人、神を殺すこと
彼は知った。
神とは一体何なのか。少なくとも、彼が見てきた神の在り方を。
彼は気づいた。
自分が彼女にしてやれることを。それが彼の生きる意味だと。
◆
冴えわたる大気が、空に浮かぶ月をより一層輝かせているようだ。
満月である。
天窓から差し込む光が、二つの人影を作り出している。
「満月だな」
男は、ぽつりとこぼした。ただ心に浮かんだことを口にしただけのようである。
「そうだね」
手酌で酒を飲んでいた女も、飾り気もない短い言葉を返した。
喋りたいことがあれば口にするし、ただ酒を味わいたければ一言もないまま過ごす。そんな関係性の二人だ。
「月といえば、知人が面白いことを話していたな」
「なんだい?」
「月は白いそうだ」
男の悪い癖が出ている。
女は、首をゆるゆると横に振りながら、杯に注がれている酒で喉を潤した。そして、苦情をぶつける。
「相変わらず言葉が足りなさすぎる。間を省きすぎだよ」
「ああ、すまない。またやってしまった。知人の息子さんが、月を'きれい'に描けなかったそうだ」
話はこうだ。
息子さんは、通っている幼稚園で、月の絵を描くことになった。近頃では、夜空が雲に覆われていない日の方が少ないので、月自体は過去の写真を、模写というほどしっかりしたものではないそうだが、参考にしたらしい。
「まず、月が線だったそうだ」
「へえ」
知人曰く、円でもなく半円でもなく、三日月とも言い難い、まさに線だったそうだ。
「そして、その息子さんは、月に色をつけなかったそうだ」
「ははん、それで『月は白い』というわけだ」
「その通りだ」
知人は、その息子を病院に連れて行ったそうだ。色の区別ができていないのではないか、と疑ったらしい。結果は問題なし。
「それで、医師の奨めで知人が、その息子さんがお手本にしたという写真を自分の目で確かめたそうだ」
「なるほどね。そうしたら、月は黄色ではむしろ白っぽく、また三日月は一本の曲線に近しいのがむしろ現実に近かった、といったところかい?」
「まさにその通りだ」
知人は男にこの話を語り終えて、「穴があったら入りたい!」と叫んでいた。場所は考えてほしかった。
「何でも、『写真を仕事にしているのに、その実なにも観察できていなかった!修行が足りない!』と、大層恥じていたよ」
「ふむ、実に面白かったよ。言葉というものは、改めて不思議だね」
男は、噛んでいた今夜の肴である目刺しを危うく誤飲しかけた。完全にイワシを乾かしきらずに、水分がその身にまだ残ったそれは、比較的柔らかいのだが間違え気管に入ってしまえばそれはもう苦しいことこの上ない。女が注いでくれた水を一気に飲み干して、なんとか落ち着いた。
「ま、待て。俺は言葉の話なんてしていない」
「そうかい?ボクには、君の知人は言葉によって振り回されていたように思うのだが」
「何でそうなる。知人の息子さんが月を白色で描いたという話だったじゃないか」
焦る男に、女はやれやれと肩をすくめた。
「考えてみた前よ。君はその知人の話で一番面白いところは、実際の月が'黄色'ではないのに、その知人は'黄色'と思い込んでいたということだろう?」
「そうだが……」
「ならば、君の知人はこれまでに本物の月を見たことはなかったのかい?」
そんなことはない。
「過去に月に住んでいて、ボクたちの思う月と違うものを思い浮かべていた、ということは?」
「ない。あいつは、地球から出たことはなかったはずだ」
「ならば、言葉の問題じゃないか」
女はにやにやと男を見つめる。実に楽しそうである。
「……なぜそうなる」
「あれはなんだい?」
女は天窓を指さす。そこには無論、地球の衛星が浮かんでいた。
「月だ」
「それでは、これは?」
女が男に絵を見せた。そのようなものは持っていなかったはずなのだが、この女がどこからともなく物を引っ張り出してくるのはいつもの事なので、男もいちいち驚かない。
女が広げた画用紙には、塔とその真上に黄色で塗りつぶされた円が描かれていた。
「満月だ」
「その通りだ。では、この絵の月は、月かい?」
「何を言っているんだ?お前がこれは月であると言っただろう」
「そうだね。なら、これと」
女が黄色の円を指でなぞる。そして、天窓を親指で示し、
「これは、同じ物かい?」
「そんなことはない」
「どこが違う?これもあれも、月なんだろう?」
男はもう何が何やら分からなくなってきた。
「降参だ。頭が痛くなってくる」
「そんなに難しい事ではないんだけどね。これを見たまえ」
女は先ほどの絵から、塔を手で隠した。そして、手をたたくとわらわらとよってきた絵筆達がさまざまな色で「月」の周りに円を描いた。
「こうなったら、これはなにに見える?」
「黄色の円だ」
「月には見えないかい?」
「ああ」
女は大きくうなずいて。
「そうなんだよ。これは、ただ紙に描かれた黄色の何かだ。だが、これをさっき君は月であると言った。それは、'月'という言葉に'月は黄色である'というイメージが付加されているからに他ならない。そして、君の知人は息子さんが実際の'月'を、まあ写真らしいが、観察して可能な限り再現したものを、'月'であるとは理解できなかった。一体なぜだい?」
男の思考はこんがらがっているが、答えは導き出せた。
「言葉、だな」
「正解だ。'月'という言葉によって作り上げられたイメージが、本当の'月'の色を誤認させていた。現実の対象に関する認知が、言葉が作り上げたものによって、阻害されていたんだね」
分かったような分からないような。まあとにかく、ひとつ分かったことがある。
「それでお前は、俺の知人は言葉に振り回された、言ったのか」
「そうだよ」
女は満足したのか、上機嫌に鳥の唐揚げを口に運ぶ。男は、果たして日本酒に鳥の唐揚げが口に合うのか気になったが、追求はやめた。
「さて、興が乗ったついでに、他の言葉についても教えてあげよう」
「正直、やめて貰いたい」
これ以上、女の講義を聞かされると、男は発熱する自信があった。
「まあまあ、そう言わずに。君だって興味があるだろう?神をも束縛する言葉について」
「う……」
ちょっと興味がひかれてしまった。
女がこうなれば止まらないということを経験的に知っている男は、遠い目をしながら諦めのため息を吐いた。
その時。
「我が主。お客人が来られました」
女の身の回りの世話をしている付喪神から、救いの手が差しのべられた。厳密にいえば、その来訪者からだが。
「おや、こんな時間に珍しい。良い所だったがしょうがない。こっちまで通してくれ」
「助かった…………」
「君、心の声が漏れているぞ!」
◆
彼は、言った。
「でしたら、僕が殺して差し上げます」
神は、返した。
「できるのか?」
彼は、答えた。
「ええ、あなた様のためなら、成し遂げて見せましょう」
神は、微笑んだ。
「そうか」
何度も、何度も、神は、彼女は頷いた。
◆
客人が来るということで、自分が居ては邪魔だろうと男は考えたのだが、女はそれを否定した。
「この時間は、基本的にボクの身内しか来れないからね。別に君が居たとしてもなにも変わらんさ」
「そういうものか?相手の都合もあるだろう」
「その時はその時さ」
家主にこう言われては、男は従うしかなかった。
客人をみた瞬間、男は自分の体が震えるのを止められなくなった。
客人は男性であった。
時間が時間でもあり客人が勤め人であれば、スーツ姿ということは特段不思議ではない。
その客人は、一見柔和な雰囲気を持っている。しかし、闇を纏っていた。
男にはそうとしか表現できない。
そして、その闇が男にはただただ恐ろしい。
息が、苦しい。空気がうまく吸えなくなる。
「相変わらず馬車馬のように働いているようで何よりだよ」
女の声が男にはやけに大きく聞こえた。女は立ち上がり、その客人の体をはたく。
次の瞬間には男の呼吸は楽になった。
「憑いたままだった?」
「全く、闇に親しみすぎるのも考えものだよ。我が兄ながら、身だしなみも整えることができないなんてね」
「いやー、忙しすぎてね。そういう君だって酷いものだったじゃないか。最近は、違うみたいだけど、ね」
「さて、口を慎もうか兄上」
女と客人はずいぶんと親しい仲のようだ。というか。
「兄妹…………?」
「兄です」
「妹だ」
「二人合わせて!」
「…………」
「あれ、のってくれないの?」
流石、兄妹だ。どっちも変人なんだなと、男は理解した。
女が実の兄に水をぶっかけるなどという騒動がありつつも、ようやく無事に色々と落ち着いた。もう男も、先ほどまでの恐怖を感じなかった。
「先頃は、お見苦しい姿をお見せしました」
客人は男に対して、床に手をついて謝罪する。それは、男のこれまでの経験してきたなかでもっとも美しい所作による謝罪だったと断言できる。
「い、いえ、お顔をあげて下さい。こちらこそ、初対面の方に不躾なことを」
「君は謝る必要はないよ。あんなもんここにつれてきた、これが悪いんだから」
一体、女の言う「あんなもん」がナニなのか気にならないといえば嘘になるが、男は恐怖の方が勝ったのでそれを聞くことはしなかった。
「それで、兄上。急いでここに来た理由をそろそろ教えたまえよ」
「ああ、そうだね」
女の兄の背筋がすっと伸びる。一回り身体が大きくなったかのように、男には思えた。
「君には、友人のところへ行って、話を聞いてきて貰いたい」
「ほう──?」
女はじっと実の兄を見つめる。
「いつから?」
「無論、今すぐに」
「こんな夜更けにかい?穏やかじゃないね」
「大丈夫。そんなに、厄介事ではないよ。ちょっと神社まで行って、友人の様子を見てきて欲しいだけだから」
「見るだけ?」
「そうだね、見てくるだけで良いよ。先方には話は通してあるから。ああ、ごめん見てくるんじゃなくて、聞いてきて欲しいんだった」
兄妹は、しばし無言になった。男は、身の置き場がないような思いになる。
やがて、女は頭を横にふりながら、男の肩をちょいちょいと指先でつついた。
「君、今日は飲んでなかったよな。すまないが、ちょっとトライブに連れていって欲しい」
「あ、ああ。別に良いが……」
「悪いね、この埋め合わせはどこかでするよ。兄上も良いな。どうせこれも折り込み済みなんだろう?」
「そうだねえ。君一人で行かせるのはお兄ちゃんとしては少し心配だしねえ」
「白々しい」
似た者兄妹の間には何か通じているものがあるらしい。
だが、男としてはもう少し、
「説明が欲しい」
「ボクも詳しいことは分からない。ただ、このくそ兄上が急げというんだったら、その通りにせざるを得ないんだよ」
女は心底うんざりしているということが伝わってくる声音で、「そんなことないよ~」と手をヒラヒラ振っている食えない兄を睨み付けた。
◆
「やはり、間に合わないか」
神にとっては僅かな間、だが人の生としては長い時間自分に寄り添ってくれた彼も、もう命尽きようとしていた。
「安心、して、ください。必ず、あなたを」
「だが、もうお前は」
「幾年、幾歳、先であっても、寂しがりやな、あなたを、殺して」
彼の手は力なく床へと落ちていく。
神は、ただただ。
それを見ていた。
◆
「ほ、本当に大丈夫なのか……?」
「なにも問題ないさ。というか、君言ってることと表情が一致していないぞ」
男は、手を震わせながらハンドルを握っている。しかし、その口元はだらしなく緩んでいた。よだれとか垂らしそうであった。
「お前こんな化け物マシンに乗れるんだぞ興奮しないオトコノコはこの世に存在しない!」
「ああ……うん」
女にはいまいち男の興奮が理解できない。さっさと出発してくれないかな、と思った。
はあはあと、息を荒げていた男がようやくアクセルを踏んだ。決して静かではない走行音が響き渡る。
「本当に良いのか。これお兄さんから無断で鍵をすったのだろう?」
「そういってるが君、ハンドルを離すつもりはないんだろう?
「まあそうだな。なんなら、俺のものにした……嫌、こんな化け物マシンを維持し続けるだけの財力が俺にはない諦めるしかない」
「君さ、運転すると性格変わるって言われたことないかい?それはともかく、あの兄上はその辺も全部折り込み済みさ。なんせ、愚兄は星見だからね」
「星見?」
初めて聞く言葉に、男は首をかしげる。
「ざっくり言うとお天気お兄さんだな。現に勤め先もそんなところだ」
「分かりやすいな、気象庁か?」
「一応な。ただ、少し違うところはその副産物で色んなことを読めてしまう点だ」
「色んなこと?」
信号が赤になったので男はブレーキを踏んだ。静音仕様が尊ばれる昨今の流行に反して、車のエンジンはうるさく嘶いている。
「例えば、世の流れ」
「ほう」
「人の動き」
信号が青になった。
「そして、未来だな」
「未来」
「そうだ。『星は万物に宿っているから、それを追いかければ未来も予測できて当然じゃないか』だそうだ。何はともあれ、あの兄が急げと言ったのなら、こちらもさっさと行動せざるを得ないんだよ」
反響音が車体を揺する。
「付き合わせておいて申し訳ないが。十中八九厄介なことになるだろうね、今夜は眠れないことは確定だ」
ブォンっと音を立ててエンジンは停止した。車から降りた男は背後を振りかえる。異空間に迷い込んでしまったかのように男には思われた。
大きな鳥居が、月に照らされその影を伸ばしている。
男と女が玉砂利を踏みしめる音だけがその静寂を掻き分ける。
「異空間と君が考えるのは、何ら間違いではないよ。こういった神社なんかは、意図的にそうしてるんだからね」
直ぐ隣にいるはずの女の声は、しかし周囲に溶け込んで消えていってしまう。
「あそこに灯りがあるね、どうやら兄上は今回はしっかり仕事を果たしてくれていたようだ」
「あそこは」
「社務所ではなさそうだね。よもや、ここの主がいらっしゃるところに招かれるとは」
ここの主、すなわち神だ。
◆
神は待った。
私は待った。
百年、二百年、まだまだ待つ。
待つことだけが、私をこっちに留められる楔だ。
ああ、一体神はいつまで待てば良いのだろうか。
◆
招かれた場所は女曰く、拝殿というらしい。
「神がおわす本殿の手前だよ。七五三などで訪れたことはないかい?」
「あるようなないような」
男からして優に二十年以上前のことなので記憶も薄れかかっている。
だが、ひとつだけ引っ掛かることがあった。
「この、拝殿というやつは、ここまで快適に過ごせるような配慮がされている場所なのか?」
神社と言えば、古くからある建物で木造建築であるというイメージが男にはあった。それが、ここは空調によって過ごしやすい気温に管理されており、床暖房まで設置されているようだ。壁に埋め込まれているものは、スクリーンのように男の目には見える。壁は防音加工が施されていた。ここまではまだ、行事などで長時間過ごす時のために手を入れてあると考えられないことはない。
しかし、堂々と鎮座しているグランドピアノと本棚に関しては、神社という空間での使い道が男には分からなかった。
「最近の神社は、ピアノ演奏もするのか……?」
「神々は八百万いらっしゃるんだから、無い、とは断言できないが……」
二人して首をかしげる。グランドピアノはまだ辛うじて結婚式等で演奏されることもあるかもしれないのだが、そうなると本棚の意味が分からない。なんせ、ラインナップが。
「おお、流行りものの少年漫画から、レディコミまで」
「こっちは、いわゆる自費出版の薄い本じゃないか……」
「うん、断言するよ。これは、確実に娯楽用のラインナップだ」
女がはっきりと言いきった。確かにそれ以外は考えられない。だからこそ、違和感が拭えないのだ。
「一体誰がこれを使っているのだ?」
「この部屋の主ですよ」
男は、あわてて声の方を振り向く。植物のような雰囲気の初老の男性がたたずんでいた。
先ほどまで漫画の立ち読みをしていたはずの女は、既に居ずまいを正していた。
「お初にお目にかかります。二十四代目白澤吉右衛門と申します」
「ご丁寧なご挨拶痛み入ります。そちらの男は、私の連れ合いになります」
男は、女の背中で大きい猫が鳴く姿を幻視した。
「本日は、急なことにも関わらず、よくお越しくださいました」
この神社の神主にあたる吉右衛門は、掘りごたつの机に手をついて深々と頭を下げる。
女は優雅に、男は少々ぎこちなく礼を返した。
「先ほどは、私の連れ合いが無作法なことをして申し訳ございませんでした」
お前も同罪だろうが、と男は文句を言ってやりたかったが、女が抱えているでっかい猫に勝てる見込みはなかったのでぐっとこらえた。
「いえいえ、あの本棚に興味を抱いていただけたのならば、持ち主も喜びます。因みに、一言頂ければ貸し出しも可能です」
吉右衛門のその言い様に、疑問を感じた男は、
「その、失礼でなければで良いのですが、その持ち主とは一体どなたのことでしょうか」
「ああ、もちろんここの主にございます」
「それは、吉右衛門様ではない、ということでしょうか?」
女が、男の疑問を引き取ってさらに続けた。吉右衛門は、得心がいったようで。
「おや、お兄様からお聞になられていないようですね。ここの主、すなわち神は生きておいでです」
「なんとっ……!」
◆
彼は探した。
人は探した。
百年、二百年、それは彼が人であり続けるには、あまりにも永かった。
探し続けることだけが、彼をこの世界に押し留めていた。
◆
流石の女も、驚きが隠せなかったらしい。男には、女ほどの知識がないため、相対的に冷静であった。
そして、そんな男だから、ひとつの答えに気づいた。
「もしかして、ここの設備は全てその、神様のものということでしょうか?」
「ええ。元々は本殿に置いていたのですが、何分永い時を生きておられるので、娯楽品も必然的にその量もかさみまして……」
案外、ここの主神は俗っぽいようだ。
女が口を開く。
「申し訳ございません。私としたことが、取り乱してしまいました。吉右衛門様、我が兄に相談なされたことというのは、もしやここの神にまつわる事柄なのでしょうか?」
「ああ、いえ」
吉右衛門は首を横にふる。それを見た女が、心なしかほっとしたように男の目には写ったのだが、錯覚だろうか。
「これは、私自身の悩みなのですが。近頃、記憶がなくなるのです」
「ほう……?」
「記憶がなくなると申しましても、全てではございません。家人が言うことには、脈絡もなく急に出歩いていることがあるそうなのです。しかし、私にはその記憶が全く無い」
男には、思い当たる節があった。これは、女に相談すべきことというよりむしろ医者の方が。
「失礼ですが、それはいわゆる精神疾患の一種のようなものでは?」
「私もそう思うのですが、家人いわく受け答えもしっかりするし、人が変わるような様子でもないそうなのです。少なくとも、私自身であると」
吉右衛門には、何らかの確信があっての判断のようだ。ひょっとすると、その家人というのが女のように特殊なものが見える人種なのかもしれない。
女がゆらゆらと頭を揺らす。考え込んでいるときの癖だ。ピタリとその動きを止めて、女が口を開いた。
「では、その途切れている記憶が戻るときは、何をしていらっしゃるのですか?」
「戻るとき、ですか。ええと、そうですね大体いつも通りここの仕事をしております」
「なるほど。それは、例えば神事など?」
「いえ、それは違います。本当に些細なこと、参道の掃除であったり、事務仕事ですね」
「ありがとうございます」
女が視線をどこかにやる。それが、1ヵ所に定まり、脱力した。「兄上め、恨むぞ……」と男にだけ聞こえるように呟くと。
「今宵、一夜でよろしいので、ここで見張りをさせて頂けませんか?」
「見張り、ですか?ここを」
吉右衛門は、意外な申し出だったのか声を上擦らせる。
「ええ、なんなら野宿でも構いません。この神社の敷地内で過ごす許可を頂けませんか?」
◆
それは約束。
あまりにも短い一時にした約束。
それは約束。
我が身をとして果たすべき約束。
◆
「兄上め……大事なことを言わずに……!」
女はキレながら、吉右衛門が用意してくれたおにぎりを貪っている。
吉右衛門は快く社務所二階の一室を貸してくれたのだ。ここからなら、神社の敷地をまんべんなく見張ることができる。
「なあ」
「なんだい?ちゃんとおかかおにぎりは残しているよ」
「後で食うがそうじゃなくて、結局これは何なんだ」
女は、吉右衛門から話を聞いた時点である程度、これから起こる事態を予測しているようだ。
しかし、
「さあ?」
「さあ?じゃない。誤魔化すな」
「誤魔化してないよ。この後少なくとも吉右衛門殿がここの敷地内にやってくるということくらいしか、分かってないんだよ」
男は驚く。
「先ほど、帰宅なさったばっかりだろう」
「その通りなんだけどね。忌々しいことに、言葉足らずタヌキ愚兄が、ボクにわざわざ『知人を見てきてくれ』って言ったのだから、吉右衛門殿が再度ここに現れるのは確定事項なんだ」
本当に女はなにも分かっていないようだ。男もおにぎりに手を伸ばす。塩の加減が丁度良い。
「ただ、ひとつ気になることがあるんだ」
「ひとつだけなのか。俺には分からないことだらけだが」
「何のために、襲名制にしたのだろうね。神をおろすため?でも、現に主神はいらっしゃる。では、他のものを?型?」
女は問いかけたのではなく、ただ自らのなかにある疑問を形にしたかっただけのようだ。
男はため息を吐きながら、二個目のおかかおにぎりに手を伸ばし、女に叩き落とされた。
一時間ほど経過しただろうか。窓の外を見ていた女が立ち上がった。
「なんだ?」
「吉右衛門殿が来られた。行くぞ」
女は窓を開け、男を脇に抱えてそこから飛び降りた。そのまま参道に向かうのではなく、拝殿の濡れ縁へと降り立つ。
「ここで良いのか?」
「ああ、目的があるのはここだろうからね」
本当にその通りになった。
砂利を踏みしめる音が止まる。
「おや、先客ですかな?」
それは、吉右衛門の声だった。だが、違和感がある。
男が今感じていることを無理矢理言葉にするのであれば、雰囲気が違う、ということになるだろう。
「あなたは、吉右衛門様ではございませんね」
女の凛とした声は、辺りの静けさも相まってよく通る。
「異なことを。私は吉右衛門ですぞ」
「そうでしょうね。ただ、現代の吉右衛門様ではない」
吉右衛門が、口角を高くつり上げた。その表情で男も、確信した。これは、少なくとも自分達が出会った男性ではない。
「面白い。まだ少し猶予があります、戯れにお付き合い願いましょうか。では問題です。僕は一体誰でしょうか?」
「初代吉右衛門でしょう」
「なっ……!そんなことがあるはずがないだろう!」
「正解です」
男の反論は、初代吉右衛門の拍手によって打ち消された。
「一体どこで気づきました?ぼろが出るほどお話もしていないと思いますが」
「名前ですね」
女は気負いなく答える。初代吉右衛門は驚いたようで、目を見開いた。
「そこからですか」
「はい。名前を継がせるということはかつてはありふれたことでしたが、個人の名前も人格の一部だ、という風潮が強まった今はめっきり減ってしまいました。それでもまだ、白澤家でそれを行っている理由は、型のためではないかと推測を立てました」
男は思わず挙手をしてしまった。型とは、一体何だ?
女は、ため息を吐いて。
「後で教えてやるから、我慢してくれ」
「構いませんよ。僕も、名も知らぬ智慧者の講義をお聞きしたいので」
「そうですか……。では、遠慮なく。さて、君は型というものを知っているか?」
女はくるりと男の方を向いた。
「あー、菓子を作るときに使うあれか?」
「まあそうだね。枠組みみたいなものと思ってもらって構わない」
「枠」
「そうだ。今回の枠は、吉右衛門という名だ。後は、丁度月の話を君としたところだったね。あれと同じさ」
月という言葉は、他のイメージ、例えば色、形など、を内包して現実として浮かび上がらせる。今回はそれが吉右衛門なのだろうか。
「なら、何のために?」
「型を利用するため、ですね?」
「いやはや、実に素晴らしい。寸分のズレもない」
楽しそうに話を聞いていた初代吉右衛門は、大きくうなずく。
「良いかい?要するにこの吉右衛門殿は、自分用の入れ物が欲しかったんだ。そして、それは自分のイメージを内包している、つまり似ている入れ物の方が好ましい。それが、ああややこしいな、現代の吉右衛門様の記憶喪失の原因でもある」
「…………まさか。初代が現代の方に度々乗り移っていたのか?」
「乗り移るって言うのは、正確ではありません。あなた方の言葉を真似るなら、僕も現代も同じ'吉右衛門'ですから。乗り移るというよりは、内から生える感覚ですね」
そちらの方が、おぞましいように男には思える。
「それで、現代の方はこの後どうなるのでしょうか?」
「ああ、それは大丈夫です。今まで通り、少し記憶がなくなっているだけですから」
「ならば、問題ありませんね。この後は、私は静観させて頂きますので」
「………………」
内から自分が別のものになっていることを、女は問題がないという。男は、やはりこの女は違う世界の存在なのだと思い知らされる。
「おや、止めないのですか?」
「何をなさるのかは、私は存じ上げませんが、今日は見届けることだけと、頼まれましたので」
「ああ、有難い。あなたとは敵対したありませんでした」
そう言った初代は、拝殿の扉を開く。男と女は、静かにその背中を追いかけた。
一人の女性がいた。
いつからそうしていたのか、グランドピアノの前にポツンと座っている。
初代は待ちきれないという風に駆け寄っていく。 女性は顔を上げた。
◆
「待たせすぎだ」
「あなたにとっても永かったですか?」
「当たり前だ。あんな約束遺していきよって」
「ごめんなさい。でも、もう待たせませんよ、──様」
◆
男の目には、青年と年若き女性が語りあっているように写っていた。
「なあ、君」
「なんだ」
「どうして、涙を流しているんだい?」
問われて、自分の頬に手を当てる。濡れていた。
「どうしてだろうな」
目の前の光景から目が離せない。
青年と女性は、手を取り合って微笑む。
ああ、そうか。
これは、ひとつの物語なのだろう。男も、女も、知らないところで紡がれてきた、ひとつのおはなし。
それが今、実を結ぼうとしているのだろう。
「素晴らしい結末を迎えようとしているからじゃないか?」
「まったく、言葉が、足りてないよ」
女の声はやけに水っぽい。男はそれを指摘せず、目の前の美しい光景から目を離さない。口数が自然と少なくなる。
◆
人と神は、手と手を取って立ち上がる。もちろん物語はハッピーエンド。
カーテンコールの時間。ご覧いただきありがとうございました、と一礼。
◆
人の形をしていた物が、光になって散っていく。
男と女は、互いの体温を感じながら。
ただただ、黙してそれが最後の一欠片も消えていくまで、じっと見ていた。