだ?私、死ななかったんだ。でも、どうしてこんな体制?
どうやら私は通りの石畳の上にうつ伏せになって倒れているらしい。
うっすらと目を開けると目の前に茶色の髪をした頭があった。警備員のアルバイトをしていた男のコ。そして私がバスの中でずっと気になっていた男のコだ。
「どうしたんだい?さっき走り去った馬車から落ちたようだけど、怪我はないかい?あらあらやっぱりこんなにすりむいて」
声をした方を見上げると、ふくよかな顔をした中年のおばさんが心配そうにこちらを覗き込んで声をかけてくれた。胸がホルスタインのおっぱいのように大きく、赤い髪をしていた。
よかった、親切なおばさんらしい。なんて呑気に思っている場合ではなかった。なんと着ている服は、昔絵本で見た中世ヨーロッパで村の女の人が着るようなドレスだったのだ。
ドレスと言っても粗末なもので、おばさんのそれは洗いざらしの木綿で、昔は茶色だったと思われるが今はだいぶ色あせていた。それに馬車・・・・体を起こしておそるおそる見ると、案の定、馬が荷車や人が乗る荷台をひいて通り過ぎている。
転生ですか。
やってしまった、というわけではないけど、起ってしまった。やばい。何かやばいのかわからないがまるで想定外だ。いや、それ以上だ。東京に行くはずが中世ヨーロッパ風の街に来るなんて。
私は東京に着いたら、伊豆か湘南方面に向かい、小洒落たホテルのレストランでワインとシーフードを楽しむはずだった。
海辺を散歩した後、ホテルの糊の効いた真っ白なシーツにくるまって、これからのことをゆっくり考える。もしかしたら小説だって書く気になるかもしれない。それをこんな中世の町に飛ばされるなんてあり得ない。
心配そうな顔で覗き込む人のよさそうなおばさんに何か言わなければと思うけど、何を言っていいかわからない。
「何があったか知らないけど、いい若い娘がこんなところで横になっていたら危ないよ。人さらいだっていないとは限らないんだから」
人さらいなんて・・・いつの時代の話だ?いや、この時代では普通に用心すべきことなのかもしれない。
「ところでこいつは知り合いかい?」
おばさんはかがんで、茶色の髪をした男のコを指をさした。彼はまだ気がつかないようだ。
死んでる?いや、その心配はなかった。かすかに背中が上下しているのを見て、私はホッとする。
「おまえさんと一緒に馬車から落とされたようだけど知り合いかい?」
私は何と言っていいかわからない。知り合いとも言えないし、知らない人とも言えない。
私が答えないでいると、おばさんは軽くその男の肩を軽く叩いた。
「んー」
もぞもぞと体を動かしたかと思うと、彼はゆっくりと手をついて半分起き上がった。体育座りしたまま、あたりをキョロキョロ見渡す。
「まじか!―」
と私の5倍は驚いた。
間違いない。私が道を尋ね、一緒にバスに乗り込んだ彼だった。知人とは言い難いがなんとなく心強い気持ちになる。
「あんたら恋人同士か?年も同じくらいだろう。二人とも変な服を着ているねぇ。どこか遠い外国から来たのかい?」
「違います。ただ一緒のバスに乗っただけで」
男のコは猛然と否定する。そんなに必死に否定しなくてもいいじゃない。
「バスって何のことこっちゃ。そんな乗り物、遠くの国にあるのかい?」
「遠くの国というか、私たち・・・」
そう言おうとして彼の顔を見ると、顔をしかめて首を横に振っている。
そうだよね、ここは中世のヨーロッパである可能性大なわけで、21世紀から来ました、なんて言おうものなら、牢屋にぶち込まれることだってあり得る。
「私たち、わけあって隣の国から来たんですが、何のはずみか、ふたりいっぺんに乗せてくれた馬車から落ちちゃったみたいで。ほんと、そういうことってあるんですね」
私はうまいこと嘘がスラスラ出たことに自分でも驚く。
「おや、そりゃ災難だったね。隣の国では跡取りを決めるのに争いがあって国が荒れることもあるそうだ。逃げてくる人も多い。命があっただけでもありがたいと思わなきゃ。ひとまずうちに来るかい?お腹も空いているだろう」
私と男のコは顔を見合わせる。
「おばさんお家はどこなんですか」
男のコは初めて口を開いた。
「そこのパン屋だよ。パンならたくさんあるし、それにスープもね」
おばさんはすぐ近くの通りに面したパン屋を指さした。ドーナツの甘い匂いはこの店から漂っているらしい。
私たちはホッとした表情を見せる。パン屋のおばさんなら安心できる気がした。パン屋と人さらいの兼業なんてまずないだろう。
薄暗い物置部屋の中でその男のコ、高梨レンと私は部屋の端と橋に横になっていた。パン屋のおばさんが今夜の寝床に提供してくれた部屋だ。
「宿屋もしているから本当はベッドもに寝かせてあげたいけど、あいにく今夜は3部屋ともいっぱいでね。悪いけど物置部屋で寝てくれるかい」
申し訳なさそうのおばさんは言った。
「とんでもない。食事と寝る場所をいただいただけでも感謝です。本当にありがとうございます。」
男のコはそう言って大きく頭を下げた。
「おばさんが声をかけてくれなかったら、私たち今頃どうなっていたか・・・。物置部屋にも文句を言ったら罰が当たります」
私たちは代わる代わるお礼を言った。
パンとスープでお腹は満たされ、ショックと疲れでどこでも寝れる気がした。季節も真夏ではなく、春の気配だ。寝入るには申し分なかった。
部屋の真ん中にはおばさんが用意してくれたランプ。炎がゆらゆらして何かキャンプに来たみたいだ。ランプを挟んで、壁ぎわに私と男のコが横になっている。
本当だったら、もうとっくに東京のバスターミナルに着いていたはずだ。
それが、時空を飛んだのか異世界に来たのかしらないけど、こんなところでランプの炎を見つめることになるなんて。これからどうなるのだろう。元の世界に帰れるんだろうか。私は不安半分、あきらめ半分で男のコを見る。
彼は壁の方を向いて横になっていたけど、寝てないのが気配でわかった。
とりあえず東京に行って、あてもなく数日旅行するつもりだった私と違って、若い彼には、バスに乗ったはっきりとした目的があったはずだ。
物置部屋に入るなり矢継ぎ早に質問した。
「同じ東京行きのバスに乗ってたよね。私、ターミナルの場所聞いて、それで私もあのバスに乗ってたんだよ、気がつかなかったと思うけど。高木まことにそっくりだよね。ほら今若手俳優でトップクラスの。双子か何かなの?で、どうする?こんな世界に飛ばされて」
「ああ、古いスーツケース引いてウロウロしていた人だね。バスターミナルで気がついたけど、声かけるまでもないでしょ。俳優の高木まことは確かに俺の双子の兄貴。兄貴はオープンな性格だけど、俺は根暗。まず誰も気づかない。まぁ、来ちゃったものはしょうがないからしばらく様子見ようよ」
男のコは私の質問に余すことなく答えた。頭はいい方らしい。
「しっかし、なんで来たのかね。私はいいんだけど、あんたは東京に用事あったんじゃないの?」
「あっ、俺は高梨レン。関西の大学の3回生。専門は電子工学」
私は予想が当たっていたことにちょっと満足する。
「私は水上みお。フリーター・・・かな」
何とかなく「小説書いてます」とは言えなかった。
「時空の事故とかで飛ばされたのかな?もしくはこれはすべて夢という線もある」
レンは意外にのんびりした口調でそう言う。東京へは急用で行くのではないのかも。
「二人で同じ夢なんてあり得ないでしょ。東京は何の用事で行くの?試験とか面接とか」
「単なる帰省。家が東京で大学が関西というわけ」
年に1回ぐらいは顔を見せろと親が言うからさ、とレンは面倒くさそうな表情で付け加えた。
「急用じゃないならいいけど。もちろん、お兄さんには会うんでしょ」
レンは再び面倒くさいという目をしてから答えた。
「いや。兄貴は今実家にはいないし、マンションに行っても、忙し過ぎて不機嫌だと思うし、会わないかな」
「家族にはそうなるものかもね。でも、高価な服とか小遣いとかもらえばいいのに」
レンはチェッという目で私の興味津々な目を制した。
「言えばくれるかもしれないけど、ダルイ」
「勿体なさ過ぎる」
「ミーハーな女子の言うことはみんな同じだね。年、いくつ?」
いきなりかよ。このコは顔はいいけど礼儀を知らないのか。
「まぁ、就活とは縁がない年齢」
と答えにならないことを答える私。
「あんたは?」
まことの年齢はもちろん知っていたけど流れで聞く。
「もうじき就活」
とこちらも答えをぼやかした。
「とりあえず寝ようか。いろいろ考えるのは明日だ」
レンはそういうとさっさと横になった。
私は正直、もっとレンと話したい気持ちでいっぱいだったが、
「賛成。いろいろ疲れたよね」
と同じように横になった。
「なんか気が重いよね。正直、まことより勉強も運動も頑張ったのに、高校も大学も第一志望のところに行けなくで、会社も第二希望のとこかな、なんて思ったりする。まことは15歳で事務所に入って、高校も芸能コースだったから、ろくに学校の勉強はしなかったけど、4,5年で俺が生涯に稼ぐお金を稼ぐんだぜ。なんだかなぁと思うよ」
眠れないのか、レンが突然そう話しだした。見も知らない私だから、かえってそんな話をしてくれるのかもしれない。
わかる。
近くにあんなにもキラキラした人がいるなんて、辛いと思う。
「まぁ、双子の弟としては辛いわね。でもお兄さんのストレスも相当なものだと思うよ。私だったら、知らない人が自分を知ってるなんて気持ち悪くて仕方ない。それに芸能界なんて嫌な奴の集団て気がする」
私はレンを励ましたつもりだった。そしてまことについてずっと気になっていることを聞いた。
「でもさ、どうして高梨まことは成功できたのかな。15歳でイケメンのコなんてたくさんいるでしょ。最初は歌もダンスもみんな同じくらいのレベルだと思うし」
いくら大手の事務所で運がよかったとはいえ、大勢の中から突出する秘訣ってなんだろう。そんなに自分を売り込むワザをもっているあざといコとも思えない。
「同年代のコがどんどんTVなんか出るのに、自分はいつまでもくすぶっているのが嫌で、命に替えても売れたいと思ったんじゃないかな。それで死ぬ気で頑張ったと思うよ。もっとも俺が同居していた頃は、ずっと携帯でYoutube見ているイメージしかないけどね」
頑張ったって何をどう頑張ったんだろう。高梨まことはどのように努力したのか。疑問はいつからか私の頭から離れなくなった。
そしたらいつしか高木まことを好きになっていたのだ。
「もとの世界だったら、レンを通して高梨まことに会えたかと思うとつくづく残念に思うわ。」
「会えねぇよ」
「何でよ」
「そんなの兄貴に頼むのも嫌だし、むこうも引き受けるわけがない」
「そんなもんなの?まぁ、まぁ、私に会っても何のメリットもないしね」
「そういうこと。それより、もう寝なよ。明日はパン屋とか宿屋とか、下の食堂とかで働くことになりそうだし」
「そうだよね。ところで私たちの関係はどういうことにしておこうか?やっぱり恋人とか?」
「姉と弟」
「やっぱりそれか」
私たちはランプを消して眠りについた。
寝るときにまわりに人がいるなんて何年ぶりだろう。
壁が薄いのか、他の客室でときおり人が動く物音がする。
それに2,3メートル離れているところには若い男のコが寝ているなんて、これまでの人生でなかったことだ。学生時代は男女混合の遊びのサークルなんて興味なかった。というか馬鹿にしていた。
人の気配ってこんなにも安心するものなのだな。意外に思っているうちにいつしか眠りについた。
カーテンのない窓から差し込む朝日で目が覚めた。シャワーも浴びず、着替えもせずに寝たのによく寝た気がした。
レンはまだ少年のようにあどけない顔をこちら側に向けて眠っていた。なめらかな白い肌と長いまつげ、さらさらの髪。確実に私より5歳は若いレンの外見を羨ましく思った。
パンの焼ける匂いが漂ってきた。そうだ、パン屋は朝が早いはずだ。ただで泊めてもらったんだから手伝うべきだったんじゃないか?と、あせりに似た気持ちになっているとレンが目を覚ました。
「おはよ」
育ちがいいのかちゃんと挨拶してくれる。
「おはよう」
私も返す。
朝の挨拶を交わしただけなのに心が和む。
寝起きの顔でモゾモゾ起き上がるなり、レンは言った。
「で、どうする?」
「え?」
私は一瞬何のことを言っているのかわからずそう聞き返した。
「何がって、どうやって帰るかに決まっているでしょ」
「そうか、そうだよね。考えなきゃだよね」
明日帰る方法を考えようとは言っていたけど、早すぎないか?
私はちょっとこちらの生活を楽しんでもいいか、なんて思っていたところなのでちょっとうろたえた。
「バスに乗って時空を移動するなんて考えられるけど、こっちの世界にバスなんてなさそうだし。あと、何か見たものある?俺は寝てるうちにこっちの世界に来たみたいで」
「私が最後に見たのは窓の外の一面の星空かな。まるで宇宙の中を飛んでいるみたいだった。そうそう、赤くて大きなガスの塊とバスが衝突して、そのあと気を失ったみたい」
死ぬことへの恐怖はないつもりだけど、できれば赤いガスの塊と衝突して死にたくはない。あのときの恐怖は相当なものだった。
「まじ?そしたら俺ら、死んじゃったってことも考えられるよね?」
「嘘、ここは天国?帰れないってこと?」
私個人としてはそれでもOKだと思った。別にもとの世界に帰ったところでいいことは何もない。いいことなんか何もやって来てはくれなくて、ただ面倒なトラブルが次々とやってくるだけだ。
若い頃はこんなじゃなかった。いい出会いがたくさんあったと思うし、未来に希望だってあった。できることならレンだけでも元の世界に戻してあげたいと思う。
「とりあえず下に降りようか?」
レンの言葉に促されて、私たちは連れ立って階下へ降りていった。
「もっとゆっくり寝ていればいいのに」
大きなトレイに乗せた焼き立てのロールパンを運びながらおばさんは言った。店で働いているのは中年の女性と男性が一人ずつ。おばさんの夫らしい人は見当たらない。
「いえ、たっぷり寝ました。朝、忙しいのに何も手伝わなくてすみません」
私は恐縮して謝る。
「いいんだよ、そんなこと。道で行き倒れのコたちを助けさせてもらって、神様への良い貯金ができた。それより朝ごはんは?焼き立てのパンに裏の畑で採れた野菜やハムを挟んだサンドウィチはうちの看板メニューなんだ。食べるだろ?」
おばさんはパン売り場の横の、カウンターとテーブルが3つほど並んだスペースを案内してくれた。
「ありがとうございます。お言葉に甘えて」
そんなセリフ知ってるんだ?どこまでもレンは礼儀正しい。
カウンター席には近所の常連らしい恰幅のいいおじさんたちが2人、コーヒーを飲んだり、野菜サンドをほおばったりしていた。
私とレンはカウンターの中に入り、それぞれ自分でコーヒーをついでも窓際のテーブルに着いた。窓の外の通りは、すでに活気があった。朝の陽ざしはこの世界でも同様に降り注ぐものなんだな、私は思った。
「美味しいね」
「うん」
こんな会話をしながらコーヒーを飲むのはいいものだと思う。
一人きりの食事やお茶に慣れていて、特別寂しいとも思わなかったけど、レンとコーヒーを飲むことで、胸に暖かいものを感じた。
幼い頃は家族で食事をしていたに違いないのだが、その感覚を思い出すことはできない。生まれてからずっと一人で食事をしていたような気がする。
おばさんは野菜とハムをめいいっぱい挟んだサンドウィッチとフルーツをもって来てくれた。
「まずはたくさん食べて、これからのことはその後はで考えればいいさ」
太陽のような笑顔でおばさんは言う。
私の母親とは全然違うと思った。母はジュースを買うのに100円ちょうだいと言っても絶対くれないケチで冷たい女だった。父親ががんになっても最後まで知らせてこず、連絡してきたのは葬式が決まってからだった。
私が6年生ぐらいのとき、父親が出張で私にだけお土産を買ってきたのを何日もネチネチと私に愚痴ったのを、大人になってからも繰り返し思い出す。幼い頃は「おまえはバカだから20までは生きられない」といい、少し大きくなってからは「おまえなんか結婚相手が見つかるわけがない」と言った。おばあちゃんとも仲が悪く、なぜか弟には優しかった。
長いこと、私は自分が悪いから母がそんなことを言うのだと思った。しかし、母親はそういう人間だったのだ。産んだ娘に愛情をもつことができない鬼婆だった。
本当に世の中にはいろいろな種類の人間がいるのだ。
おばさんと母はすべてが真逆だ。
逆?そうだ。こっちの世界が逆だったらいいと思う。
まわりの人は優しく、自分は人に好かれ、夢を実現して裕福になり、男性にもモテる、もとの世界とは逆の世界だ。
レンはどうだったのだろう。もとの世界では普通に幸せだったのだろうか。
サンドウィッチをほおばるレンに聞いてみた。
「もとの世界?ま、普通かな。勉強も運動も普通で友達も普通にいて。親も家も普通。ああ、双子の兄貴がスターなのは普通とはいえないけど、まわりにはいろいろ面倒だから言ってなくて、だから関係ないし。」
「ふーん。まぁまぁ幸せだったんだね」
「普通は幸せなのかもしれないけど、前にも言ったけどまことみたいなのが近くにいると嫌になることはあるよね。幸せだと思ったことないけど、別に嫌なことも多くなかった」
「彼女とかいたの?」
「くると思った。いたけど、別れた。というか、他に好きなやつができてそっちに行った。3年つき合ったんだけど。あ、これはちょっと不幸かな。でもよくあることだしね」
「じゃ、これから友達ということでつき合おうとは言わなかったの?つらいじゃん、会えなくなるの」
「無理に友達つき合いする方が辛いでしょ。俺の方はまだすごく好きだったし」
「偉いね」
「そうでもないよ。普通」
いいなぁ。辛いけど青春だ。私もそんな潔い青春を送りたかった。
私なんて、追いかけて追いかけて、嫌われてばかりの恋愛だった。一人きりで、何もなかった青春とどちらがマシだったろうか?
どうやらレンにとってこっちは逆の世界ではなさそうだ。おばさんも「いいねぇ、イケメンで若い男のコは」的な目で見ているし。もとの世界でもこっちの世界でもまぁまぁ好かれるキャラらしい。
「帰りたいよね」
「そうだね。試験とか就職とかだるいけど、海外の行ってない世界見たいとか、ITとかもっと進んで世の中がどんな風に変わるか見てみたい気がする。こっちにいたんじゃ、家に電気が来る前に死にそうな気がするし」
レンの口調は、帰ることを前提としているようだった。帰れることを信じているんだ。
「私、あっちじゃ人とうまくやれなかったんだ。最初はうまくやっている気がしても、やがて相手が私を嫌うか、自分が相手を嫌いになる。いくら世の中が便利になってもこればかりは関係ない。私だけこっちにいてもいいかな」
「そんなことないよ。いいこともあるって」
そう思えるのは若者だけだ。
「一緒に帰るからな」
「はぁ」
私は気のない返事をした。でも、やや乱暴な言い方だけどその言葉が嬉しかった。
そうは言っても、帰ったら彼氏になってくれるわけでも友達になってくれるわけでもないだろう。だったらこのままの方が楽しい気がした。
朝食の後、街を散策することになった。
さすがに宿の掃除でもしなければまずいだろうと思ってそうおばさんに言うと
「そんなの、あとでいいよ。まずは街を見てきたら?美しい建物がいっぱいあってなかなかいい街だよ。ちょうど春だし、花が町中に溢れている」
そう言われると俄然外に行きたくなった。レンも同じと見えて目がキラキラ輝きだした。
結局、小遣いまでもらって私たちは外に出た。
昨日と同じ服装なのが気になったが贅沢はいえない。そういえば自分たちの荷物もなかった。あの荷物とほかの乗客を乗せたバスはどこへ行ってしまったんだろう。
子供の頃に読んだ絵本から飛び出してきたような街は美しく、活気に溢れていた。歩道や家の窓など、いたる所に花が咲き乱れ、石造りの建物には繊細な彫刻が施され、目を楽しませてくれる。馬車や人々はそれぞれの役割のために忙しく行き交っている。女性は長いスカートを履き、男性は膝までのニッカにゲートルを巻いた人が多い。道沿いの街頭はきっとガス灯だ。
見るものすべてが珍しくて、私とレンはキョロキョロしながら通りを歩く。ときおり元気のよい子供たちとぶつかりそうになった。
「タダで海外旅行しているみたいで嬉しいよね。お得な感じ」
女性は“お得”が好きなのだ。
「帰れることができたらいい思い出だけどね」
レンが冷静に言う。
「こんな美しい街で、あんな優しいおばさんに雇ってもらって、穏やかに生きていくってどうなんだろうね」
私からすればここはメルヘンの世界だった。
「みんながみんな優しい人なわけじゃないよ。この時代は貧しい人が多かったと思うから泥棒も多い思うし。きっとみんな必死で働いて生きているんだよ。ニートなんていなさそうじゃない?」
「確かに。体が悪くて働けない人以外は、みんな働いていそう」
そういえば、元の世界で、私は何事も必死でやらなかったような気がする。怠けようとする気持ちがあったわけじゃない。でもいつだって必死になれなかった。
「やっぱりこの時代は無理かも。私っていつも頑張る気になれないんだ。自分でもよくわからないけど」
「無理だと思うことないよ。とりあえず、目の前のことを頑張ったらいいんじゃないの。おばさんのパン屋を手伝うとかさ。ていうか、一緒にもとの世界に帰るんでしょ」
もとの世界に帰っても友達でいてくれる?という言葉を私は飲み込んだ。
やがてひときわ大きな建物が現れた。
石造りで劇場のようにも見えるけど、煙突から煙が出ているところを見るとそうではないらしい。そこから出てくる人はみなタオルを持って顔が赤く蒸気していた。
「銭湯だ!すごいこの時代にもあったんだ」
興奮して私は叫んだ。
「いや、逆に家に風呂はないのかも」
「うん、そうともいえる」
「入る?」
「そうしたいけど、お金足りるかな」
私はおばさんからもらった4枚の硬貨をポケットから取り出した。大き目の鉄の色をした硬貨だ。もちろん価値はわからない。
「ダメもとで入ってみよう」
「そうだね」
夕べはシャワーもできなかったので体が汗ばんで気持ち悪かった。ここで汗を流すことができたらこんなありがたいことはない。
私は入り口で「二人分」と言い、硬貨を全部掌に載せて、浴場のおじさんに差し出した。おじさんはそのうち2枚を取った。
ラッキー、入れる。
懸念していた混浴でもなく、着替える部屋には無料の貸し出しタオルもあった。脱衣場の奥は広いスチームサウナの部屋だった。私がイメージしてきたサウナとは違って、部屋全体が明るい。天井の丸いガラス窓から日が差し込んでいるせいだった。サウナ着もタオルの横に積んであった。
異次元の浴場&サウナっていうだけでなんだか興奮する。
パッパッと素早く服を脱ぎ、棚におさめ、興味津々で奥の浴場へと入っていった。博物館のような雰囲気の大きな一つの部屋に大小の湯舟があった。
天井は高くアーチ状になっていて、てっぺん部分はやはりガラス張りになっている。青い空がよく見えた。午前中にもかかわらず何人かの女性が温泉を楽しんでいる。みな白い肌で肉付きがよかった。
壁際が体を洗う場所みたいで、石鹸がおいてあった。シャンプーはなかったけれど贅沢は言えない。思いがけない、こんな幸せ、感謝しても足りないくらいだと思った。
中央の丸くて大きな湯舟に体を浸す。お湯は無色透明で少しヌルッとした感じがあった。手足を思い切り伸ばす。ショックと緊張が和らぐ感じがした。
本気でずっとこっちの世界にいようか。
レンが元の世界に戻るのを手伝ってもいいけど、私は残ると言おうか。こっちなら、ちょっと人生をやり直せる気もする。何をやってもダメな場所と時代が人にはあるのではないか。先に希望が見えないことが一番きつかった。
そろそろサウナの方へ行ってみようか。レンはもう行っているかもしれない。
そういえば、もとの世界ではカップルでサウナに行ったことがなかったな。姉弟という呈でも男女でサウナなんてドキドキする。あこがれてもできなかったことが飛ばされた異世界でできることが不思議だった。
ズタ袋のようなサウナ用の服を着て、蒸気がいっぱいのサウナ室に入る。大きな部屋の床下から蒸気が吹き上げていた。
ほどよい熱さ加減だ。ところどころに人が横になっている。
一番奥の壁際にレンが横になっているのを見つけた。
「なんか映画で見た古代のサウナそのものだね。昔の人も結構贅沢だったんだね」
私は声をかける。
「そういえば、ももとの世界でもサウナとか行ったことなかったな」
「彼女さんは行きたがらなかった?」
「どうだったかな。忘れた」
レンが正解だ。過去のことを思い出してもどうなるものでもない。
「お母さんとはどう?仲がいい?」
まことやレンのような子をもったお母さんは幸せものだと思う。
「普通。というか、ここのところ俺の方で気を遣うようになったかな。用もないのに電話したり」
「そうなんだ。いいねぇ」
自分の母親との関係を比べずにはいられない。
そんなことを思いながら天井を見上げた。そこからは青い空が見え、午前中の日の光が注いでいるはずだった。
しかし、次の瞬間目を疑った。遠くの空に赤く燃える球が見えたかと思うと、それはあっという間に近づいてきて天井のガラスに衝突した。
まただ。すさまじい爆音。勘弁してほしい。そしてまた、そこから記憶がなくなった。ただ、はっきりとレンが私をかばうように覆いかぶさってくれたのを覚えていた。
気が付くとバスの席に座っていた。
私はさっき赤い球が衝突する瞬間大きな叫び声をあげたはずだけど、バスの中はしんと静まり返って、乗客はみな寝入っているようだった。
急いでレンが座っていた席を見る。そこには、レンの大きなリュックがあるだけで彼の姿は見えなかった。
私だけ帰ってきた?
一緒の建物の浴場に入って、彼も赤い球が天井に衝突するのを見たはずだ。赤いガスの玉が、時空を動かす鍵だとすると私だけ帰ってきたのは納得いかなかった。
あの博物館のような浴場は大丈夫なのだろうか。レンは死んでいないよね。まぁ、このバスだって赤い球と衝突したのに、乗客のみんなは無事なんだからレンだって大丈夫に決まっている。
レンの体の重みがはっきりと残っていた。人から身を挺して守ってもらったのは生まれて初めてだった。
それにしても、私だけ赤いガスの球を見たらタイムトラベル。でも前回、レンはなぜ私についてきたのか?まったくわけがわからない。
窓の外を見るとそろそろ夜が明けようとしている。すっかり明るくなった頃には新宿に着くに違いない。
レンを連れ戻すにはどうしたらいいんだろう。
考えてる間もなくバスは新宿のターミナルビルに着いた。
幸い、運転手は乗客の切符を確認することもなく、挨拶を済ませるとすぐに、乗客の荷物を取り出すためにバスを降りて行ってしまった。そういえば、運転手もほかの乗客も大阪のバスターミナルを出発するときと何ら変わったところはない。ただ長距離をバスで移動した疲れがあるだけだ。
私は急いでレンのリュックも担いてバスを降りた。誰も気に留める人はいなかった。
とにかくコーヒーを飲んで落ち着こう。
レンの黒いリュックを背負い、私の紫の大きなショルダバッグを肩にかける。
歩き出そうとすると、服が洗いざらしの白いサウナ着であることに気が付く。ワンピースに見えないこともないがあまりにみすぼらしい。
バスの乗客は寝起きのせいか、ジロジロ見る人がいなかったけど、今から新宿を歩くのはきびしい。それに下着もつけていないのだ。
コーヒーより着替えが先だ。バスの待合室を探して、まっすぐにトイレに向かう。小さな子供と一緒に入れる大きな個室を探して入り、自分の荷物から下着とジーンズのスカートとTシャツを取り出して身に着けた。ドアを開けて外に出て、洗面台で歯を磨き、化粧ブースで簡単にメイクをすると、やっと気分が落ち着いた。
そのとき、レンのリュックから携帯の呼び出し音が聞こえた。あちこちのポケットを探り、ベルが鳴り終わる前に出ることができた。ずっと携帯がつながらない方が問題だろう。出た方がいいと思った。
「もしもし、高梨レンの携帯です」
少しの沈黙の後、電話のむこうのから
「どなた?レンは?」
若い男性の声が聞こえた。高梨まことだとわかった。レンの声にそっくりだったからである。少し前の私だったら、高梨まことと電話で話せるなんて飛び上がって喜んだことだろう。しかし、今はどう繕うかで頭がいっぱいだった。
相手は、朝の6時台に弟に電話したら女性の声がしたことで不信感いっぱいのはずだ。
「ええと、あの、レンくん、ちょっと車と接触して、いえ大したことじゃないんですけど、病院でレントゲン撮った方がいいだろうってことになって、私、近くにいた者でして、今待合室で待っているところなんです。いえ、家族の方、来なくてもぜんぜん大丈夫みたいです。ほんの形だけで。警察とか相手の人はもう帰って。はい、相手の連絡先は聞いてます」
これで少し時間が稼げるはずだ。スラスラと嘘が出たことに自分でも驚いた。もちろん、誰かに助けを借りたい状況だけどまさか、レンくんは異世界に行って、戻ってこれなくてどうしましょう、なんて言えるわけがない。
正直に言って助けを求めたら、高梨まことは力になってくれるだろうか。彼はタイムトラベルを信じるタイプだろうか。いや、話がややこしくなるだけだ。まして異世界から連れ戻す方法なんて知っているはずがない。
高梨まことと会える機会を逃すのは惜しい気もするが、秘密にしておこう。
「それじゃ、よろしくお願いします。親には心配かけるので言わないでおきます。自分がすぐに行くべきなんでしょうけど、今から空港へ向かわなくてはいけなくて。ご迷惑かけてすみません」
「いえ、とんでもないです。あの、頑張ってください。いつも応援してます」
「ありがとう」
高梨まことと電話で話せた。夢心地気分をじっくり味わいたかったが今はそれどころではない。
何とかレンを助けないと。私の命をかけてもいいと思った。
ビルの地下にある喫茶店でモーニングを食べていると、灰色のフードを深く被った男がこちらを見ているのに気が付いた。人の視線を感じることはたまにあった。どうせ、「そう年でもなさそうなのに老けた感じね。着ているものも貧乏くさい」とか、そんなたぐいの視線だ。全部無視することにしている。
しかし、その男の視線は違った。その視線の意味をまるで読めない。コーヒーにも手をつけず、身じろぎもせずじっとこちらを見ていて気持ちが悪かった。
どこへ行ったらいいのかわからなかったけれど、ひとまず店を出ることにする。
黒いフードの男はついてきた。やばいやばい。誘拐されて内臓を取られるとか?
新宿西口は勤め先に向かう人が増え始めていた。人の流れに身を任せて半地下の歩道を歩く。こっちの世界の季節はなぜか夏だ。すぐに背中が汗ばんできた。
私が振り返るのと同時に、男は駆け足でやってきて声をかけた。
「ちょっと」
30歳前後の低い声。言葉が出ない。
「さっき、こっちの世界に戻ったよね」
どうやら人身売買の組織の人間ではなく、タイムトラベル関係の人らしい。はっきり言ってどっちも怖い。敵なのか?味方なのか?
「あの、どういう用件で?」
何と返していいかわからないので、とにかく言ってみた。
しかし、間もなく、猛烈に怒りがこみ上げてきた。気分転換したくて、ないお金をかき集めて新宿行きの夜行バスに乗ったのだ。なのに、赤い火の球なんか2回も出てきて異世界に飛ばされては戻ってきた。頭の中がぐちゃぐちゃだ。全部タイムトラベルに関係している組織の人間の責任に思えてきた。
私の失った時間と味わった恐怖にどう落とし前をつけてくれる? 私はその男を睨んだ。なぜか命が惜しいという気持ちはなかった。
ちょっとこっちへ、と言い、男は人の流れから外れた椅子とテーブルがいくつかおいてあるビルの入口近くのスペースへ導いた。
「なんなんですか」
ついけんか腰の口調で言ってしまう。
「驚かせてすみません。大体予想はついているかと思いますが、私はタイムトラベルに携わっている人間です。先日ちょっとした事故がありまして」
「ちょっとした?赤い球に突撃っされて異世界に飛ばされることがちょっとしたことなんですか」
相手が低姿勢なので、こちらは口調が強くなる。
「言い訳かもしれませんが、私どもがしたことではなくて。実はこの世界は一つではなくて、いろんな時空にいろんな世界が存在するんです。で、たまに時空のズレが生じて人が飛ばされてしまうことがある。私はそれを調整する係といいますか」
見た目ほど悪いことをする人ではないらしい。私はホッとする。
「あの赤い球のせいで時空がズレるということ?」
「いえ、逆で、時空がズレるときに赤い球が見えるときがある」
「あれはやめて欲しい。1回死を覚悟するからね」
「私の力ではなんとも。ところでレンくんなんですが」
そうだった。一番気がかりなのはレンの安否だ。
「彼も戻ってくるはずだったんですが、なぜかうまくいかなくて」
「なぜかうまくいかないってあなたのせいなの?」
「だから、私は何の操作もできないんですよ。ただ修正するのが仕事なんです。どんなことにも偶然はあるし必然はあるし、間違いもあります」
「私たちが飛ばされたのは偶然、必然どっち?」
「聞いたところでは、体の中のDNAに時間の流れと反応する何かの物質があってタイミングが合うと飛ばされるって聞いたことがあります」
男は恐縮したようにそう言った。
「だったら私は前にもタイムトラベルしたことがあったはず。でも記憶がないんだけど・・・」
と言い終わらないうちに、忘れられない出来事を思い出した。
実は私は15歳のときに10分ぐらいタイムトラベルしたことがある。
ある夜、リビングにいて、父親の車の中に本を忘れていたのを思い出した。
寒い冬の夜で、玄関を出ると満点の星だった。車から本を取り家の中に入る前にもう一度空を見上げると、ひときわ大きく明るい星があった。赤い色をしていた。星も赤や青に見えることがあるから、気にも留めずに家の中に入った。
私の顔が固まった気がした。
家族のいるリビングは10分前そのままだったから。TVに映っているお笑いタレントのセリフも私が10分前に聞いたものと同じで、とっくに無くなっているはずの弟のショートケーキはまだ皿の上にあった。
あっ、これがタイムトラベルというやつ?15歳の私は意外に冷静だった。興奮して家族に訴えるということもしなかった。
ただ寝る前におばあちゃんに話した。寝るときはおばあちゃんの部屋で二人で寝てたからだ。信心深いおばあちゃんなら信じてくれそうな気がした。
「私、さっき家を出て行ったでしょ」
「うん、本はあったんかい」
「あった。で、またリビングに戻ったら10分ぐらい前の世界だったんだ。TVも家族の会話も、弟のケーキまで」
「時間旅行だね。実は私も15歳のときに1回あった。もうこの歳だからね。一生で1回だけだったんだろうね」
「怖くなかった?」
「私は家族を追いかけて祭りに向かう途中だった。赤い大きな球が迫ってきたと思ったすぐ近くの納屋にぶつかったんだ。不思議とこのまま死んでもいいかな、なんて穏やかな気持ちだったよ」
おばあちゃんの声は淡々としていた。
「気がついたら不思議な世界に迷い込んだのさ。人は水やお茶を買って飲むんだ。人はみんな小さな板みたいなものを持って、話もあまりしなくて、歩きながらでもずっとそれを見てるんだ。何だか寒々として早く帰りたかったよ」
「おばあちゃんはそこでどんな人になったの」
「家庭の主婦なんだけど、自分の仕事がないんだ。家事をしてくれる人がいてね。家はとてつもなく高い建物の上の方にあってさ。怖かったよ。あんな世界は嫌だね。もう行きたくない」
おばあちゃんは嫌な記憶を打ち消すように顔をしかめた。
「戻ってこれてよかったね」
「そうだね。おばあちゃんの実家はりんごを作っていただろ。戻ってからはりんご園が好きになった。土の上に足をつけて木や草が近くにあるって幸せだと思ったよ。一生懸命手伝ったもんさ」
「そうだよね。高いビルの上の世界なんて嫌だよね」
おばあちゃんはしっかり異世界に行ってきたけど、私は10分ちょっとの時間のズレを経験しただけだった。でも遺伝的に私もタイムトラベラーの素質があるとそのときは嬉しくなったものだ。
「どうしました?そんなにレンくんが心配ですか?」
「もちろん心配ですけど、ちょっと昔のことを思い出して」
「やっぱり過去にタイムトラベル、あったでしょう?」
「10分ぐらいだけど、それらしいのがありました。おばあちゃんの話しも思い出しました。遺伝というか体質なんですね。レンもタイムトラベルの経験、あったかもしれないですね」
「いや、彼は初めてです。お兄さんの方は何回かしてるけど」
「売れっ子俳優の高梨まことですか?」
「そう。1回時空を飛んだら、意図的にできる人もいて、彼は何回もしてます。彼は同じ世界の未来に飛ぶのが希望でした。といっても5年後ぐらいかな」
「そんなこともできるんですね。だったら競馬で結果見て、馬を買うとかできるじゃないですか」
「だめだめ。いろいろと制限が厳しくて、お金儲けが目的だったらできないんです」
「まぁ、わかります」
「まこと君は15歳で芸能界に入ったんだけど、なかなか運に恵まれなかったんです。顔がよくて、そこそこ演技ができる若い男のコなんて履いて捨てるほどいますからね。そこで彼は未来に行って、有名なプロデューサーはどこに行ったら会えるのか、2,3年後はどんなタイプの俳優が好まれるのか、ありとあらゆることを調べた。その結果、あの活躍です」
「確かに最初の何年かはぜんぜんだったのに、急に売れ出したのが不思議だった」
「しかし、もちろんそんなことをすればリスクを払わなければなりません。1回タイムトラベルをするとかなり命が縮みます。結果、彼は32歳で死ぬことになっているのです。売れない俳優を一生やるよりも、トップスターになって若くして死んだ方がいいらしいです」
「すごいね。でも、その気持ち、わかるような気がする」
死んだように生きて寿命をまっとうするか、夢を叶えて、若くして人生を終えるか、選ぶのは難しいけど決めるのは本人だと思った。
「で、相談なんですが、レンくんが帰ってくる方法があります」
「まことさんとどういう関係があるの?」
「ないです。ただ、あの兄弟はタイムトラベルの体質ってだけの話で。関係あるのはあなた」
「やだ。あなたのミスじゃないんですか?」
「だから違いますよ。彼が戻って来れなかったのは、あなたに覆いかぶさって重たくなったから。重いと空中でも時空でも飛びづらいのはわかりますよね」
「なんとなくわかるような気もするけど。じゃあ、彼が私を助けようとしなければ一緒に飛んで帰れたってわけ?」
「私が残って、レンが帰って来れたってこともありますよね?」
「言いづらいんですが、少しでも若い人の方が命の重みは大きいのです。軽い人の方が帰って来れた。
確かに彼は私の5歳年下だ。
木の枝に隠れていた太陽が顔を出し、暑くなってきた。このフード男の目的は結局何なのだろう。私は改めて男を見る。
男は私の視線に応えるかのように初めて黒いパーカーのフードを取り、私を見た。ホスト系の顔で好みが分かれるところだが、イケメンといっていいだろう。
「自分は、03と言って、時空の秩序を守る仕事をしてるんです。たぶん前は普通の人間だったと思うけど、記憶なくて、今はこんな仕事している」
「SFだねぇ。ところで上司は?仲間は?」
「どちらもいなくて、ここのところの機械に指示がきてそれを守るだけ」
彼は耳のところについている機械を指さした。
「一人きりで長いことやってるの?孤独だね」
「自分には時間の感覚なくて孤独という感情もわからない」
「でないとやっていられないよね、きっと」
人は孤独とかそういう負の感情が一切なくなったら長く生きていられるのかもしれないと思った。
「話を進めるけど、いいかな。手っ取り早く言うとレンくんとあなたを交換しなくちゃいけない。命の総量のバランス的にそうしなければいけないんです」」
「だってレンも私ももともとこっちの世界の人間なんだから、レンが戻ればそれでいいんじゃないの?」
「そういうわけにはいかなくて。あなたが戻ったときに一度、両方の世界の生命の量がリセットされたことになって。レンくんだけ戻せば、あの世界の生命量が減ることになる」
「そんな。生命の量って何千万か何億かわからないけど、一人分だけ減ったってどうってことないんじゃないの?」
「いえ、神にばれます」
「そんな、いくら神様でもそんな微々たる生命の重さだか量だかわかるのかな」
「神は万能ですから」
神は万能?
「ていうか、神はそれぞれの世界の秩序そのものなんです」
「でも秩序ある神の世界もバグってしまう?」
「だから私たちをお創りになった」
なんか話が堂々巡りだ。わかっているのはレンがこっちの世界に戻るには私があちらにいかなくてはいけないこと。
「いいけど」
私はあっさり承知した。もうこっちの世界では十分生きた気がした。もちろん何事もなければこのままそれなりに生きていけたと思うけど、別に未練はない。
03は、はっ?とした顔をしていた。たぶんこの手の交渉であっさり自分が去るのを承知する人間は少ないのだろう。
「いいんですか?家族とかこれからやりたいこととか」
「まわりの人に恵まれなかったんだよね。それは自分のせいだと思うのも悲しいし。これからやりたいこと見つけて実現する気力もない」
「今度は今までの記憶がなくなるんですよ。死ぬことと同じなんですよ」
「自殺しなかったら地獄に行かなくても済むんだよね。これはラッキーと言えるでしょ」
これまでの人生で自殺はすぐそばにあった。それをしなかったのは「自殺して地獄に行くのもいやだなぁ」という気持ちがあったからだ。
「いいんですか。ほんとに」
「いいって。実は私のために身を投げ出してくれた人、レンが初めてなんだ。命に代えても何かしてあげたいと思う」
耳の奥で高梨まことが1枚だけ出したCDの曲が流れた。空よりも高く、海よりも深く・・・自分よりも愛する人のことを思う曲で、あまり売れていないけど、私が大好きな曲だ。この曲を聴くと、私が一番幸せだった時を思い出せる気がするのだ。しかし、いつだって私に思い出る幸せな記憶はなかった。
「じゃ行きましょうか。このビルの一番上の階に登れば例の赤い球が見えるはずです」
私は50階以上はありそうなビルのてっぺんを見上げた。そして頷いた。
レンのリュックを椅子の上に置いた。中で携帯のベルが鳴る。
もうちょっと待ってね、高梨まこと。もうじきレンと話せるから。
私たちは一番上の階に向かうエレベーターに乗るために、ビルの入口へ向かって歩きだした。