本当はお風呂に入っていた中世の人々
中世ヨーロッパにも風呂はあった。
シャルルマーニュはアーヘンの宮殿に大浴場を築いたし、エディンバラ城にはサウナがあったという。またウェストミンスターの宮殿の方にも常設の浴場があり、エドワード1世の妃エレノアは香り付きの風呂に入ったと言われる。サウナは主に北欧とロシアで利用されていたようだが、13世紀のアイスランドのサガ以外の証拠はまだ疑いの対象である。
オットー・ボルストは中世ドイツにおいて少なくとも風呂が一つある修道院がかなりの数あり、また村落にすらあったと言及する。農家の風呂は蒸し風呂で、風呂桶に天幕を張ったものだという。蒸し風呂では、熱した石に水をかけて蒸気を起し、白樺の枝で身体を叩いた。
多くの絵画史料に見られる北西ヨーロッパの中世の風呂は1人用または2人用の大型の木桶であり、時々桶の内側にリネンの布が裏打ちされた。有料の公衆浴場には桶が幾つも並べられていて、ときには一つ一つの桶に天幕が掛けられていた。何人も入ることのできる風呂も中世絵画の中に確認できる。
公衆浴場は少なくとも13世紀から15世紀のパリやウィーンには20~30個存在していた。リヨンやアムステルダム、ニュルンベルク、バーゼル、その他多くの中世の町に公衆浴場はあった。
浴場は朝早くに開かれる。ウィーンやバーゼルでは開業に合わせて角笛が吹かれた。風呂に入る時間は規定されておらず、角笛の音と共に薄着で浴場に出かける者も、夕方に入る者も仕事終わりに入る者もいた。夜中の浴場の出入りにおいて喧騒が伴い、市民に訴えられた例もある。
風俗史や売春史において、有名な15世紀ブルゴーニュの写本の挿絵に見られるように浴場は男女が共に入る風俗店だったともいわれる。確かにロンドン市壁のすぐ外にあるサザークのバンクサイドには風呂場stewが集中していて、14世紀後半において経営もしくは従事する女性の多くはフランドル人だったという。サザーク住民の1391年の請願記録には、売春宿があり犯罪が多くて一般市民が安全に歩けないという訴えが見られる。
イングランドの風俗業と浴場の結びつきは早かった。12世紀のヘンリー2世の頃に浴場へ女性が立ち入ることについての禁令が出されている。違反した経営者は髪を剃られて晒し台に乗せられた。13世紀半ばにはコックレーン通りを除いてロンドン市内に売春婦が住むことは禁じられ、そのために市壁すぐ外のサザークも主要な売春地区になった。
フランドル人の風俗業への関与はフランスでも良く知られていて、14世紀には中傷の対象になっていた。この頃の戦争やフランドルの産業の停滞は女性の仕事の場を失わせていた。
当時の教会関係者にとってこうした風呂は望ましいものではなかった。ヴァンサン・ド・ボーヴェは、女性は入浴を避けるべきだと提案している。
前述のように修道院には風俗業に拠らない風呂があった。男子女子どちらの修道院にも。
ベネディクト会派の大規模な修道院が皆そうであるように水洗トイレもあったし、聖体に触れる前に手を洗う洗面所もあった。ベネディクト派の僧は、毎日朝に顔を洗い、食事前に手を洗い、週に一度足を洗い、月に1,2回ほど頭と髭を剃った。
中世や近世の基本的習慣として顔や手は朝洗うし、食事前には手を洗う。19世紀に発見されたのは高い除菌力を持つさらし粉の溶液を使って手を洗う方法だから、手を洗うだけなら昔から行われていても矛盾はない。
それでは売春に関わらない世俗の風呂はあったのか。
アルブレヒト・デューラーは男湯と女湯に描き分けたが、ハンブルクやディジョンなど都市によっては男女が別々の曜日に浴場に入ることが定められている場合もあった。デューラーの描き分けは曜日ごとの違いを示しただけかもしれない。少なくとも年少の男の子は母親と一緒に入ったようだ。一人で風呂に行くことも、知り合いと共に風呂に行くこともあった。
恋人同士で共に風呂で入る例はいくつか見られる。著者不明のフラメンカには恋人同士で風呂に入る描写がある。13世紀から14世紀にかけてのファブリオには、恋人のために(召使いに)風呂を沸かさせ、一緒に入浴した女性の話がある。一方で、マリー・ド・フランスのエキタンでは王と王妃が別々の風呂桶に入っている。
イングランドにおいて性風俗に関わらないタイプの風呂屋は誠実な浴場honest stewと呼ばれ、女性が入ることは禁止された。ロンドンでは誠実な浴場として営業許可を得た風呂屋が違法な風俗業に手を出して処罰された記録がある。
風呂に入る頻度に関して、たとえばウェストミンスターの僧侶は年5回冷たい風呂に入るという規定があることから、とても少なかったと推定されることがある。それより頻度の高い例として、ジョン王は1210年の旅行の際に風呂の世話係ewererを連れて行って少なくとも4ヵ月半のうちに8回程度風呂に入ったといい、エリザベス1世は月に1回風呂に入っていたという。
市民の利用する浴場は毎日営業しているいているわけではなかった。金曜日が休日のケースがあったり、週に2日から4日営業の公衆浴場があった。そして前述のように男女で曜日分けされることもあった。
アルフレート・マルティンによれば、詩人タンホイザーは週に2回風呂に入り、ニュルンベルクでは毎週土曜日の入浴のために日雇い労働者に風呂代Badgeldが支払われた。
いずれも現代と比べると低頻度である。個人向け給水設備が充実する時代まで低頻度の状態は続いたかもしれない。
公衆浴場の代金は安かった。1380年の条例に基づけばパリでは風呂代はドゥニエ銀貨4枚(※パン1個でドゥニエ銀貨1枚)。15世紀の頃のドイツではプフェニヒ銀貨2枚が必要だった。蒸し風呂の方が安く(※ドゥニエ銀貨2枚)、通常の風呂が高く設定されていた。そして森林伐採による薪代の高騰に合わせて入浴代金は次第に上昇していった。
中世の史料に見られる風呂情報の傾向からは、ローマの公衆浴場の慣習がスペインを除くヨーロッパで衰退する一方でイスラム教国で流行し、12-13世紀の十字軍遠征によって地中海の風呂の習慣がヨーロッパに再導入され、15世紀末になって衰退したという仮説を立てることもできるが、衰退と再導入の傾向は地域ごとに大きく異なるし、ドイツでは十字軍以前の時点での浴場の導入が見られる。
また再衰退についても健康目的の入浴や温泉を除く必要がある。16世紀初頭にフランスの公衆浴場は軒並み閉鎖されたが、例えば生涯に一度だけ風呂に入ったと言われるルイ14世も王室の医者アントワーヌ・ヴァロットの言及によれば医療目的のために何度も風呂に入ったし、風呂自体に否定的でないことを示すように1671年にはヴェルサイユに公衆浴場を築いた。
テューダー朝イングランドにおいてもウィリアム・ターナーが風呂の医療価値を認めている。
中世の医者たちの考えは統一されていない。
サレルノのトロトゥーラは女性にハーブを混ぜた風呂に入ることを奨め、ピエトロ・ダバノはスチームバスを含む様々な風呂を提案した。一方で、パリの医科大学は温水が毛穴を開き、ペストの原因である腐敗した空気が入り易くなると考えた。
オークまたはブナ製の風呂桶は桶屋cooperが製造した。桶屋は桶や樽を製造する業種である。桶は水桶だけでなくミルクの搾取やチーズやバターへの加工にも利用された。
風呂桶は円形または小判状をしていて、竿を差し込むことで持ち運びできる仕様になっていた。1292年に4人の騎士が叙任した際には、叙任前夜の入浴の儀式のために20シリングの代金で1つの風呂桶が用意されたという。
裕福な市民の家庭には子供用の銀の風呂桶もあった。
風呂の世話係は水を鍋や陶器の鉢に用意し、木炭を使う竈とふいごでお湯になるまで温める。風呂桶への温めた鍋の運搬も風呂の世話係が担当した。例えばエドワード2世のために奉仕したロバート・ルワーという人物がいるが、ルワーという姓は風呂の世話役を意味する。エドワード2世の父エドワード1世はウェストミンスター宮殿の浴場に青銅製の蛇口を設置しているが、風呂の世話係は健在だったようである。
エドワード1世王妃エレノアは水風呂と暖かい風呂の両方を利用したと言われる。蛇口に繋がるパイプを辿ると貯水槽とその水を温める竈があり、自由に温水と冷水を操作出来た。カスティーリャ出身のエレノアは、イングランド王室の浴場の更新に大きく影響を与えたかもしれない。
大抵の公衆浴場では川の水を使った。聖ヒルデガルドは入浴用の川の水について言及している。例えばザール川の水は見た目の上では肌を白くさせるが健康に悪く、ライン川の水は健康を害し、マイン川の水は肌を滑らかにするという。
必要ならば水は透明になるまで濾過され、温めたお湯は風呂桶で水と混ぜて温度を調整した。
お湯にはハーブやスパイスが混ぜられ、ローズウォーターやラベンダーが振り撒かれた。
風呂には全裸で入った。15世紀頃には男も女も風呂用の帽子を被っていて、髪の毛は全部その中に入れた。金持ちの女は首飾りも付けたままだった。
風呂では風呂桶に布をかぶせた板を渡して食事をし、ワインを飲み、菓子を食べた。二人で風呂桶に入る時は、板を挟んで向き合った。客向けにリュート弾きが雇われることも、床屋によって瀉血や髭剃りが行われることもあった。
風呂係は主人や客人の身体をマッサージして髪を濯ぎ、そしてときには石鹸を使った。サウナであれば風呂係が焼け石に水を打った。絵画や文献はこの役割を大抵女性が担当していたことを示す。
中世において石鹸液はたまに利用された。石鹸は身体を洗うよりは洗濯物のために使用される。
当時の石鹸は木炭から作り上げられた。西欧のカリウムの豊富な木炭と水あるいは獣脂の石鹸は液体で、地中海地方の塩分の多い木炭とオリーブオイルで作られた石鹸は硬かったという。特にスペイン産のものはラベンダーの芳香があり高価だった。
液体石鹸の色には黒と灰色、白の三色があり、洗いものの色に応じて使用した。
聖ヒルデガルドは灰汁用の木について、ローズヒップやプラムの木の樹皮と葉の灰で頭部で洗うことを提案する。灰汁は水差しで注がれた。身体用には固形のものが使われたようで、デカメロンの第八夜第十話には麝香とカーネーションの香りのある石鹸で体を擦る描写がある。
風呂を出たらシルクやリネンのタオルで身体を拭いてバスローブに着替えた。